―海くんは、すべてを知っていた?―
ダンッ!
ボールをつく音、シューズの擦れる音だけが、静まり返った体育館に響く。
次の瞬間。
ふわりと、高く飛んだ。
手首のスナップを利かせてその手の中のボールを宙に放る。
そして誘われるように、ボールは数メートル先の真っ赤なリング――ゴールに入った。
「きゃああ! なおちゃーーーーん!」
女の子達の黄色い声援が体育館の中に響き渡った。
三ポイントが点に加算された。
昼休みの、体育館でのちょっとした遊びの中。
彼女が加わるといつの間にか人だかりができ、スペースが開けられる。
試合形式で、男子の中に混ざるのは彼女ただ一人。
決して背は高くないのに、誰よりも試合の中で存在感を放ち、気が付いたら体育館中の視線が集まっていた。
――彼女の功績とその華麗さにみんなが沸いた。
朝のSHR。
その中で全国模試の結果が返却される。
二年生になると、模試の結果に皆が一喜一憂する。
「保坂さん、今回も良かったよ。
この調子なら、東大も夢じゃない」
担任の一言で、教室がざわめいた。
SHRが終わった後に周りの子がわっとゆめの周りに集まった。
勇気を出した一人が、結果、見てもいい?と聞く。
控えめに差し出されたその紙を見た瞬間、また学校が沸いた。
眩しい姉と、賢い妹。
そして、その間に立つ彼女は、“ハズレ枠”だと日々実感していた。
昼休み、のんびりお弁当を広げながら、二年の間を駆け巡る姉と妹の噂を耳にして、そんな風に思っていた。
「まなちゃん? ぼーっとしてどうしたの?」
そんなことばかり考えていたから、気が付いたら箸が止まってしまっていた。
一緒にお弁当を広げていた友人――たかちゃんが聞いてきた。
心配そうにこちらの顔を覗き込んで「悩み事なら聞くよ?」と言ってきてくれてる。
たかちゃん――斎藤 多香子ちゃんは、ほんわかした雰囲気のおっとりした女子。
「んー、悩みと言えば悩みなんだけど。
あ、ほら、来た」
そう言ってちらりと教室の入口の方を見る。
「ああね」
半分呆れ口調の呟き。
これはもう1人の友人、鈴木 典伽のものである。
ネコ目で、はっきりものを言うタイプのオシャレ女子だ。
私の視線をたどるようにたかちゃん、そして典伽は視線を動かした。
「ま~なっ♡」
視線の先の人物は嬉しそうにまなの名前を呼んで近づいてきた。
「……なに?」
「まな、全国模試の結果聞いた!?」
「うん。ゆめが順位一桁って大騒ぎになってた」
「……俺も、実は二桁だったのに」
がっくりと大げさなくらい肩を落とす。
順位一桁と二桁が普通にいる学校、凄い。
心の中で勝手に拍手してしまう。
「じゃあさっき体育館でやった男女混合バスケ見たか?」
「お弁当食べる前に。
なおが3ポイント入れてた」
「……俺もシュート決めたのに」
「そうだったような気がする」
またまた、がっくり。
海くん、元気だしてーとたかちゃんが飴玉を一つ渡した。
海は大げさなくらい喜んでそれを受け取っていた。
「まなは俺のこと、興味なさすぎ」
ちぇ、と言いながら自然に近くの椅子を引っ張り出して隣に座る。
少し動いたら当たりそうなほど距離が近い。
相変わらず距離感バグっているなぁと思い、半身だけ反対側に逃げた。
「逃げないでよ、まなの意地悪」
ふくれっ面が少し可愛い、なんて思ってしまうのは彼のキャラクターのせい。
まなは少し笑いながら、ごめん、と返した。
「俺もここで食べていい?」
「いや、あんたもう広げているじゃん」
典伽の冷静なツッコミにもめげない。
「あはは、今更~。
海くんには、いつものことだよ~」
「おい、海、お前また女と食ってんのかよ。
女好きだなー」
案の定クラスの男子にいじられる。
女子三人の中でも全く気にしないで自分のご飯を広げる、その姿は堂々としていて、ある意味すごいなとまなは感心していた。
「おー! 男の顔みて食べるより百倍好き!
ついでにまなちゃん愛してるっ!」
「うわ、マジかよ、告白なら放課後にしろ!」
「海くん頑張れー!」
「まなどーするの?」
外野からワイワイと無責任な声が聞こえてくるたび、少し困る。
照れるよりも、困惑の色が強く出たまなの顔を見て、ところでさ、と海が話題を変えた。
「進路、どうするかとか決めてる?
このクラス、理系と文系入り交じってるから、みんなにどうするか聞いているんだよね」
急に真面目トーンになるから、ワイワイ騒いでいた人たちもそっちに引きずられ、話題がきれいに切り替わる。
来年の受験に向けて、みんなが意識している方向だからこそ、話題転換上手だなぁ、なんて、まなは感じた。
海が言うように、このクラスは国立四大志望が多く、理系と文系が混在している。
海は理系、まなは文系で同じクラスにいながら授業の半分は別だった。
「俺は工学部受けるつもり。
まなは?」
「私は管理栄養士目指して家政学部受けるつもりで……って、ちょ、海くん!?」
答えている隙に、お弁当からおかずが一つ消えた。
「うわ、このササミの大葉包み、めっちゃうまっ!
チーズお弁当なのにとろけて感じるのなんで!?」
「もうっ! 欲しいなら欲しいって言ってくれたらちゃんとあげるのに」
「え、マジで!? 言う言うっ!
まな、母ちゃんにこれおいしかったからまたお願いしますって言っておいて!」
本当においしかったらしく、目をキラキラさせながら感想を言ってくれる。
こういうところが憎めなくて、彼のいいところだと思った。
「このお弁当、まなが作っているんだよ。
あんた、ちゃっかりまなの手作り弁当食べちゃってたわけ」
典伽がサラッと言うと、海の顔が喜色に溢れた。
「ええええ!? うわ、まなちゃん結婚しよ!」
「もうっ!」
やっぱり教室は大騒ぎになった。
海は、高校二年に上がって、このクラスになってから知り合った人だ。
四月、クラス替え後の初日の朝に、いきなり話しかけられた。
「わ! 君、あれだ! 三つ子の保坂三姉妹!
去年俺なおちゃんと同じクラスだったんだけど、本当にそっくりなのに似てないね!」
「え、えと……どうも」
海のテンションが高すぎて、少し逃げ腰になっていると、後ろからさりげなく典伽がやってきてまなの腕を取った。
「何それ? 意味次第ではまなともう話させない」
典伽のはっきりとした言葉に、海が慌てて説明をする。
「ごめん、言い方が悪かった!
同じ顔なのに、しっかり個性が感じられるなって意味だった!
俺、三人が全く同じ髪型していてもまなちゃんが見分けられる自信ある!」
はっきりと言い切った海に、ニカッと典伽が笑う。
「よし、合格! まな、幸せになりなよ」
「ちょっと典伽ちゃん!」
抱いていた腕を放して海の方へ半歩押す典伽に、慌ててたかちゃんが止めに入る。
海はちょっと驚いた風に目を丸く見開き、そしてそのあと人好きがするような顔で笑った。
「三人、仲いいね!
番号交換しようよ」
「番号? アプリじゃなくて?」
「うん、番号。
アプリもだけど、まずは番号教えて。
俺、気に入った人とはちゃんとつながっておきたいタイプ」
ポチポチと、慣れた風に画面を操作する。
軽い人かと思えば、意外とまじめなその横顔に、まなは不思議な感覚を抱きながら自分のスマートフォンを取り出した。
三人の中から絶対に見分けると言ってもらえた言葉が、心の真ん中に静かに沈んでいった。
「フルネーム教えて。
”保坂 まな”のまなってどういう漢字?」
「ええとね、私のまなは”愛”って書いてまなって読むんだけど、紛らわしいから違う漢字が良かったねって言われる」
「おっけー、”愛”で”まな”ね。
俺も”海”って書いて”かい”だから、紛らわしいって言われる。
漢字って親が一生懸命考えて決めたんだろうし、勝手言うなって思うよねー」
「……うん」
「俺、”愛”で”まな”ってまなに合っていると思うし、好きだよ」
彼は手元を見つめながら、なんてことないようにまなの名前を褒める。
その言葉のどこにも裏がなくて、まなは心がふわっと軽くなった気がした。
「いきなり呼び捨て、すごいねぇ!」
たかちゃんが感心したように声に出す。
「たかちゃんも呼び捨ての方がいい?」
「ううん、できたらやめて欲しいです」
柔らかいのにばっさりと切ったたかちゃんに、海はおーけーとだけ答える。
引きずらないのがまたすごい。
「まなは? 嫌?」
「ううん、私は同じ名字のなおとゆめがいるのもあって、たいてい名前で呼ばれるから、慣れているよ」
「じゃあ、まな呼びは公認なっ!
典伽は典伽でいい?」
「いいよ、勝手にどうぞ。
あたしも海って呼ばせてもらう」
「うんうん、俺のことは海とか海くんとか、好きに呼んで!」
海は嬉しそうに他の周りの人とも連絡先を交換し始める。
裏表のない性格をしているのだろう、誰にでも明るく話しかけて、拒否されたら深入りしない、その軽やかなスタイルが、少し羨ましい。
”まな”と呼ぶ人はそれなりにいたけど、男子でそう呼ぶ人は多くはなかった。
まなの胸に、優しく、だけど熱のこもった「まな」と呼ぶ声が蘇る。
今少し思い出すだけで、泣きたくなるくらい、大切な響きだった。
「まな?」
海が心配そうに隣から顔を覗き込む。
外野が、「海ががっつくから嫌われた」とはやし立てる。
「ごめん、ちょっと違うこと考えてた」
正直にまなが謝ると、海が、「かるーくまた振られちゃいました!」と外野へ報告する。
それだけで、笑い声とまた頑張れよーという声援とともに外野がそれぞれ散っていった。
「ごめんね、まな。
お弁当食べちゃったから、俺のからも取っていいよ」
海がすっと自分のお弁当をまなの前に差し出す。
「え、本当? 海くんのお弁当も、いつもおいしそうよね」
どれにしよう、とおかずを眺めて、一つのものに目が留まる。
綺麗に巻かれたふっくらとした卵焼き。
「卵焼きって、貰ってもいい?」
「もちろん! それ、うちの兄ちゃんも大好きでさ、母ちゃんの得意料理」
「へぇ、楽しみ!」
ぱくりと一口食べると、しっかりとした出汁の風味と、濃すぎないちょうどいい塩味。
絶妙な加減で火が通った卵は、とても美味しくて、そして懐かしい味がした。
「もう一つ食べる?」と海がお弁当を寄せた拍子に、着信を告げた彼のスマートフォンがまなの膝の上に滑り落ちる。
「ごめん、まな」
「もう、電話鳴ってるよ」
膝から拾って、渡そうと思ったところで光る画面が目に入ってしまった。
『着信:浅瀬 陸』
着信者の名前を見た瞬間、指先から力が軽く抜けかけたが、辛うじてスマートフォンは落とさなかった。
着信者を目にした海の表情が曇り、胸がどくりと嫌な音を立てた。
――偶然じゃない、知っていたんだ。
そう思った瞬間、席を立って気が付いたら校庭の方へ走り出していた。
どこへ行きたいのかとかは何も考えていなかった。
ただ、一人になりたかった。
舌の上に残る、出汁の効いた卵の味が何よりの証拠だった。
まながこの味を懐かしいと思ったのは、気のせいではなかった。
(――私は、この味を知っている)




