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―トイレの貴公子、コアラに沈む―・上


まなが陸と出会ったのは、高校一年の四月、押し付け合いの末に決まった保健委員会の場だった。


「それでは一年生のために改めて説明します。

 保健委員の主な仕事は、トイレのペーパー補充と月一のポスターの貼り替えです。

 何か質問はありますか?」


保健委員長の三年生――浅瀬陸は、制服を着崩している三年生が多い中、きっちりと制服を着こなしていた。

濃茶の髪はさらっとしたストレートで、保健委員長らしい真面目さを物語っている。

回ってきた校内マップのルートを見て、まなは納得した。


(これは、まぁ、みんな嫌がっちゃうよね)


「それでは、肝心のペアですが。

 一年は慣れている三年とのペア、二年は二年同士で。

 1-Aの男子が3-Aの女子と、という風に組んでもらえたらと思います。

 三年は二学期までの活動ですが、僕の担当に関しては三学期の最後まで勤めたいと思います。

 以上です」

陸がそう告げると、みんなそれぞれペアで話し始めた。

まなの前には、陸がゆっくりと歩きながら視線を合わせてきた。

「保坂さん、一年間よろしく」

「は、はい、お願いします!」


それが、彼らの初めての会話だった。



この週の木曜日が、初めての委員会活動の日だった。

「すみません、遅くなりました」

頭を下げると、二つ結びの髪も肩でぴょこんと跳ねた。

陸は目を丸くして、そして柔らかな声で伝えた。

「保坂さん、お疲れ様。

 慌てて来なくても大丈夫。

 うちのクラス、担任の性格でHR短いだけだから」

やさしい言い方に、ふわっと心が軽くなる。

「先生からの呼び出しや体調不良で休む時のために、連絡先交換してもいい?

 用事以外では連絡しないから」

「はい、大丈夫です」

スマートフォンを取り出して、アプリを起動する。

「保坂さんって、下の名前なんだっけ?」

「え?」

「電話番号もフルネームで登録したいんだけど、いい?」

こくん、とまなが小さく頷く。

電話番号を登録するのは、父以外では初めてだった。

「保坂、まなです。”愛”って書いて”まな”と読みます」

「ありがとう。

 俺は浅瀬陸。そのまま、なにも考えずに陸」

二人のスマートフォンに、お互いの名前が登録される。

くすぐったくて、変な感じだった。


「さて、このペーパー補充、……結構、面倒。

 だけどないとみんなが困るから。頑張ろう」

「はい、よろしくお願いします」

保健室で鍵をもらい、保健倉庫へと向かう。

廊下を歩きながら、陸が一年生を気遣うように話を始める。

「入学早々、ついてないな、なんて思ってる?

 ぶっちゃけ、割とその通りだと思う」

「ええー……」

「本当、時々ね、仕事来なくなる奴もいるんだよ。

 毎回新年度はドキドキするって俺も先輩に聞かされた」

陸が何かを思い出すような苦々しい表情になる。

確かに、ペアにいなくなられたらと考えると、胃が痛い。

「浅瀬先輩、私、いなくなったりしませんよ。

 先輩、こんな大変な仕事、受験もあるのに三学期までやるって言ったじゃないですか。

 私、先輩のその責任感、かっこいいなって思いました。

 一緒に、頑張りたいです」

まなの言葉に、陸が照れたように頬が赤くなる。

視線を窓の方に逸らしながら「ありがとう」と告げた。


ペーパー補充は、想像以上に重労働だった。

「ごめんなさい、先輩。

 説明してくださっていたから、いつもより時間かかりましたよね」

「謝らなくて大丈夫。

 最初がわからないの当たり前だし、説明しないと保坂さんも困る。

 それに、本当に保坂さん仕事早かったと思うよ。

 また、次は一週空けての月曜日だね、よろしく」

つい予防線みたいに謝ってしまったけれど、陸はそれを悪い風に気にすることなく、その上まなの仕事を褒めてくれた。

それが嬉しくて、ちゃんと役に立てた気持ちになって、別れたあとも気持ちがどこかそわそわしていた。


スマートフォンの画面に、浅瀬 陸の名前が並ぶ。

アプリを起動すると、彼の名前の横には電柱の横で伸びをしているネコの写真が表示されていた。


(浅瀬先輩に、今日のお礼とまたお願いしますって送ろうかな)


ネコのアイコンを見ながら、指先が画面の上を迷う。

しばらく悩んだ後、まなは送るのをやめた。

連絡事項以外は連絡しないといった陸の言葉が、まなにも必要最小限の連絡に留めるように言われている気がした。



手の中のスマートフォンが震えたのは、月曜日のHRが終わった直後だった。

画面の表示を見て、まなの手が少し震えた。


『浅瀬 陸:ごめんなさい、HR今日は伸びそうです。終わったらすぐ行きます』


ネコのアイコンが、メッセージ欄の一番上に並ぶ。

登録されて以来初めてのやり取りにどきどきしていると、小さくポコンとスタンプも受信した。

開いてみると、デフォルトのアプリのクマが頭を下げていた。

それが、あまりにも彼らしくて、ふふっと知らずに笑みが零れた。


「まなちゃん、楽しそうだね~」

たかちゃんがそんなまなを見つめて、安心したように笑う。

「ほんとほんと。

 トイレ係になっちゃって、心配してたけど大丈夫そうね」

典伽も、それに同調するように笑う。

「トイレ係って言わないでよ……保健委員だよ」

「いや、トイレ係って言われているわよ、あんたら。

 歴代保健委員長なんて、去年までトイレ番長とか言われていたらしいよ」

聞いた瞬間、まなは声を弾ませて笑った。

あまりにも陸には似合わな過ぎて。

「新しい番長が似合わなすぎるから、今年は呼ばないんじゃなかったっけ?」

コテン、と小首をかしげて、たかちゃんが典伽に確認する。

「そう、似合わな過ぎたらしい。

 だから今年はトイレの貴公子」

「いや、それ……ひどいよ」

たかちゃんの冷静なツッコミに、まなの腹筋は崩壊した。


メッセージを受け取ったからと言って、ちょっと雑談しすぎたと慌ててまなは保健室へ向かった。

アプリには『私も遅くなりました! 今すぐ行きます!』とだけ入力し、まなもお気に入りのスタンプを一つ使おうとして……敢えてデフォルトの先ほどのクマに変えた。

使ったことがあったかどうかも怪しいデフォルトのスタンプが画面に並ぶ姿に、まなは無意識に微笑んでいた。


保健室に着く前に、階段を降りたところで陸と出会った。

一年生は四階、三年生は一階に教室がある。


「保坂さん」

まなが返事をしようと口を開きかけたときに、まなの真後ろから「はーい?」という大きな声が聞こえる。

陸の目が丸く見開かれた。

まなが振り返ると、そこにはなおが立っていた。

「あっれー? 呼ばれたと思ったけど」

きょとん、としたなおの表情に、陸がしどろもどろになりながら答える。

「あ、え、えーっと……まなさんの方、です」

「え、まな?」

なおは全くまなに気が付いていなかったようで、陸の視線を追って初めてまなの存在に気が付いた。

「ほんとだ、まなだ!

 先輩、紛らわしいから”まな”なら”まな”、”なお”なら”なお”、”ゆめ”なら”ゆめ”って呼んでください」

「ちょ、ちょっとなお!」

三年生相手に堂々と要求する姉を、まなは慌てて止めようとする。

「お前なぁ……先輩相手に失礼だろ」

なおの隣にいる男子が、まなより先に苦言を呈す。

そのツッコミに、そうそう!と思わずまなは心の中で頷いた。

「……双子、だったんだ?」

「いや、三つ子」

まなに確認するように尋ねた言葉に、なおが勝手に答えていく。

「なるほど、確かに”保坂さん”だけだと紛らわしいか」

陸が静かに頷く。

「まなさん、と呼んでもいい? 他にいい呼び方があるならそちらに」

「先輩にさん付けしてもらうのもなんか悪いですし……まな、でいいですよ」

慌ててまなが間に入ると、陸は目を逸らして、しばらく考えた後に、じゃあ……とだけ答えた。

「あ、どっかで見たことあると思ったらあれだ!」

なおが指を鳴らして思い出したという顔をする。


「言うなよ!?」

残念ながらそれは前振りだ。

まなは嫌な予感しかしなかった。


「トイレの貴公子だ!」

なおが叫んだ瞬間、陸の背後の人たちの何人かが吹き出す声がした。


「だから!

 本人目の前に思っても言うな!

 人を指さしてもいけません!」

フォローしているようでしていないその言葉に、陸は困ったように頬をかきながら苦笑した。


「今年からは、保健委員長に変なあだ名付けるのやめて欲しいんだけどな」


その表情と声色に、何とも言えない恥ずかしさが滲んでいて、少し可愛かった。


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