週末扉物語
夕暮れ時。
外では運動部の日常が繰り広げられている。しかし二年四組の教室では異様な空気が張り詰めていた。
背面黒板の前に立つ二人の男女。彼らは決していちゃついている訳ではない。それはその状況を見れば一目瞭然である。
「いつになったら解放される?」
ツーサイドアップに束ねた黒髪の少女は、始終何も言わず少年に手を差し出すだけである。質問にも沈黙で返す。
少年――東雲 集――は恐怖からか後退りをして下がって来たが、それもついに壁によって阻止された。ジリジリと詰め寄る少女に妙なプレッシャーすら感じ、額には薄らと冷や汗が浮かぶ。
このお互いに向かい合った状態がかれこれ三〇分は続いている。
真っ直ぐ延びた指先。手のひらに何か乗せろと言う無言の圧力。
表情は人形のようで、まるで感情が読み取れない。
なかなか進展しない状況に集は、自分では気が付かないうちに害を加えたのかと思い始める。しかし胸に手を当てるまでもなく、それはありえないことだった。
そもそも集は彼女のことをほとんど知らない。知っているのは顔と名前くらいだろうか。予あらかじめ言っておくと、特段彼女は校内の有名人という訳ではない。いや、ある側面からすると有名人に値するのかも知れない。
窓から吹き込んだ風で髪を靡かせる彼女の名前は、西野 梓という。
集と同じ四組の生徒であるが、春からの半年間、一度も会話をしたことがない。梓は他県から転校生としてきやって来たため、友達は誰もいない。クラスのみんなも仲良くしようと色々試みた。
しかし在籍してからクラスメイトは疎か、先生とも口を開こうとはしなかった。当然今ではそんな彼女に愛想を尽かせて、話かける強者つわものは誰もいない。
「俺が何か害を与えたなら謝る」
思い当たる節がないため、素直に言うと梓は首を横に振った。
そして差し出す手を小さく上下に振る。集にはその意味が分からない。
謝罪よりも金を出せと言いたいのだろうか。
考えているうちにある一つのことを思い出す。それは昨日の放課後の出来事。
集は忘れた分の課題を職員室に提出しようと向かっている道中、梓と擦れ違った。その瞬間、シャリンと何かが落ちる金属音がした。振り返ると床には金色の鍵が光っていた。拾い上げ梓に渡そうとしたのだが、どういうわけか既に彼女の姿は跡形もなく消えていた。という怪奇現象があったことを思い出した。
翌日渡せば良いかとポケットに仕舞い込みそのまま忘れていた。
「もしかして……これか?」
右ポケットから例の鍵を取り出すと、少女の手の上に乗せる。大きさは六センチはある黒みがかった灰色の鍵。表面には緻密な装飾が施されている。
その鍵を見て今度は首を縦に振る梓。どうやらお目当ての物だったようだ。
しかし何故それだけのことを口で言わなかったのだろうかと眉を顰ひそめる。声が出ないとは担任からは伝えられていない。もし本当に声を出すことが出来ないということならば、先生は前以て伝える筈である。
梓は鍵を受け取ると何も言わず帰ろうとする。
それは流石にどうかと思い、咄嗟に彼女の腕を掴み制止させる。当然言うまでもないが持ち主に返すことを忘れていた自分が悪いとは反省している。しかしそれでも黙って帰るというのは、きまりが悪い。
「俺に非があるのは分かってるし、反省もしてる。だけど俺のことを叱りもしないで黙って帰ろうとするなよ。何か言ってみろよ」
半ば理不尽な逆ギレに少女は真っ直ぐと集を見据えた後、何かを考え込むように左下に視線を向ける。
そして暫くして顔を上げると掴まれた腕を外す。説明をしてくれるのかと思ったがどうやらそうではない。
梓は受け取ったばかりの鍵を彼に見せると、教室の後ろの扉に挿し込む。
入るわけがない、そう言おうとした途端カチンと鍵が開く音がした。
振り返った少女は、呆然と立ち尽くす少年に扉の先に入るよう促す。
呆気に取られていた集であったが、なすがままに扉の前に歩み寄る。そして、取っ手に手をかけゆっくりと扉を開く。
「嘘、だろ……」
少年は扉の中に足を踏み入れる。その先に広がっていた光景を、素直に受け入れられない。夢なのではと思い、自分の頬をつねってみるとこれはかなり痛い。
後ろを振り返るとちゃんと自分たちの知っている教室が広がっていることに安心すら覚える。
しかし視線を前に戻すとそこには見知らぬ異世界が存在している。左右に建つ煉瓦造りの立派な建物。その間に真っ直ぐと延びる路地。そしてその先に繋がる石畳の大通りには、明らかに時代の異なる中世ヨーロッパ風の衣装に、身を包んだ人々が歩いている。
賑わう街に溢れる声。通り過ぎる車は馬に引かれている。
集は目を丸くして驚く。開いた口はネジが壊れたかのように閉じない。夢ではないと先程確認したばかりであるが、その結果すらも信じられない。
そんな彼の横に背後から近付き、並び立つ一人の少女。梓は漸く口を開いて、誇らしげに口を開く。
「嘘でも幻でもなくて、これは本当のこと。どう、私の世界は。気に入ってもらえた?」
初めて聞いた彼女の声は少しあどけなさが残る声をしていた。それも体格を見れば多少は理解できる。彼女は一般的な女子の身長と比べてだいぶ小さいのだ。小学生と言われても大抵の人は気付かない程に。
「別にお前の……失礼、君の世界ではないだろうに」
「確かにそうだね」
この異世界に招いてくれたのは、紛れもない梓自身だ。つまり目の前の光景は自分だけが知っている街だぞ、という意味も込めて“私の”と付けたのだろうと考える。所有欲というよりかは独占欲という感情に近い。
「というかこの世界は何なんだ。どんな原理で教室の扉が異世界に通じる扉に変わる。君は何者だ。どうして俺をこの世界に招き入れた。俺の混乱を全部解決させてくれ」
「一遍に質問しないで。全部答えるから。そしたら、私の話を聞き入れてほしいの。まず、この世界は何?という質問について。簡単に言うとこの世界は《ひがしぐも》君の世界から見ての異世界だよ」
「それは見れば分かる。あと俺の名前は《ひがしぐも》じゃない。正しくは東に雲と書いて東雲しののめだ」
半年間もクラスメイトと会話していないのだ。人の名前を覚えるのは、少し面倒くさいのだろう。
単純なる名前の読み違いに思わず、顔を赤らめる少女。
「《しののめ》君ね。で、次の質問は……どうして東雲君をこの世界に招き入れたのか、だっけ?」
「確かな」
名前のやり取りのせいで何か忘れているが、当の本人たちは気付いていない。いや、少女は覚えていながら触れてほしくない質問のため、あえて飛ばしたのだ。
「私はこの世界でしか生きられないの。あの世界での私は不完全で、喜びも悲しみもそして喋ることすら出来ない。それを伝えたくて」
「二つの世界を渡り歩くことが出来るなら、感情表現の出来るこの世界にのみ住めば良いじゃないか」
冷たい一言だと自分でも思う。しかし自由に感情を表に出せない、あの世界に留まる必要が何処にあるのだろうと疑問に思う。あんな小さくて残酷な世界に。
淡白な一言にも少女は自分の強い意思を持ちはっきりと、それは嫌だと断る。
「……ここからは私の頼みなんだけど、あの世界で不完全な身体を完全な状態にするのを手伝ってほしいの」
「一つ聞いても良いか?どうしてそこまであの世界に固執する」
集は彼女の目を見つめて問う。
知りたいのだ。何故そこまでしてあの世界に執着するのか。あの世界にどんな価値があるのか。
彼はあの世界をどちらかと言えば好きではない。リア充か非リアかなど小さなことに拘こだわり、小さなことで争う。
「私はこの世界と同じかそれ以上にあの世界が好きなの。あの美しくて眩しい世界に心引かれたんだと思う。だからお願い、私があの世界でも生きられるように手伝ってくれませんか?」
言うと梓は深々と頭を下げて懇願する。
相手がうんともすんとも言わない限り、頭を上げるつもりはない少女。集はその誠意に珍しく心を打たれたのか、少年は音を上げる。
「分かったから頭を上げてくれ」
「では引き受けてくれるんだね」
目をキラキラと輝かせて、彼の口から良い返事が出るのを待つ。
そんな目で見つめられては、いくら断るつもりの奴でも断れなくなるだろう。
「具体的には何をするのか教えてくれ」
「私の師匠曰く私はこの世界でもっと多くのことを学ばないといけないらしいんだけど……」
師匠と言うのは何の師匠なのかはさておき、それを信じるならば簡単には終わらない旅になる予感だけはする。
「その前に一つ聞かせてくれ。その鍵を使えばさっきみたいに自由に世界を渡り歩けるのか?」
「そうだよ。この鍵と扉と鍵穴さえあれば無制限に」
梓は即答でそう答える。
その答えを聞いて安心する。でなければ、頭で思い描いた未来設計が全部崩れてしまうから。
少年は微笑むと、彼女の方に向き直る。
「手伝ってやるが、一つだけ条件がある。この異世界で旅をするのは学校がない週末だけだ」
少年はあの世界がどちらかと言えば好きではない。しかし目の前にいる少女は好きだと言う。
この先、旅を続けていけば何故そう思ったのかが分かるかもしれない。くだらないこと以外に素敵な魅力が落ちているのかもしれない。
少女はあの世界でも生きるために。少年はあの世界の素敵な魅力を探すために。二人は歩み始める。お互いに幸福な未来を求めて。




