雪女
ブトーが言った。
シナへ入る前のカヒの国で聞いた噂だそうだ。そこは大層大きな村で、裏山で妖かしが出ると云う。もう夏の始まりにも拘わらずそこだけ雪が残っていて、出るのだそうだ。雪女が。そして、近づく旅人に冷たい息を吹きかけ脅かしては悪戯を仕掛ける。ただ、今だ死人はでていない。ブトーが通った時も、確かに雪があった。その村がもう目と鼻の先であると。余分な処を省略すると大体こんな話であった。
「雪女を見たのか?」スクナがブトーに訊く。
「いえ、見ません」
「確かめたのか?」
「…………」
スクナは察した。ブトーは妖かしや物の怪の類が大の苦手だ。噂を聞いただけで逃げるように通り過ぎたのだろう。
「そこには、まだ雪が残っていたのか?」確かめるように訊いた。
しかし、ブトーはそうとは受け取らなかった。今話したばかりの事を訊き返されたのだから。
「はい」と応え肩を落とす。またもや、真面目には聞いてはくれぬのかと気が抜けた。
ブトーの顔は情けなく崩れていた。
それが急転、怖い顔に変わった。
私はスクナ様に侮られている。汚名返上しなければ。一人で気を入れ直し、発奮した。
その様子をずっと見ていた者がいた。
ミヤキだ。案の定、腹を抱えている。
それに釣られて皆も笑った。スクナまで。
辺り一帯に笑い声がこだまする。
そして……
峠を越えるとそこに雪山があった。
今はミナヅキ<夏>、雪などある訳がない。例え一番高いハラミ山の頂きでも。現に南に聳える、美しい円錐形のハラミ山に雪はない。
それが、目の前に見える小山だけ、すっぽりと雪に覆われている。
ブトーの話は嘘でも誇張でもなかった。
ブトーがそれ見ろと面白い顔になった。
スクナが言った。あそこに寄って行こうと。
それは紛れもなく雪だった。
触ると冷たい。そして、ここだけ寒いのだ。
頂きへと向かった。
そこには地吹雪が舞っていた。そのせいで先が見えない。
「あの中に誰かいます」ククリが言った。
「雪女だ~!」ブトーが怖気づく。
しかし、ククリの表情は穏やかだ。
「それでは、俺が確かめてみよう」とスクナがシズネを取り出す。
龍笛の音が雪山に広がった。
それが辺りの山々まで届く。
木々が一斉に木霊する。
山の獣が立ち止まる。
鳥達が一斉に飛び立ち、スクナの上で円を描く。
そこには鷹や鳶まで混ざっていた。
その内に、地吹雪が止んだ。
中から現れたのは……雪女だ!
全身白装束で、長い髪まで白い。上から下まで真っ白だ。
顔も真っ白で何も付いていないようだ。まるでのっぺらぼうだった。
その顔に突然、目が浮いて出た。真っ黒の瞳だけ。閉じていた目が開かれたようだ。
ゆっくりとこちらに向かって来た。
それは歩いていなかった。滑っているようにすっーと進んでいる。
近づくにつれ、鼻と口が付いているのが判った。のっぺらぼうではない。
それも……口が笑っている。
そのままスクナの前まで来て……止まった。顔がくっきりと見えた。
いや、これは妖かしではなく人だ。それも、若い女の死人だ。
髪と眉は元々黒いのだろう。雪がびっしりと付いている。
「あなたは何者ですか?」ククリが問う。
死人が口を開いた。
「私くしは隣の山のオズナ様の御先狐でございます」
その証しにと後ろから尻尾を出した。
一本、いやもう一本、いやいやもう一本。三尾の狐だ。
こいつはオサキ(尾裂狐)だ。
一山を雪で覆う霊力がある筈だ。
スクナとククリが名乗る。
狐がツナデと名乗った。
そしてツナデが話す。
「予てから、旅人をたぶらかし噂を広めては、霊験あらたかな巫様が来る事を、今か今かとお待ちしておりました。そして、スクナ様こそ、その巫様であるとお見受け致します」折り目正しい狐だ。
「深い訳がありそうだな」
「はい。まず、それをお聞きください。しかし、ここより都合の良い所がありますので、そちらまでお足を煩わして頂きます」
そう言って、ツナデが口笛を吹いた。
辺りから子狐がすぐに駈け着ける。近くで伏せていたようだ。
ツナデが子狐に何か言うと、子狐がすぐに去って行った。
「それではどうぞ」とツナデが先導した。
スクナはククリを窺う。
ククリが頷く。
たぶらかそうと云う魂胆ではなさそうだ。
着いた所が大きな淵だった。
そこは大葉の蓮に埋め尽くされ、薄紅色の花が咲き乱れていた。
見るからに主が居そうな所だ。
その瀬から水が流れ出し、川へと繋がっている。しかし、川の水がほとんど無い。川幅から見るともっと大きな川の筈だ。単に水無月だからと云う訳ではなかろう。
その訳は淵の上にあった。僅かばかりの水が淵へと垂れている。これは本来、滝であろう。木や草が生えていない所でそれと解かる。
そして、その滝口を大きな岩が塞いでいた。人の家一軒ほどもある。ツナデの都合が良いとはこの事に違いないとスクナは思った。この時までは……
ツナデは黙ったまま、まだ何も話さない。
その内に先ほどの子狐が帰ってきた。それが若い男を連れていた。
その男がツナデに言った。とうとう現れたのですねと。
役者が揃ったとばかりに、ツナデがやっと語り始めた――
その村の名はイスルギと言う。村の真ん中を川が流れ、その川の恵みで村の営みが成り立っていた。穏やかな暮らしであったのだが、時と共に人が増えるに従い、川の両端でいざこざが起こるようになった。それが等々、東の村と西の村に分かれてしまったのだ。そんなある日、両村の長が話し合い、互いの子を娶せようと決めた。
西の長の娘の名をミオリ。東の長の息子の名がハボシ。
二人は大層仲のいい夫婦となった。
それが、去年の大地震をきっかけに別れる事になってしまった。
その訳は、滝の上の石神だった。石神とは滝を塞いだ大岩である。
石神は、元々山の頂きに在った。
それが地震で滑り落ち、滝口を塞いでしまったのだ。
水は山の反対側に流れを変えた。村の川は枯れ、村人は困り果てた。
水の取り合いが起き、等々、争いとなった。
そして……ミオリは西の村に戻された。
悲しみに暮れたミオリが、ある日突然消えた。
そして……淵で死人となって見つかった。
それを知ったハボシは、大層悲しんだ。
ハボシはミオリの墓前で誓った。
おまえの居ないこの世にはもう未練はない、後を追って死のうと。
ハボシは淵に向かった。
その後を墓から抜け出したミオリの死体が付いて行った。
ハボシが淵へ入水しようとした時。
「ハボシさん! 止めて!」ミオリが呼び止めた。
「ミオリ!?」と驚くが、その顔が死人であると気づくと、生き返った訳ではないのかと落胆の表情に変わった。
彼は何の怯えも見せなかった。もう死ぬつもりであるのだから。
「私くしはミオリではありません。オズナ様の御先狐でツナデと申します。死ぬのはいつだってできるじゃないですか。ちょっと待っておくんなさい」
そして事情を話した。
「私くしはミオリを知っていました。彼女は毎日、隣の山までオズナ様参りに来ていました。そしてこうお願いするのです。私の村の石神様が村の川を堰き止めてしまいました。きっと争ってばかりでお怒りなのだと思います。しかし、幾らお祈りしても何もしてくれません。だから、隣のオズナ様にお願い致します。どうか村をお救い下さいと。それがひと月、続きました。オズナ様は縄張りの外だから何もできないと言っていました。そんなある日、ミオリがぱたりと来なくなりました。気になって私が来て見ると、この有様です。そして、あなたの誓いを聞いてしまったのです。私くしはあなたのミオリを愛する心に打たれました。あなたを助けたいのです」
その時、ツナデの耳に何か聞こえてきた。
岩から泣き声が聞こえる。石神が泣いていた。
「童が悪いんだ~!」子供の声だ。
「ハボシさん、聞こえた?」ツナデが訊く。
ハボシは何の事か判らない、そんな表情だ。
「今、石神様が話し掛けてるの。だからちょと待ってて。絶対に死んじゃだめよ!」
そう言うと、ツナデは飛ぶように崖を駆け上がった。
「石神様は泣いていらっしゃるのですか?」
「童が悪いんだよ。全て童のせいなんだ」
「石神様は、まだお子様ですね?」
「そうだよ。前の石神は、一大事が起きたって、後は任せたって、何処かに行ってしまったんだ。童を置いて」
ツナデは、無責任な神だとは口が裂けても言えなかった。
「それで、何があったのか教えて頂けますか?」
「うん。この間のナゐフリ(地震)でここに落ちちゃったんだ。けど、いくらがんばっても動けないんだ」
「そうですね。まだそんな力はないみたいですから。私もこれ程の岩はだめでございます」
「そんな事があってしばらくしたら、ミオリが毎日来たんだ。石神様、村を救って下さい。川を元に戻して下さいって。けど、童じゃ何もできないんだ」
ツナデは、頼りなくて自分の所にも来たとは欠伸にも出せない。
「それから、どうしたんですかミオリは?」
「もうこれしかありません。贄になりますと言って、淵に入って行ったんだ。童は言ったんだ。そんな事をしてもだめだよって。何もできないから、止めてって叫んだんだ。ミオリにはそれでも聞こえなかったようなんだ……」
「そして、死んでしまった訳ですね?」
「違うよ!」
「違う?」
「淵の主が見かねてミオリを助けたんだ」
「助けた?」
「ミオリは死んでないよ。魂が抜けただけだよ」
それはこう云う事でした。
主はミオリが死ぬ直前にミオリを飲み込んでいた。
そして、四つ魂を腹に収めると、現身だけを吐き出した。
魂の緒が切れる前だったので死んではいないのだと言う。
しかし、ここで吐き出すと魂は黄泉へ旅立ってしまうのでそのままになっている。
そして、抜け殻だけが見つかった。
石神が言う。
「童は悲しいんだ。狐のおまえがハボシを助けられたのに、童はミオリを助けられなかったんだから……」そして、また泣き出した。岩が震えている。
ツナデはハボシの所へ飛んでいった。
「ハボシさん! ミオリは死んでいません!」
それにはハボシが驚いた。
「ほんとですか?」
「はい。ミオリは魂が抜けただけで、今は主が守っているそうです」
「それなら、魂が戻れば……」もう死ぬ気は吹き飛んでいる。
「ただ、元に戻す手立てがないのだそうです」
「それではこのまま……」
「それなんですが、私くしに考えがございます」
「何か妙案でも?」
「まず、霊験あらたかな巫を探します。そう簡単にいかないと思われますので、向うから来させるように仕向けます」
「どうやって?」
「そこなんですが、ミオリの現身を穢れから防がねばなりません。それは私くしがこのまま憑いていれば大丈夫でしょう。それより生身の方が心配です。そこで雪を降らせて凍らせます。そして私くしが妖かしとなって人々を騒がせます」
二人はあの山に向かった。
ツナデが手印を結ぶと、真上に雪雲が立つ。
たちまち吹雪となった。ミオリの現身が真っ白になった。雪女だ。
ハボシが飛んで返る。「雪女が出た~!」と煽りながら。
辺りからすすり泣きが聞こえる。その中でもブトーは号泣していた。
スクナがククリの顔を窺う。
ククリが頷く。
ククリが神入りした。
皆が見守る。何とかしてやりたいと祈りながら。
ブトーも何をしているのか判ってきた。
「ツナデ、オズナ様はハリ(水晶)の玉をお持ちではないか?」突然ククリが訊いた。
「は、はい。神宝の玉を。しかし、何故それを……」
「それはいいから、すぐに借りてきておくれ。それができればミオリを元に戻せます」
ツナデが返す刀で駆けて行った。
ククリがあらましを話す。
「ヤス様から術を授かりました。道反玉の法です。これは離れた魂を帰す技です。ホウオウの力を借りて行います。ホウオウは離れた所へ瞬時に飛べますから。但し、心に行き先が浮かんでいなければなりませんが。その力を聖なる玉に込めると道反玉となります」
そう説明していると、早々にツナデが玉を携えて帰ってきた。
早過ぎるとブトー以下が驚く。
「お借りしてきました。オズナ様は、いやいやながら快く承れました」どちらなのかよく判らない。多少ツナデが強引に持ってきたのだろう。
ククリが玉を受け取る。
それは、にぎり拳程の大きさの清らかな水晶玉であった。
神宝と言うだけあって、人の手では到底作れる代物ではない。
「それでは備えに入りましょう」ククリが言う。
「ショウキとアギバは見張りをお願いします。ミオリが物の怪に狙われるとも限りませんので」
ショウキとアギバが頷く。
「ゴンタをこちらに」とミヤキに命じる。
和琴が準備される。
「まず、辺りを鎮めましょう。スクナもお願い」
スクナがシズネを携える。
笛と琴の音が木霊する。
すると、手間が省けたように淵の主が顔を出した。
それは、大きな蝦蟇蛙だった。
蓮を掻き分け淵から上がってきた。人が見上げる程大きい。
淵の際で止まった。淵からは出ない。
ククリが蝦蟇に頷き手を止めた。次いで笛の音も。
蝦蟇の主には事情が飲み込めているのだろう。話は聞こえていた。
ククリがランの羽飾りをすっと引き抜く。髪がさらりと解れた。
右手に羽、左手に玉を持つ。
掲げた右手に叫ぶ。
「出よ! ラン!」羽が光る。
すぐに炎の鳥が飛んできた。
ククリの前に着地すると、ランの姿に戻った。
「ランよ、力を借りますよ」
「やっと、私の出番ですわね」雄である。
「そのままそこで待っていて」
「はい」
「ツナデ。ここへ横になりなさい。そして抜けなさい」
ここでツナデが本当の姿を現した。
横になったミオリから狐が現れる――とククリ以外は思っていた。
しかしそこに現れたのは、妖艶な女の姿だった。
年がよく判らない。若いのか老いてるのか。但し、顔には皺ひとつない。
しかし、尻尾が三本上を向いている。それが狐である唯一の目印だ。
ツナデはミオリの顔をじっと見つめていた。姿からは想像もできない優しさが窺える。
「そうだ! ミオリの現身を暖めないと……」ククリの独り言だ。
ククリが少し考えている……そして言った。
「スクナ。カツラギの力を貸して」
スクナは頷くと、天狗面を取り出した。ククリの意図を直ぐに見抜く。
被ったスクナが大天狗に変身した。
カツラギのホウオウ党霊は火の術を得意としているのだ。
スクナのカツラギがミオリの現身に手を翳した。
火の禊ぎが始まった。
ミオリの現身が見る見る赤身を取り戻す。
ミオリは……ただ眠っているだけのように見える。
ククリがミオリの髪の毛を一本引き抜いた。
それを水晶玉に括り付け玉の緒にした。玉が振れるようになった。
「これで仕度が整いました」
「道反玉の法を始めます」巫女の顔になる。
「言挙げます! この玉の名はフル玉!」
玉が光る。
「ホウオウのランよ! フル玉に宿れ!」
ランが水晶玉に吸い込まれた。透き通った玉が赤くなる。
「ひと。ふた。み。よ……」数える毎に赤い輝きが増していく。
「いつ。む。なな。や。ここの。たり! ふるべ。ゆらゆらとふるべ」輝く玉が真っ赤に振れている。
「淵の主よ! ミオリの魂を解き放て」
蝦蟇が大きく口を開いた。
中から四つ魂が浮いてくる。
「ランよ! ミオリの魂をミオリの身の元へ戻せ!」
玉から赤く輝く光の鳥が飛び出す。
すぐに四つ魂を抱えると急旋回する。
そのままミオリの現身へ飛び込んだ。
……ランが突き抜けた。
ランからは輝きが失せていた。
代わりにミオリの現身が光っている。
その光が徐々に薄くなり消えた。
すると……鼓動を打ち始めた。
ハボシがミオリの側に行く。
ミオリが目を開く。意識が戻った。
玉へと戻っていたランにククリが言う。
「ランよ! フル玉から解き放つ!」
ランが玉から姿を現す。
「ありがとう。ラン」
ランが得意げに頷くと飛んで消えた。
道反玉の法が終った。
「まだ終ってはいないぞ」スクナが誰に問う訳でもなく言った。
「あの石神を何とかしないと」
大本の原因はあの大岩が滝を塞いだ事にある。
スクナがカツラギに語った。まだ大天狗のままであった。
おまえの術で何とかできるかと。しかし、あの大きさではさすがに無理だとの返答があった。
そうなると、後はスネに頼るしかない。いや、鬼のオンの力に。
スネは簡単だと語った。後ろの鬼面からである。
大岩を下に投げ飛ばすぐらい朝飯前だと。
スクナが天狗面を外した。
そして、鬼面を付け鬼に変わろうと思ったが、今はできない。下にはまだ動けないミオリが居る。
とりあえず、全員村へ帰す事にした。
そして、残ったのがスクナ……とツナデだ。
ツナデはどうやって動かすのか興味があると言う。
スクナは思った。あれほどミオリとハボシを気遣っていたのにどう云う風の吹き回しか。もう自分の出番は終ったと云う事か……ツナデの功績を思えばそんな事は大した懸念ではない。微笑みながら言ったその口元に何か含む処を感じたのだが……
スクナは天狗面を被る。大岩へと飛んで行った。
すぐに鬼面へ代える。大鬼に代わった。
大岩を担ぐと淵の端へ投げ飛ばした。
大音響が立ち、淵が揺れた。
蝦蟇蛙の主が驚いて、ガマの油に塗れているだろう。
滝口に水が戻り、滝が甦る。
スクナが天狗になり飛んで降りた。
石神の様子を窺う。
(スクナさん、ありがとう)童神が喜んでいる。
(おまえはそれでも神か!)スネが突然、恫喝する。
そして、童神が泣き出した。
(スクナ。これではだめだな)神であるなら童神だとて許されない。
(何かいい手立てがあるか?)
(客神を呼ぶしかないだろう。)
(そう云う手があったか)
(今から我が眷属を呼ぶから、身を貸してくれ)
スクナの面が鬼に代わる。
スネが右手を揚げる。
「来たれ! 我が眷属!」スネが叫ぶ。
雷雲が渦を巻いて真上に集まる。
雷鳴が起こり稲妻が走る。
落ちた場所が石神の大岩だった。
(こいつが当分面倒を見てくれるよ)
スクナが鬼面を後ろに戻す。鬼からスクナに戻った。
ふと周りを窺うと、ツナデがいない。
よく探すと、端の方で震えている尻尾が見つかった。
ツナデが三本の尻尾に包まって震えていた。
「ツナデ。大丈夫か?」尻尾に近づく。
スクナの声に気づくと顔を上げた。泣き顔だった。
雷に恐れを抱き、泣いていたのだ。
スクナが後ろめたさを感じながらツナデの間近に迫った。
……ツナデが懐に飛び込んだ。
「ツナデは雷が怖いのです」胸の中でそう言った。
しかし……その顔はもう泣いていない。それに震えも止まっている。
「それは突然悪かった」
「いいえ。その代わり、もう少しこのままで……」
「そんな事なら構わないよ」
細かい事にも気づくスクナであったが、ツナデの豹変が見えない。
「ツナデにお願いがあるのだけど、聞いてくれるかな?」
「はい。ツナデはスクナ様の願いなら、何でもお聞きします」
「何でも?」
「はい。何でも」
「それなら……俺の式になってくれ」
「えっ! 式……ですか?」
ツナデがスクナから離れ、顔を窺う。
「それは……私くしが獣と云う事ですか……」ツナデの顔から涙が溢れる。本物の涙だ。
スクナが困った。そして目を反らす。
「ひどいです! 確かに私くしは御先の狐ですが、この身は人と変わりません」声が震えている。
その時、ツナデがまた豹変した。
「なんなら証しとして、ご覧になりますか?」妖艶な女だ。
ふとその顔を見たスクナが……魅了された。
ツナデの虜の術中にはまった。
(こらっ! スクナ!)観かねたスネが助け舟を出した。ツナデに聞こえないように。
スクナが我に返った。
「人と変わらない事は解かった。しかし、俺とククリはカタカムナギにならねばならない。その為にも、聖なる獣を六体探さなければならないのだ。ツナデなら、申し分ないのだが……」
ツナデは魅了が失敗した事に気がついた。てっきり、はまったものと思ったが……仕方なく諦めた。
「解かりました。何でも聞くと言った手前、お受けせねばなりませんね。但し、そのお答えはここではできません。私くしは、オズナ様の御先ですから。今から伺って参ります」
そして、明日オズナの社へ向かう事になった。
翌日、村を離れた。
昨夜は熱烈な歓迎を受けた。ミオリはまだ起き上がる事もできない。しかし、ハボシとの再婚が叶った。スクナが祝いに龍笛を披露した。その席で村長が言った。村の名を改めたいと。東と西が和解した事。前のイスルギの神がいなくなって客神に代わった事。それが理由だと言う。そして、その名をスクナに決めてほしいとも。本来、名を改めるのは神の手中の内だが、今回は問題ないだろう。スクナはウスイ(笛吹)と命名した。
一行はオズナの社に向かった。
社が見えた所で、鳥居の下でツナデが迎えに来ていた。こちらに向かって手を振っている。
この様子なら式の件は大丈夫だろう。そう思いながらスクナが手を振り返す。
スクナが着くまでツナデは、小娘の様に手を振り続けていた。
スクナがツナデに期待の顔を向ける。
ツナデが口を開いた。
「件の話はお忘れ下さい」
「…………」スクナは言葉が出ない。
「オズナ様は……否と言われました」ツナデが傷心に変わる。
スクナも傷心している。
ツナデがその代わりにと神宝の玉を渡した。
「オズナ様がスクナ様のご活躍に贈れと賜りました」
またもや強引に持ってきたのだろうか? いや。御先にそんな事ができるとは到底思えない。そんな簡単に神宝を託す、オズナ神の心中が解からない。その理由に全く心当たりもなかった。
そんな事を考えていると、ツナデがまた一つ何か差し出した。
「これは私くしの尾の毛を紡ぎ編んだお守りでございます。オナリとしてお納め下さい」
沈黙のスクナの首に掛ける。
……その隙に頬へ口付けした。
「ツナデいい加減にしなさい! スクナは私の夫です」
ククリが怒った。-私の-が強調されていた。
それに対しツナデが食って掛かった。
「いいじゃないですか。私くしは側女でも構いませんことよ」
それを聞いたククリが豹変した。
「この手管狐~!」とうとう罵声を浴びせた。
ククリがはたと気づいた。これでは逆効果だ。ツナデの思う壷だ。
しかし……
ツナデの青い衣が目に入った。
それは……月草の花の色……
ククリはもう気持ちを抑えられない。
最後の切り札を切る決心をした。
ツナデの前へ走って行く。
ツナデに顔を近づけ、睨みつける。
「オズナ神の御先狐○○○○○○○○○○よ。もう私にたて突くのは止めなさい」目の前で囁く。
ツナデの胸に焼きついた諱を見たのだ。
ツナデが狐につままれた顔になった。
これではツナデの完敗だ。
ツナデは二度とククリと張り合えない。
すうーと涙が頬を伝う。
…………
スクナ一行が去って行く。
ツナデは泣き顔で見送った。
等々、姿が見えなくなった。
ツナデの顔が怒りの形相に変わった。
鳥居の奥へと消える。
社の前ではオズナが待っていた。九尾の狐の姿で。
「しょうがねえだろう。尾裂狐はおまえしかいないんだから」言い訳がましい事を言う。
神々しさの欠片もない。狐になると、いつもこうなるのだ。
「それは私くしのせいではありません!」
「私にも力に限りがあるのだ」
「本当ですか? 私くしにはわざとそうしているとしか、思えませんが」
「そんな事はないぞ」
「オズナ様はもう少し神々しくして下さい。狐になるのもほどほどに……もしかして、自分の御先に恋心でも抱いているのですか?」
「馬鹿な事を言うな! そんな奴はとっとと……」
「とっとと?」
「その手には乗らんぞ。ツナデ」
その時、例の子狐がツナデの所に顔を出した。
ツナデが子狐の頭を撫でながら言った。
「早く尾裂狐になってね。タマモ」
その頃、スクナ達は雪山の辺りにいた。
スクナがククリに言った。
「雪はすっかり溶けたようだね。大丈夫だよククリ。ツナデは優しい狐だよ。ミオリを身を切って守っていたじゃないか。ククリの事だって、それほど粗末には扱わないよ」
「私に対しては、優しさなんてこれっぽっちも持ち合わせていませんでした。何を言ってるのスクナ?」と言ってスクナを見た。
すると、夫の表情が変である事に気づく。
さてはあの口付けでは? あれはツナデの魅了の術だったのか? しかし、魅了の術はその気がない者には、全く効かない筈だ。と云う事は……私の夫はツナデに少しでも気があった事になる。
そう思ったら、悋気が目覚めた。
その時、スクナが追い討ちをかけた。
「やっぱりあそこまでしなくても善かったんじゃないか。あれはやり過ぎだよ」
ククリは自分でもそう思っていた。それが尚更、腹に据える。
悋気が怒気に変わった。
「スクナ!」魅了の夫を呼ぶ。
スクナが振り向いた。
いきなり頬を平手打ちした。
思わぬ大きな音が響いた。
皆が何事かと注目した。そして、ククリの表情に気づくと、すぐに素知らぬ振をする。
スクナが正気づいた。
ククリがじっとスクナを見ている。
「何か言いたいようだな」スクナが気まずそうに言う。
「べつに」
「俺は聖なる獣の三体目が手に入らなくて残念なだけだ。それとも、気を許したとでも思ったか」言い訳になっていない。
スクナが自分の膝を叩いた。思わぬ力が入ったので手が赤くなる。
「ぜんぜん」ククリが応える。ククリの手も赤くなっている。
最後までツナデに手を焼かされる二人であった。
ククリは、怒りに任せて叩いたのではない。夫の醜態を見ていられず術を解いたのだ。そう自分に言い聞かせる。裏を返せば、それ程スクナが好きだと云う事だ。
一行は気まずい雰囲気の中、ツナデの恐ろしさを思い知らされた。