―このデータは一度クリアしました―・中
十一月三日――文化の日。
去年と同じく、文化祭が行われたこの日、まなは朝から大忙しだった。
昨年は先輩たちがしてくれていたことを、今年度は自分たちが中心となって動く。
袱紗をスカートの左腰に挟むと、すっと背筋を伸ばしてお茶席へ出た。
袱紗を左手で取り、端と端を持って引く。
パンッと茶席が澄むような、背筋の伸びる音を出して丁寧に畳んだ。
去年より更に動きは滑らかになった。
そっと、視界の端に海が見えて一瞬鼓動が跳ねた。
だが、今はお手前の最中。
邪念を払い、丁寧に茶筅通しをして、それからお茶を点てた。
すべてのお手前を終えてまなが下がった後にゆっくりと待機場の方へと目を向けた。
背の高い海はいつでも目立っているのですぐに気がつく。
その隣には綺麗な黒髪の託人。
濃茶の髪は見えなかった。
せっかく来てくれた彼氏よりも陸を探してしまっていた事実に、まなは自己嫌悪に似たため息をついた。
それでも、託人と目を合わせたまなは、小さく手を振りながら笑いかけてくれる彼の姿に、心が春の日だまりのような温度になっていくのを感じる。
(こういう時間も、悪くない……そう思うのに)
ちょうど今日が陸の誕生日だからだろう。
今日は陸の事ばかり思い出してしまう。
(今の恋を、大切にしたい)
意識してしっかりと呼吸を整える。
お茶の香ばしい香りが胸いっぱいに満ちていく。
それでもどこか、心の奥でクリアされないまま、放っておかれた恋心の存在を静かに思い出してしまっていた。
お手前が終わると、託人と並んで祭りの喧噪の中を歩いて行く。
たくさんの食べ物を手に持って、託人が向かったのは何の因果か例の非常階段だった。
「意外とここ人来ないんだね。
落ち着いて食べられそうでラッキーだったね」
あの時みたいに最上段まで登ったりはしていないけれど、同じ場所ということで嫌でも去年のことが思い出される。
胸に切ないような甘いようななんとも言えない気持ちがよぎる。
それに呼応するかのように、腹部もじわっと重たい痛み。
よぎった陸の陰を誤魔化すように、託人の顔をじっと見つめた。
陸とは違い、身長も高く、肩幅もあって、男性的。
「どうしたの……?
そんなに見つめられると……ちょっと照れる」
「……っ!」
託人の軽口に、まなの頬が赤く染まる。
座った二人の間にあったまなの手を、託人の手が包み込む。
筋張っていて大きくて、カサっとした手。
「……手、荒れてる?」
「ん? 気になったならごめん。
うち母子家庭だから自分でも食器洗ったりとか洗濯干したりとか家事することあって」
なんてことないように言うけれど、彼の目の奥が優しい。
きっとお母さんを大切にして、進んで昔からお手伝いをしているような子だったんだろう。
まなは鞄からハンドクリームを出すと手にやさしく塗ってあげる。
陸から貰ったあのハンドクリームと同じ物を、気がついたら愛用してしまっていた。
「いい匂いだけど……キンモクセイかぁ……」
託人が香りを確認しながら、苦笑いを浮かべる。
まなは不思議そうに自分の手にも塗り込みながら首を傾げた。
「あまり好きじゃない?」
「……いや、“キンモクセイの香り”って、トイレの香りの象徴だからさ」
託人の言葉に、まなの目が丸くなる。
「え? そうなの?」
「うん、知らない人も今は多いかもしれないけど。
俺の母親くらいの世代だと、子どもの頃のトイレの芳香剤はキンモクセイ一択だったらしいよ。
“トイレ係”と名高い俺たちが付けているといじられるよな……なんて」
「知らなかった……」
きっと、これをくれた陸も知らなかったはずだ。
「もしかして、浅瀬先輩が……?」
唐突な陸の名前にどきりとして、まなは肩を揺らす。
「なんで……」
気まずそうに目線を階段の外の銀杏の木へと向ける。
託人が苦笑しつつ、
「まなちゃんの表情が少しやさしいものに変わったから。
先輩のこと思い出しているのかなって思ったんだ」と答えた。
まなは明確には答えずに、ただ、弱く微笑んだ。
今の彼氏に、不誠実な態度を取りたくないという気持ちが、彼女の行動をぎこちなくする。
「……そんな困った顔しないで。
僕は、ありのままのまなちゃんが好きだから。
先輩のことを大事にしているまなちゃんごと、大切だよ」
握られた手に力が込められ、そっと託人が近づいてくる気配を感じた。
一瞬感じたキスの気配は、頭の上に落とされた。
思わず、その部分を手のひらで触れた。
「焦らないで、オレたちはオレたちのペースで行こう」
託人の優しさに、ふわりと心が解けていく。
二人で仲良く分け合いながら、楽しく食事を終える。
遠くから聞こえてくる文化祭の喧噪が、どこか心地よい。
「ステージの方も見に行く?」
立ち上がろうとしたときに、さりげなく手が差し出される。
託人の手を握って立ち上がろうとしたその瞬間、どろりとした嫌な感触がした。
まなの顔から血の気が引いた。
忙しかったからか予定より少し早い。
「ちょ、ちょっと先にお手洗いに行ってくるね……」
急にソワソワしだした彼女の様子に託人はなんとなく察してくれたようで、そっと頷く。
まながトイレから戻ってくると、いつの間に取ってきたのか片手にジャージの上を持っていた。
その上着をまなに渡してくれる。
「よかったら腰に巻いて。
たぶん、“隠して”くれるから」
その言葉にスカートを汚してしまっていたことを察する。
はっきりと言葉にしないでさりげなく守ってくれる託人のスタイルが、今のまなにはありがたかった。
それでも、恥ずかしさから少し頬が赤く染まる。
「……ありがとう。
……その、……託人くんがいてくれて、良かった」
まなが少し目線を外しながら、たどたどしくお礼を伝えると、ふふっと軽く託人が笑う気配がした。
「少しでもまなちゃんにそう思って貰えたのなら、良かった。
これ、良かったら使って。
母があるとないとでは違うからって、もしもの時に渡してやれっていくつか持たされてるの。
いったいどこの男子高生が女子のそんなフォローするんだよっていっつも言い合っていたんだけどさ、今初めて役に立った」
渡されたのは貼るタイプのカイロ。
確かに、男子高生が女子の生理痛までフォローする場面は色々と限定的だ。
けれど、母に逆らえずに結局持ち歩いている託人はいい子なんだろうなと、しみじみ思う。
誰かが困ったら放っておけない。
そんな彼の気持ちこそが、“本当のやさしさ”なのだと。
「無理はしないでいいからね。
まなちゃんが今したいこと、教えて」
「ふふ、もう大丈夫だよ。
カイロのお陰かも。
ステージの方見に行くんだったよね」
託人の制服の裾を掴んで、引っ張ってみる。
彼は心から安心したように笑うと、まなに合わせた歩みで寄り添った。
体育館からは、ハンドベルのクリスマスソングが聞こえてきていた。
その澄んだ音が、心を浄化していくようで心地よい。
「まだ十一月って思っていたけど、試験とか終わったらあっという間にクリスマスだよなぁ……」
「う……試験……。
二年の二学期の試験って、本当に大事だよね……」
模試の結果を思い出しながら、苦手科目は早めに始めないとと頭の中で段取りを組む。
「……ねぇ、無事に試験終わったら。
オレと、デートしませんか?」
隣を見ると、頬を少し赤くしてちょっと視線を外している託人の姿。
その姿がかわいくて、まなは笑いながら「はい」と答えた。




