―このデータは一度クリアしました―・上
終わったはずの恋は、日常の隙間から何度でも顔を出す。
二年に上がってからも、まなは保健委員を自分から選んでいた。
隔週のはずだったトイレ巡回は、いつの間にか毎週になっていた。
陸が去年零していた、毎年新年度は緊張すると言っていた言葉を思い出してしまう。
まさか、本当にボイコットする委員が複数出るとは思わなかった。
今年度のペアである吉田が保健倉庫の鍵を開ける。
段ボールを確認した彼の顔色がさっと変わった。
――倉庫には、ペーパーの在庫がほとんど無かった。
その日なんとか数個残してペーパー補充の仕事が完了すると、まなは三年の保健委員長の元へと急いだ。
「お。三つ子ちゃんどーしたの?」
女子数人を侍らせた委員長が、ひらひらと手のひらを振るようにして軽い挨拶をする。
「……トイレットペーパーがまた在庫不足のようです。
少なくとも、明日の分は足りません」
淡々と、まなが話す。
吉田が視線から庇うように、まなを背に隠して半歩前へと出た。
「先輩、明日ぺーパーが無くなってしまったらそのあとどうすればよいか、考えておられますか?」
凛とした声が委員長へと突き刺さる。
委員長は気まずげに視線を落とした。
「……明日には届くよ」
「……“届く”じゃなくて、“届かせる”んですよ」
まなと吉田は、同じため息を落とした。
事件は起こるべくして起こったと言える。
二年の二学期、夏休み明けの学校。
一年生と三年生のペアの子が、どうしようと半泣きになりながらまなと吉田の下へと走り込んできた。
「……トイレットペーパーが、全くないの。
明日、どうしよう……」
ふる、と震えると、先輩がとうとう泣き出す。
まなは肩を支えながら、先輩のせいでは……と慰めを口にする。
委員長への怒りが吹き上がってきたところで、吉田が冷静な声で養護教諭に報告をと告げた。
四人で保健室へと向かう。
養護教諭は案の定、深いため息をついて、自分の責任だと四人に頭を下げた。
陸ならこんな失敗はしなかったのに、という気持ちがまなの胸の中によぎる。
同じように思ったのか、一年生を除く三人が同じような表情になる。
陸は責任感も強く、そしてみんなが気がつかないようなフォローまでしっかりとしてくれていた。
誰かに感謝させるためではなく、自分の仕事に誇りを持って誰かが困らないように先を見通して。
改めて、本人のいないところで、その事実はまなの胸に沁みていく。
急いで発注をかけたが、最短で届いても明日の昼。
今回のピンチを知った他の保健委員も加わって、手分けをしてドラッグストアへと向かう。
明日一日分を補うために、保健委員が走る。
養護教諭は疲れた表情で、状況を確認した。
(もう、委員長だけには任せておけない)
両手を握りしめながら、密かに決意する。
陸が守ってきたトイレを――学校の平和を、守りたい。
「吉田くん、今日はありがとう」
「……まなちゃん、一人で無理はしないで」
隣を歩く吉田に声を掛けると、彼はまなの顔を見つめ、そして遠慮がちな声音で告げた。
まるで、言葉にはしないけれどまなの決意をすべて見透かされているかのようだった。
「オレも、ちゃんとフォローするから。
あいつには、もう任せておけない」
やっぱり吉田もそう感じていたんだ、と目を伏せる。
彼を巻き込んでしまって良いものか一瞬逡巡したが、トイレは女子トイレだけでは終わらない。
力仕事も意外と多い保健委員には男子の力も必要だった。
吉田が右手を差し出す。
まなはそこに手を重ねて、静かに、でもしっかりと握手をした。
「よろしくね……頑張ろう」
いつもの二つ名さえ付かなかった、今年度の保健委員長にまなが見切りをつけた瞬間だった。
いつしか、委員会の実務はまなが中心になっていた。
「まな、すっかり保健委員会が板についちゃって……」
典伽がからかうというよりは、事実をただ話すような声で言う。
お弁当を広げながら、まなは体育祭に向けての保健委員の割り振りを考える。
海だけでなく吉田もお弁当のグループに加わり、真剣な顔をして話し合っていた。
「まなちゃん、無理しないでね。
まなちゃんが保健委員長だって誤認しちゃってる人も出ているらしいよ」
たかちゃんがおっとりとした口調で、でも心配そうに眉根を寄せて言う。
「あー、聞いた聞いた。
本来の保健委員長じゃなくて、まなの方が”トイレの女王様”とか呼ばれているとか」
典伽の言葉に、まなが苦笑いを浮かべる。
「それ……言わないでよ。
トイレ巡回中に、私の傍でわざと聞こえるように言われたりして、ちょっと堪える……」
その言葉に、海がぽんぽんと慰めるようにまなの頭を撫でた。
「兄ちゃんも同じこと言ってた。
一部、わざと言うやついるんだよな」
陸の話題に、まなの身体が固くなる。
こんな風に反応してしまって、まだ好きだと心が叫んでいるようだとまなは思う。
でも、陸を拒絶したのは自分の方だ。
だから、身体を縮こまらせながらも、心の傷を時間が癒してくれるのをそっと待つ。
海はそれに気が付きながらも、敢えて触れないように、陸のことをタブー視せずに話してくれた気がした。
机の上に置かれた、今年度の赤い鉢巻を指で撫でる。
去年の黄色い鉢巻は、捨てることもできずに、お揃いのハートを抱えたネコの首に結んである。
(ネコちゃん、私のせいで彼女に会えなくなったね……ごめんね……)
体育祭の準備が進むたびに、去年を思い出し胸が重たくなった。
ネコに結んだ鉢巻の端の、”浅瀬陸”の名前を見つめる。
手放すことなど、できない。
でも、もう”前”に進まなきゃいけない。
(……また、誰かの隣に立てるように、なれるのかな)
深呼吸をすると、息が軽くなった気がした。
――吉田から告白されたのは、ちょうどそんなタイミングだった。
吉田は周りに付き合っていることを隠さなかった。
それがどこか、陸との付き合いと違って軽やかだった。
トイレ係で愛を育んだといじってくる人も中にはいたが、「いいでしょ」と吉田が返すたびに段々とからかう声もなくなった。
あの時の自分たちにできなかった乗り越え方をしていく吉田が、まなには眩しかった。
体育祭のクラス対抗リレーの選手を決めるとき、圧倒的な支持を得て海と吉田が選出された。
まなは記憶にあまり残っていなかったが、去年A組を圧倒的勝利に導いたのが海だったらしい。
そういえばなおのクラスに陸上部で足の速い男子がいたっけ……と遠い昔のことのように思い出す。
海が選ばれると自動的に吉田も選ばれた。
「そういえば去年も、A組が圧勝する中、託人くん徒競走一番だったね」
まなが吉田――託人に笑いかけると、彼は照れたようにはにかみ、覚えていてくれて嬉しいと笑った。
その笑みに、まなの心臓がちいさく跳ねた。
今はまだ、どこかで陸のことを思い出してしまうけれど。
いつか、きっと、託人のことだけで心が一杯になれるんじゃないか――そんな風に、まなは思った。




