夫婦巫 四
屋敷中が寝静まった頃。
ククリが突然、床からむっくり起き上がった。
そして、そのまま部屋を出て行った。
回廊を抜け、裏口を抜け、母屋からも出て行った。
とうとう、母屋から外れた社務所まで来た。
その裏口から中へと入る。
その部屋は、真っ暗ではなかった。明り取りから月の光が射し仄かに明るい。
戸口から土間の奥へ進んで行くと、その先には引き戸があった。
それは少し高い所にある。
その戸を開こうと踏み石を登った。
その時、漏れてきた月光がククリの顔を照らした。
ククリの目は閉じられていた。
戸を少し滑らせると、中は漆黒の闇であった。
ククリは、そのまま闇へと消えた。
足音が奥の方へと遠ざかっていく。
その音が止むと、高い所で木と木が触れ合う音がした。
今度は、同じ音がその真下でする。木でできた何かを板葺へ降ろしたようだ。
ぱかっと木の蓋を開ける音がした。
闇の中に鬼の神楽面が浮いて出た。目玉が飛び出し、大口を開けている。
それは、仄かに光を帯びていた。
いや、これは精霊の宿ったショウメン(精面)だ。この光は、精霊がいる事を示す。
ククリの手が鬼の面に伸びた。
箱から面を取り出すと、顔に近づけた。
光がククリの顔に反射した。
暗闇の中、目を瞑ったククリの顔と鬼の面だけが、宙に浮いて向き合っている……
(兄上! 聞こえますか?)
(……その声は……ヤスかい?)
(スネ兄様!)
(やっと、助けに来てくれたか)
(そうです。が、違います)
(…………)
(スネ兄様は、もう懲りましたか?)
(ああ。もうとっくに懲りている。父上はまだお怒りか?)
(いいえ、まだ。シュクザの方が付くまでは……)
(そうか。それでヤスが来たと云う訳か)
(はい。スネ兄様が懲りているようであれば、面目を替えられるようにと)
(面目とは今の俺にはおあつらえ向きだな。解かったよ)
(それではお願いがあります。)
(その願いを聴けばここから出してくれるのかな?)
(はい。父上から承っています)
(鬼の呪いもかな?)
(それはお聞きしていません)
(解かった。取り敢えずその願いを聞いておこう)
(はい。ハヤイの依代のスクナと私の依代のククリを、カタカムナギにさせる事になりました。その手伝いをさせろとの事です。これはシュクザへの罪滅ぼしでもあります)
(…………)
(その手立てとして、篭目封じを極めさせる事が、今回の目当てです)
(選りによって、シュクザと同じ篭目封じとは)
(兄上! 私からもお願いします)
(解かったよ。それで、スクナとの段取りは決まっているのか?)
(はい。明日、ムゼンに面を持たせスクナを訪れさせます。その時に、面の封を解きますので……)
――その夜、ククリはこんな夢を見ていた。
翌日、ムゼンがスクナを訪れた。
ムゼンは三十半ばの男で社務所の長をしている。有能な神楽面の面打師だ。スクナの父シュクザに見いだされ、父の旅にも同行した。そして、十一年前、一人だけで戻ってきた。その時、鬼の面を一つ持ち帰っていた。
「ククリ様から面を持てとの命で、罷り越しました」
「ククリが?」スクナには見当が付かない。
ムゼンはその訳を明かさなかった。甚だ口数の少ない職人だ。
ムゼンは二人の弟子を連れて来ていた。
一人はスクナも知っている。ショウキと云う七才の少年だ。両親がなく、ムゼンが親代わりだ。
もう一人は初めて見る。顔の整った二十代の男だ。
ムゼンが無言で面箱を差し出した。
遅れて、両脇の弟子も面箱を差し出す。
面箱が三つスクナの前へ並べられた。
その時、ククリが現われた。
「そこで開けないで!」と慌てて近づく。
「場所を移しましょう」
スクナの部屋から庭へと一同が移る。
庭の真ん中で神楽面のお披露目となった。
ムゼンは相変わらず何も明かさない。
代わりにククリが仕切る事になった。
「この面はシュクザ様が封じた精面です」
「何故ククリがそんな事まで知っているんだい?」ククリを見る。
ククリがスクナに顔を向ける。左目が物を言っていた。
スクナは事情を聴く事を諦めた。
「精面とは?」しかし、全てを諦めた訳ではなかった。
「モノを精霊に封じた面の事です。または、封じる事を目当てに作られた面です」
「それでは、その中にモノが宿っているのだな?」
「はい。これからモノを呼び出しますので、スクナはそれを式にして下さい」
「どうやって?」
「スクナはまだ術を持たないので、力でねじ伏せて下さい」意地の悪い笑顔だ。
「…………」
「もし負けると、面に喰われます」もっと意地が悪くなった。
「三つと戦うのか?」
「いいえ、一つだけで大丈夫な筈です」
「筈?」
ククリが慌てて口を押さえる。
面箱の蓋を開けて下さいとククリが言った。
三人が蓋を開ける。そして、後退る。
スクナが順番に覗き込んだ。
左が天狗面だった。口をぐっと噤み見下している。高慢な天狗そのものだ。
真ん中が鬼の面。目が飛び出し、大口を開けている。
右が河童の面。目が垂れて酔っているような剽軽な顔だ。
「河童から行こう」決断は早い。
「いいえ、鬼からにして!」ククリがまた口を押さえる。
いくらなんでも変だと思っているだろうとスクナを見た。
それまた、左目でねじ伏せた。
「それでは、スクナ。鬼の面の鼻を三回擦って下さい」
スクナがそうすると、面から煙がもくもくと立ち昇った。
煙はどんどん人の形に変わって、鬼となった。
身の丈は屋根より高く、肌は赤黒く赤金の様。顔は面と同じで、頭には二本の角がある。
鬼がゆっくりと頭を廻らすと、スクナで止まった。
「よ~くもやってくれたな~! シュクザよ!」顔に似合わぬ精悍な声だ。それに、妙に芝居がかっている。
のっしのっしとスクナへ近づき、踏みつける。これをスクナがひょいと避けた。
右手が伸び掴み掛かる。スクナが右に避ける。
左手が伸び掴み掛かる。スクナが左に避ける。
スクナが後ろへ回り込む。鬼が追いかけて身を捻る。
また、後ろへ回る。鬼が追いかける。
鬼がぐるぐる回りだし、尻餅を搗いた。
スクナが鬼の背を蹴上がり、肩に乗る。
「角をへし折ってやるぞ!」と二本の角に掴み掛かる。スクナの力では折れないだろう。
しかし、鬼はあっさり降参した。
余りに呆気ないので、スクナが短剣を取り出し、鬼の目に翳した。
それにはククリが青ざめた。スクナが剣を持つなど思ってもいなかった。
「傷付けてはいけません! 式にするのですから!」
とっさのククリの慌てぶりにスクナは何か感づいた。
「それでは名を名乗れ」
「……長い間眠っていましたので度忘れしました。今思い出しますので、しばしお待ちを」
鬼も剣で戸惑った。とっさにスネと言いそうになる。
「オンです」突然、ククリが答えた。
「いや、本当の名を名乗れ! お前は何者だ!」スクナは見抜いた。
スネはとっさの言い訳が思い付かないのでおどおどしている。
それが、急に落ち着いた。開き直ったのだ。結構、気が短い。
スネは正体を証し、シュクザとの経緯まで話そうとしている。
(ククリ止めさせて! 兄は全てを明かそうとしています。今はまだ駄目です! シュクザの事より篭目封じが先です)ヤスが頼む。
ククリは迷っている。
シュクザ様の経緯を自分も良く知らないけれど、スクナには早く知って貰いたい。
カタカムナギに成る事が先だとしたら、スクナを騙さなければならない。
(ククリ迷わないで! 篭目封じが先です)ヤスが必死に諭す。
気拙い雰囲気が漂う中、窮地を救う者がいた。
「そのお方は神です。どこぞの神かは存じませんが」ムゼンであった。
「私くしはシュクザ様がこの方を封じる時に、立ち会いました。姿は鬼ですが、中は神。何かの呪いを掛けられているようでした」ムゼンはシュクザの事をよく知っている。しかし、その先は話さない。
鬼が口を開いた。
「そうだ。私は鬼の呪いを掛けられた神だ。昨夜、ククリに頼まれて、おまえの力になる事で出して貰う秘め事を交わした」
「それだけなら、こんな芝居はいらないと思うが」
「それは、隠す為だ。神が鬼の姿では面目も無いからな。それから、ハヤイとは良く喧嘩した。もしかして、起きるかとも思っていた」
スクナはまだ得心していない。憑神を知っているのは何故だと疑問の顔を向ける。
それに鬼が応えた。
「俺の名は、スネ。ヤスの兄だ。だから、ハヤイとは馴染みだ。それから、俺は神だから式は執らないぞ。鬼として式を執ろうと思ったが」
スクナはそこで大方、納得した。
「それで、一つだけで大丈夫な筈とは」スクナが残りの面の事を言っている。
「その二つの面は、俺の命には逆らわない。そろそろ出しみろ。いい加減待ちくたびれてるだろう」
スクナが天狗面の鼻を擦った。
鷲鼻の大天狗が現れた。スクナが今まで見たどの天狗よりも大きい。キビトから天狗の大きさは神通力の大きさだと聞いていた。戦っていたら全く勝てそうにもない。
「ホウオウ党霊のカツラギと申します。お見知りおきを」大天狗が名乗る。
「ホウオウを知っているのか?」思わぬ名が出たので、スクナが喜ぶ。
「もちろん、御先でございますので」当たり前の事を訊いてしまった。
「俺はホウオウを式にするつもりだ。その時は頼むぞ」
「畏まりました」
「それでは、式を執る……
言挙げる! ホウオウ党霊のカツラギを我が式とする」
大天狗が、光を帯びた。
「刻が来るまで面で待て。カツラギよ、面に戻れ!」
大天狗が面へ吸い込まれた。
次に、河童面へ移る。
河童も姿を現した。河童も大河童だった。河童も神通力が……そんな事は聞いた事がない。それでも、何らかの力は持っているだろう。しかし、こいつなら何とか勝てそうだ。
「レイキ党霊のクマリセと申します。只の飲んだくれですが、よろしくお願いします」
酔っ払いに見えなくも無い顔だ。嘴があり、頭に甲羅と同じ皿がある。そして、背中に大きな甲羅をしょっている。
レイキと言ったので、ここでも喜ぶ。
「タチのレイキ党霊か?」
「左様でございます」
「レイキも式にするつもりだ。その時は頼むぞ」
「それは無理でございます。私はそこの長でしたが、全てを妻に任せきりで、酒ばかり飲んでいましたから」
「それでは、妻の名は?」
「アマゴでございます」
「それでは。アマゴに頼もう。その刻は執り成してくれ」
「それも無理でございます」
「……喧嘩でもしてるのか?」
「いいえ、そう云う訳ではございません。今、御先のレイキは品切れです。ただし、一ついたのですが……盗まれました」
レイキ党霊は、かなり間の抜けた奴らばかりだ。
一応、式を執っておくつもりだ。
「言挙げる! レイキ党霊のクマリセを我が式とする」
大河童が光を帯びた。
「刻が来てもそのままだ。クマリセよ、面に戻れ」
大河童が面へ吸い込まれた。
「スクナよ、クマリセを軽んじるな。あれでも水の扱いに長けているぞ」残ったのは鬼だけだ。
「鬼は、オンと云うことでいいのかな?」
「いいや、スネでいい。それより、鬼の面だけは肌身離さず着けていろ。頭の後ろでいい。何かあったらすぐに助けられる」
「解かった。それではスネ。面へ戻れ」
スネは鬼の面に戻って行った。
スクナがムゼンに寄っていく。
「そう云う訳で、この三つは貰っていく」
ムゼンが頷く。
ククリも寄って来た。
「謀り事は失敗しました」ムゼンに言う。
ムゼンが笑いながら頷く。
「それでも、丸く収まりました」ムゼンもぐるであった。
「ムゼンに頼みがあります。その子を旅の供に連れて行きたいのです」弟子の少年の事だ。
「ショウキですか?」
「ショウキと言う名ですか。この子は……御容が大きいのです。それをいっぱいにしてあげたいのです」
御容とは五番目の器の事である。人には四つ魂があり、その他の魂が宿る場所である。しかし、神が憑くか、モノが憑くかは判らない。ククリには見える。だから、聖なるモノが憑くようにと導くつもりだ。
ショウキがムゼンの顔を窺っている。
二人とも、何が大きいのかよく判らない。しかし、ククリ様が言うのだから、それはとても良い事なのだろう。
「いいだろう。行って来い」ムゼンが許した。
ショウキの顔が笑顔に変わった。
「スクナ様! ククリ様! よろしくお願いします」
スクナは、何も口を挟めずにいた。
ムゼン一行が帰る時に、もう一人の弟子の美青年が、ククリに挨拶した。
その時、ククリの顔が赤くなるのを、スクナは見逃さなかった。
「ククリ! 今日の様子が可笑しいのは、このせいか?」
ククリは悟られた事に気づいた。
「余りにお美しい顔なので、ぽっとしただけです。心変わりではありません!」むきになった。
「本当に、心変わりではないのだな」
「そんな筈はありません。美しいものを美しいと思って何が悪いのです!」開き直った。
スクナの気分は良くないが、もちろん信じていた。それより、これ以上言うと大変な事に為りかねない。ククリの性格がよく解ってきた。勝気で怒らせたら怖そうだ。何よりあの目は怖い。全てを見抜く。しかし……優しい。
同じく、ククリもスクナの性格を解ってきた。惚けたようなふりをするが、実は周りをよく見ているのだと。そして……正直だ。
こうやって、二人は夫婦巫になって行くのであった。




