―海くんレベルあげはかどってます―・上
窓の外は真っ白だった。
初めての北海道に、隣には陸。
まなの胸はずっとドキドキしっぱなしだ。
――そして海は、まな以上に浮かれていた。
「海、そのテンションで街歩くと転ける」
陸が兄らしく注意する姿が何だか新鮮だった。
この二人が兄弟だということは情報としては理解しているが、三人一緒にいる時間は今まではほとんど無かった。
あの同窓会の夜くらいなので、何だか改めて面白く観察してしまう。
「陸くん、すっかりこっちの人になっちゃったんだね」
まなの尊敬するような瞳の中に、ほんの少しの寂しさが混ざる。
陸は苦笑しつつ、そんなことないよと答える。
「俺もまだまだ歩くのは慣れなくて怖いし、運転なんて絶対無理だし、家の寒さは堪えるし……次の転勤は暖かい温暖な地方だといいなと思っているよ」
「でも、食べ物はおいしいし、人は温かいし、嫌いじゃない、だろ?」
海が寄り添うまなの反対側から陸に絡む。
海の言葉に、陸が目を細めて笑った。
「うん、みんないい人ばかりだよ。
初めての赴任先が環境としては厳しいけど、ここで良かったって何度も思ったよ」
「きっと陸くんが真面目に頑張っているからですよ」
まなが笑う。
陸はまた頬を赤くして、そうかな、とはにかんだ。
新千歳空港から電車に乗り、札幌へと向かう。
「そういえば、宿泊先とかは決まっているのか?
まさか、ホテル取れなくて二人同じ部屋とか言わないよな?」
陸の質問に、まなはどきりとした。
「んー……同じ部屋になるかもしれない」
海の答えも曖昧だ。
「はぁ?」
陸の語気が強くなる。
「というか、兄ちゃん泊めてくんない?
ホテルはさすがに取れなくて、まなとネカフェ行こっかって話してたところ」
「海、いきなりおうちにって……迷惑だよ。
陸くんは気にしないで……」
まなが遠慮がちに断ろうとしたところで、陸が静かに首を振る。
「迷惑じゃない。
むしろこっちに滞在中は俺の家以外に泊まらないで欲しい。
海も。
二人ともこっちに来るのにお金使っただろうし、これ以上無駄に使うことはない。
宿泊費もかからないし、俺としてもまなと居られる時間が多い方が嬉しいから……」
最後はやや小声になるのが、陸らしい。
まなは遠慮がちに頷いた。
「やった! 兄ちゃん大好きっ!」
海が陸にじゃれつき、陸が雪に足を取られて滑りかけた。
陸に案内されて到着した家は、小さな片流れ屋根のアパートの二階だった。
部屋の真ん中にはやや一人暮らしには大きめのこたつとテレビ。
「こたつだ!」
海が嬉しそうに真っ先に飛びついた。
シンプルな茶色い布団に包まれた途端に、彼の顔が蕩ける。
「……こたつ」
まなが意外そうに陸を見つめると、陸は頬を掻きながら呟く。
「……前に、まなが冬はこたつ最高って言ってたから。
うちには無かったから……密かに憧れていたんだよね」
陸がストーブをつけると、部屋がやっと暖まりだす。
北海道の家は暖かいなんて言うけれど、一人暮らしのおうちは普通に寒いんだなぁと思った。
「あ、陸くん、お手洗い借りてもいい?」
「もちろん。
玄関から一番近い扉がそうだよ」
トイレに入ると思わず息を飲んだ。
そっと置かれたさりげない芳香剤。
ほのかに香るゆず系の香りが、冬らしい。
暖かなふわふわのスリッパやトイレのカバーたちは茶色がベースなのに、黒ネコのシルエットがちょこんと付いているデザインで、それがネコ好きな陸っぽい。
過剰な装飾はないけれど、シンプルで暖かい空間。
やや縦に広くて、そこには足下用のヒーターが置いてあった。
人感センサーで人が居るときだけ温かい。
まさに、癒やしのトイレ。
トイレットペーパーもこだわっていて、ふわふわで切りやすい。
さすが、さすがです委員長――と、自身も高校三年の時は保健委員長だったにも関わらずその呼び名が飛び出しそうだった。
充実したトイレ時間を過ごした後、扉を閉めて室内へと戻る。
入れ違いに海がトイレへと立った。
室内に、意図せずにほんの二人きりの時間が出来る。
こたつに座る陸が、隣の場所の布団をそっと持ち上げる。
導かれるように、隣へと座った。
ぎゅっと、陸がまなの肩を抱いて引き寄せる。
陸の部屋というその場所だけで、心臓がどきどきしてどうにかなりそうなくらいだった。
陸からも、香水とは違うふんわりとした良い香りがした。
たぶん、柔軟剤。
今、こうしていることが信じられない。
つかの間の、沈黙。
世界が、今だけ二人きり。
トイレを流す音がして、二人はぱっと離れた。
――手だけを布団の下に残して。
その秘密のつなぎ方がいつかの体育祭を思い出して、少し懐かしかった。
海が興奮した様子で戻ってくる。
「兄ちゃん何あのトイレ!
最高過ぎてびっくりした!
さすが“トイレの貴公子”だなって思った!」
「おいっ!」
懐かしい呼び名に陸がすぐさま反応する。
「本当、凄いトイレを見せて貰ったよ。
さすが、委員長だなって思ったよ」
まなも同調する。
「お、“トイレの女王様”のお墨付きならバッチリだね!」
まなの二つ名に、陸が吹き出す。
「ちょ……なにそれ。
まな、“トイレの女王様”って言われてたの?」
陸の肩が震える。
まなの肩も違う意味で震えた。
「ち、ちが……」
「違わない。
しかもまなが呼ばれ始めたのって二年の終わりくらいだから、実際は委員長じゃないのに言われていたんだよ?
あの頃のまなと吉田はトイレに高校生活全振りしてんのかよってくらいトイレ中心だったね」
こたつを叩きながら笑う海に、まなもちょっとムキになって返す。
「もうっ!
陸くんの守ったトイレを、学校の平和を守りたかっただけだよ!」
海が笑いながらごめんと謝る。
「兄ちゃんトイレでこの物件選んだのかってちょっと思った。
この家のトイレって、普通のトイレよりちょっと縦が広いよね。
たぶん一畳分取ってある。
普通の一人暮らしの家のトイレって0.7畳くらいが多いから」
海が住環境の分野を好んで学んでいることもあり、構造的なことには詳しいようだ。
「気に入って貰えたなら何より。
そもそも、誰も呼んだことのない家だから、完全に自己満足の世界なんだけどね」
陸の言葉に、ほっとする。
彼はこの家に彼女を呼んだことがないということだから。
「なー、まな。ちゃんとゲーム持ってきた?
一緒に遊ぼうって昨日言ってたやつ」
「あ、うん、持ってきたよ」
陸も加わって、三人でモンスターを狩って遊んでいたら、あっという間に夜ご飯の時間になった。
さっき帰りに買った海鮮丼のお弁当を三人で食べる。
あっという間に一日目の夜は更けていく。
先にお風呂を頂いて、その後海、陸の順で入る。
海がお風呂に入っている間に、ドライヤーで髪の毛を陸が乾かしてくれたのが、恥ずかしかった。
髪が粗方乾いてきたときに、ふと彼の仕事机の方が目に入った。
パソコンのディスプレイの横に鎮座しているのは、まながあげたネコのあみぐるみ。
首には、赤いリボンが巻かれていた。
弾かれたように、まなが陸の顔を見つめる。
まなの視線の先に気がついた陸が、恥ずかしそうに答えてくれた。
「まなと別れてからも、ずっとあの子が……心の支えだったんだ。
俺のせいで彼氏に会えなくなったネコちゃんに謝りつつ、一緒に片割れがいない寂しさを共有してた気がして……。
…………引く?」
目を伏せて、自信のなさそうな声で陸が聞く。
まなはゆっくりと首を横に振った。
「……引かないよ」
鞄に隠すように入れていた、ネコのあみぐるみを取り出す。
こちらは首に黄色い鉢巻が結んである。
それに気がついた陸が、静かに息を飲んだ。
「……やっと、君も彼女に会えたね」
まながそう呟くと、そうだねと肯定が入ってくる。
きっと、彼女に会わせてあげたくてこの子を旅のパートナーに選んだのだろう。
まなはネコのあみぐるみを、隣へ並べてあげた。
変わらないはずの表情が、緩んだような気がした。




