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Red Rim 黒緋の乙女と円環世界  作者: 32➡1
灰色の車輪編
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8.文明を否定する者



 畔の小脇にちいさく立てられた至極簡素な小屋。屋根と壁だけが立て付けられただけの建造物を、はたして誰かが小屋と呼ぶのであればの話ではあるが。その小屋らしき屋根壁の裡に、これまた年季の入った骨董品まがいの蒸気(スチーム)バイクが眠っていた。


 車体(フレーム)には無数の細かい傷が残り、努めて好意的に捉えれば幾つもの味のあるコントラストを生み出している。継ぎ接ぎになったそれらは所有者の不器用さと、それに劣らぬ並々ならない執着が歪に同居していた。


 絡み合う蔦のように交差した給排気口配管のバルブを順に解放していく。クランクシャフトを手回しするための金属棒を差し込んで、慎重に、一切の力をかけず、キリンジはそれを回した。キリンジにとってその作業は、枯れ葉を崩さずに折り畳むことのように極めて繊細な行為に等しかった。


 凄まじい白煙を吐き出して、蒸気(スチーム)バイクは脈打つように目覚めた。


「失敗せずに済んでよかった」


「しっぱい?」


「10回に9回はバラバラにしちまうんだ」




 6つに並んだ気筒から白く濁った蒸気をまき散らして、キリンジとヒュプノリアは結晶星都の通りを駆けた。


「わっ、わっ。すごい、えーとこれは……なんというか、その……!」


「早いだろ」


「そう、早いです!」


 後部座席でヒュプノリアは弾けるようにはしゃぐ。体勢が崩れそうになるのをキリンジは必至で堪えた。


「おい。あんまり揺らすな」


「あ、ごめんなさい。つい、うっかり。……うっかり?」


 そうしてまた、自分の言葉に考え込んで、黙り込む。キリンジにとってみれば今はそうやって居てくれた方がいくらか安心できた。


 蒸気バイクはマーテル・ナイン第六環区四時方面の通りを、左回りに進んでいく。件の腕の怪物……外敵(エウロン)は標的としてこの少女……ヒュプノリアを狙っていた。その理由も意図も分かりはしなかったが、そもそも外敵(エウロン)が理由をもって人を襲うことなどあるのだろうか。そんなこと、今まで考えすらもしなかったことを、キリンジは今になって思い知った。ただ人々を襲う異形の怪物。悪魔なのだと。そう信じてキリンジは今まで人類の仇敵である化物と戦ってきたのだから。


 その怪物を目の前に、彼女は「お父さん」と口にした。


「ヒュプノリア……お前は」


 そう言いかけて、言葉を飲み込む。不条理な真実を自ら引き摺り下ろしてしまいそうで。


 彼女の素性は未だよく分からない。他でもない彼女自身が自分のことも、自分以外のことも。その悉くを記憶していないのだ。いや、違う。まるで生まれたばかりの赤ん坊なのだ、とキリンジはうっすら理解していた。


 星都の冷たい風がヒュプノリアに羽織らせた祭服(ゲニック)をぱたぱたとはためき、揺らしている。


 鼻先に冷たい感触が走る。雪だ。


「キリンジ」


 すぐ近くで名前を呼ばれた気がした。だが誰に?


 疑うまでもなく、それは背中にすがるヒュプノリアの声だった。


「お前、俺の名前」


「あ、やっぱり」


 いたずらっぽく少女は微笑んだ。


「さっきの黒い人。あの人が、あなたを“キリンジ”って呼んでいたので。あなたは“キリンジ”と言うのですね」


 まるで新しい玩具を買ってもらった子供のように、見たこともない景色を生まれて初めてみたかのように、ヒュプノリアは楽しげに何度もキリンジの名を呟いた。


「キリンジ、キリンジ。雪です、雪!」


 寒空に晒され赤く染まった鼻をずびっと啜る彼女の顔は喜々としていた。


「ふしぎです。わたしはもう雪を知っている、この現象をいちど見て分かっている。だけどこんどは、話したい」


 暗闇に閉ざされた箱の中で、大事な宝物を手繰り寄せるようにヒュプノリアは瞼を閉じた。耳へとこだまする蒸気バイクの駆動(エンジン)音。肌に刺すのはジオ・ハモニカの冷たく凍える風。回した腕の内にあるのは、広く大きな背。深い霧に包まれていた輪郭がだんだん鮮明になっていく。


「……! わかりました、きっと知ってもらいたいんです。キリンジに、わたし自身のことを」


 自分のことなどなにひとつ知らないはずのヒュプノリアは、だがしかし自らの意思と自我でそれを知ろうとしていた。キリンジにとってそれが、一抹の不安と恐怖を搔き立てる要因であったとしても。


「お前の家は、こっちで間違いないんだな?」


「はい、このまままっすぐ”北”へ」


 瞼を持ち上げて、蒼々とした双眸が見据える。マーテル・ナインの結晶建築が煌びやかに光っている。絢爛華麗たる都の、その果てがあるのだとすれば、それはいったいどのようなものか。その景色はどれほどに美しいものだろうか。ヒュプノリアには到底分からなかったが、それでも終着点(ゴール)がどこかだけは知っていた。


「キリンジの“いえ”は、どこにあるのですか?」


「俺の、家……」


 脳裏によぎるのは、地平線までのびる黄昏の夕景。蒸気と土煙が競うようにもくもくと舞う、ひどく埃っぽい世界。洗練されたジオ・ハモニカの街並みとはまるで正反対の、雑多な煙突に排気管……無駄にまみれた西方ヴァーポルム円環パルログの都アイオルビス。そこが、キリンジ・ゴールドフィストの生まれた街だ。


 キリンジ・ゴールドフィストは、誰からの祝福も受けない子供だった。父親は居なかった。この世界で最も彼の誕生を喜ぶはずの母親は、キリンジが産声を上げるよりも先に息絶えていた。


 ――違う! 俺の帰るべき家は“これ”じゃない……!


 無理矢理に頭を振って、忌まわしき記憶を振り払おうとした。それをヒュプノリアの細腕が優しく、暖かく包み込む。そして、


「ほら、これでもう”寒くない”です」


 閉じかけていた扉がゆっくりと、ちいさな少女の手で拙く開かれようとしていた。そうだ……。再びキリンジの記憶に、“家”の情景が映し出されていく。


 周囲の大人たちは禍をもたらす子と呼び、ひとりとして彼に触れようとはしなかった。誰しもがそのままキリンジが息絶えることを神に願い、傍観するだけだった。だが、望まれぬままにキリンジは産声をあげ、この世界に生まれ落ちてしまった。


 祈りを、願いを裏切る形でキリンジは健康に、すくすくと成長した。誰の手を借りずとも、まるでこのルチア・アクシスという世界が彼を生かすかのように生き続けた。そして大人たちの期待通り、キリンジには悪魔の子たらしめる異能が備わっていた。


 破壊。この世のありとあらゆるものを壊し、崩し、突破する。天に与えられたと言わんばかりの類い稀な肉体と、絶望的なまでの不器用さ。それが……それだけがキリンジにもたらされた力だった。


 キリンジの手に触れたモノは、それが“物”である限り、彼の破壊の力の前には為す術無く崩れ落ちていく。ある時は閉じ込められた檻の錠を。ある時は路端の蒸気(スチーム)バイクを。ある時は鉄製の鍋を。ある時は母親を――そのすべてをキリンジは破壊した。人間が人間として絶え間なく培い、育て上げ、鍛え上げて来た栄えある文明という文明を、キリンジは否定するために生まれた。


 母殺し、文明を否定する者たる彼の力を驚異と思い、畏怖した大人たちは、赤ん坊だったキリンジを暗く狭い箱に収納し、幽閉した。無論、文明を否定する彼の前にその箱はわらの家よりも脆く、何の意味も持たない虚幻的な檻に過ぎなかった。それでもその檻が、大人たちがキリンジから命を、精神を護るために必要な処置だということを、誰よりもキリンジ本人が自覚をしていた。


 生かすでもなく、殺すでもない。まるで存在そのものが無いかのようにキリンジは孤独に育った。だが、そんな彼にもいつしか友人は出来た。いつものように檻を抜け、見て見ぬふりを、存在自体を無かったことにされて街中をただ茫然とさまよっていたある時。同年代くらいの子供たちと出逢った。彼らもまた大人たちから再三として訊かされた悪魔の子の恐ろしい悪徳所業を知り、誰もキリンジと接しようとはしなかった。銀色の髪をした上流階級風の出で立ちの少年と、幼い妹を連れた鉄工人(ブラウンズ)の少年を除いて。


 そんなキリンジにとっての“平凡”は4年前のあの日。トワイライト・メルビムで文字通り崩壊した。


 人々の悲鳴と、家々が崩れ落ちる轟音。暗く狭い箱の中で眠っていたキリンジにも、それはすぐ近くへ迫るように聴こえてくる。爆発事故のあった第四環区研究施設。焼け落ちた第六環区の教会。2つの光景が、かつてアイオルビスを襲った災禍の記憶をまざまざとフラッシュバックさせた。


 外へと這い出たキリンジが見たのはまさに同様の光景であった。既に息絶えた人々の肉の塊とも言える屍と、それを喰らう白き天使。周囲の家々は燃え、都市に張り巡らされた配管からは絶え間なく白煙が噴出し続けている。まがいなりにも彼らはそれまでのキリンジの人生におけるすべてを形作っていた人であった。姿なき扱いを受けながらも同時に彼らに生かされていたのも確かなのだ。キリンジは己が力を憎んだことはあっても、決して人を、社会を、世界を憎んだことなどなかった。キリンジは極めて善良な少年だったのだ。そんな善良なキリンジを恐れず、快く友となった少年たちのひとりもまた、キリンジが辿り着いた時には手遅れだった。


 絶望と失意の中、天使は次なる獲物としてキリンジへと襲い掛かった。キリンジにはもう何も残らず、そもそも与えられてすらいなかったのだ。


 それでも、世界はキリンジを壊しはしなかった。


 すべてが終わった地に、キリンジはたった独り、天使の亡骸の前で、その体液を全身に浴びながら佇んでいた。


 一体の歯車人(ギアマン)が、生き残っていたキリンジを発見した。もはや答えられる者も居なくなったその場所で、たったひとり現れた黒緋のトレンチと帽子を被った歯車人(ギアマン)に向けてキリンジの口は自然と開き、たったひとつの問いを投げかけた。


 ――なぜ、俺だけが生き延びなければならなかったのか。死ぬべきは彼らではなく、俺だったはずなのに。


 鉄屑の口元に煙草を咥え、歯車人は答えた。


「お前の存在と力が、神の存在を肯定しようとも、否定しようとも。それがこの円環世界(ルチア・アクシス)がお前に課した、為すべき使命であるならば……お前自身の幕が降りるのはその先だ」


 そして彼はキリンジに「生きろ」と伝えた。


 神様が俺に、なにかをさせるために、生きろだって? この力はそのための力だと言うのか?


 キリンジの問いに答えてくれる者は既にその場には居なかった。


 静寂と黄昏が混ざり合う。どれほどの時間、そこでそうしていたかは分からなかった。だが。


 ――破壊するしか出来無かったはずのこの力が、本当に神に与えられた力だとするならば……だったらこんな災厄は、二度と起こさせるものか。


 振り返ったキリンジの先に、神の使徒たる黒黙の男たちが立っていた。キリンジが彼らの……人々を救済すべく遣わされた機甲使徒(エーカー)の誘いを断る理由など、もはや塵芥のひとつとして存在しなかった。





「だからもう、俺に帰るべき家は無いんだ。俺は、人々を守るために生きると決めたんだから」


 透明に澄んだ風を切り、蒸気(スチーム)バイクは北を目指し走り続けていた。それが彼女を……ヒュプノリアを守ると決めた自分の“為すべきこと”なのだから。


「わたしは知っています、キリンジはつよいのですね」


 背面に頬を当ててくっつくヒュプノリアの言葉が、ちくりと痛く滲んだ。そんなことなど、あるはずがない。俺は誰も救えない。研究施設の爆発事故も。教会も。はじめて(ファザー)と慕った人も。友人であった子供たちも……誰ひとり救えなかった俺は弱い。だけど。


 ならばせめて、ヒュプノリア――こいつくらいは……。


 そう思いバイクを走らせるキリンジに、ヒュプノリアが再び声をかけた。


「ところでその……これはなんですか?」


 彼女が掲げる左手に、バルブのハンドルが握られていた。


「そりゃお前、バイクの蒸気バルブ……」


 そう言いかけて、キリンジの意識は現実へと戻された。からんからんと音を立てて排気管の筒がひとつ、またひとつ地面に投げ出されていく。


「なるほど、これはばるぶ、と言うんですね!」


 諦めたようにキリンジは肩を落とし、瞳をきらきらとさせて握ったままのハンドルを眺めるヒュプノリアを抱えて、崩れ行く蒸気(スチーム)バイクから飛び降りた。



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