出発の日まで
「3日後に岐阜県美濃市牧谷村に向けて出発する。準備しろ」
炭田が言った。それを聞いた新枝たちの顔が引きつった。
「隊長それマジでいってんすか。」
とセナ。
「ああ。本部の指示だ」
「危険過ぎます」
稲垣が言った。
「強制はしない。ただその場合今ほどの待遇は無いぞ。」
偵察隊は数少ない安全地帯の外に出る仕事だ。リスクが高く志望する者はほとんどいない。そのため偵察員には他の者よりも優先的に食料や住居を支給することが決まっている。
「少し考えさせてください」
「明日の8000(8時30分)までに決めて報告しろ」
「わかりました」
稲垣がためらうのも無理は無い。ここから美濃市まで最短距離でも120km、安全なルートなら200kmはある。どう考えても2日以上は掛かる距離だ。
トレーニングを積んだ人間なら自転車で200kmを走るのは容易いことだ。だがそれは感染者の存在が無く道路の管理が行き届いている場合の話だ。感染者を警戒し放置された車を避けながらでは1日に60kmが限界だった。
感染者のうろつく外の世界で寝泊まりすることがなど考えるだけで寒気がする。これまでに万一日中の帰還が困難になった場合を想定した野営の訓練をしたことがあったがあくまで訓練に過ぎなかった。
「他に考えたいやつはいるか?」
そう言って炭田が新枝とセナを見る。
2人は首を横に振った。新枝は少し迷ったが今の地位を手放したくなかった。それは待遇だけの話ではない。偵察隊は最もリスクの大きい役割だけあり尊敬される役割でもあった。彼は調査から帰還する度に皆から称賛を受けることができるがもしこの任務を拒否すれば皆自分に失望するだろう。そんな考えから彼は任務への参加を決めた。
「そうか。なら自転車の整備に取りかかれ」
「はい」
2人は自転車のある倉庫へ向かった。
「なあ、なんで行くって決めたんだ?」
新枝はセナに聞いた。
「そりゃこういう危ねえことをやり遂げたらカッコいいからだよ。それに俺は何度も偵察から生還してるし訓練だってマジメにやってんだから大丈夫だって」
彼のこういう楽観的な考え方にはよく助けられてきた。大丈夫だ。上手く行く。そう自分に言い聞かせる。
倉庫に着くと6台の自転車が並べられている。そのうち2台は予備だ。そこから自分の乗る自転車を出して整備を始める。ホイールを外し、次にチェーンを外す。チェーンを洗浄しオイルを注す。スポークの折れやホイールの歪みが無いことを確認し、タイヤのすり減り具合を確かめる。ブレーキシューが残っているかをチェックする。ペダルやホイール、ボトムブラケットのベアリングにグリスを注す。ディレイラー、シフトレバー、ブレーキの作動軸に注油する。それらを組み立ててガタつきやワイヤーの緩み、劣化が無いことを確認確認し、最後にフレームを磨き上げる。そしてリアキャリアを装着して完成だ。
ブレーキシューがかなりすり減っていたので新しいものに交換するための申請をしに本部へ向かう。ここではあらゆるものが貴重品であるため消耗品の使用は厳しく管理されている。
「消耗品利用の申請にきました」
本部の備品管理所に来て手続きをする
「ではここに使用する理由と個数を記入して下に住民番号を書いてください。」
この村に住む生存者には1人づつ番号が与えられ本部の管理に利用されている。
理由…ブレーキシューの消耗が激しくブレーキング性能が著しく低下した為
個数…1つ
申請者…084
「はい。了承しました」
「では失礼します」
そう言って本部をあとにする」
今日の仕事が全て終わったので食堂へ行き食事の配給を受ける。献立は村の田んぼで収穫された玄米のおかゆに畑で取れたサツマイモを乾燥させた干し芋、罠にかかったイノシシの燻製だった。ここで消費される食料の6割は村の田畑から収穫された作物で3割は川で捕れる魚や罠にかかった野生のイノシシやシカ、1割が村の外から回収される缶詰などの保存食だ。人類が滅びかけてから野生動物の個体数は急速に増加したため酪農をせずとも動物性タンパクを摂取できるようになった。過去に養豚場を造ろうとした計画もあったが失敗に終わり、現在村にいる家畜はニワトリが数羽だけだった。すでに夕飯の支給を待つ列ができていたが偵察隊員の特権ですぐに飯にありつくことができた。
1人で飯を食うのも寂しかったので何処かに知り合いがいないか探すと稲垣の姿が目に入った。
「ここ、いいか?」
と言って彼の隣の席に腰を下ろす。
「いいですよ」
「さっき自転車の整備を終えたんだが最終確認はお前に頼みたいんだよ。やっぱり専門家に見てもらった方が安心だからな。」
「わかりました、明日の朝から自分の自転車を整備しますからその時に新枝さんのクロスチェックを見ておきます」
「自分のを…てことは行くことにしたんだな」
「はい、いろいろ考え方んですがやっぱり自転車に関わる仕事がしたいと思ったんです。たとえ危険が伴っても」
彼はパンデミックの以前自転車を営んでいた。やっと店の経営が軌道に乗り始めた矢先に全てを失ったのだった。
「そうか、でも良かった。お前がいると心強いよ」
「プロですからね」
そう言って稲垣は笑った。
次の日はルートの選定に取り掛かった。
「やはり始めは473号線を行くべきだと思います。」
「じゃあその次は357だな」
「いやそれは遠回り過ぎじゃね?こっちのほうがいいだろ」
「そんなに市街地に近づくと感染者がウヨウヨいるだろ」
「さっさと通り抜けちまえばヘーキだって」
「木曽川沿いの道を行こう」
「いや、そこは駄目だだって…」
「なんで?」
そんな調子で最終的に8時間の議論の末ようやくルートが決定した。最後はお互いに怒鳴りあっていたためその後少し微妙な空気が隊に漂っていた。片道220kmを2泊3日で移動することになったが、これまでの偵察では早朝に出発し必ず暗くなる前に帰還することが鉄則であった。
出発前最終日、昨日決めた工程に基づいて荷物をパッキングする作業に取り掛かった。食料や衣類、工具,スペアパーツ、武器、通信機、地図など荷物の総重量は1人10kgにもなった。
今回の任務では野営をする必要があるため自衛隊の備品であるテントと寝袋を借りることが許可された。武器は各自邪魔にならないサイズのスコップ、ナタ、バールを身体のすぐに取り出せる場所に付けることになっている。新枝は折り畳みスコップを展開した状態でベルトに引っ提げて固定した。また炭田だけが89式自動小銃を携行することを許されている。残された銃弾の数には限りがあるため、全員に火器の携行を許可するわけには行かなかった。
工具に関しては各自で最低限の自転車修理用の工具を持ち、稲垣が専門的な工具を持つ事になっている。
荷物は自衛隊で使われていたバックパックに詰められ荷台に紐で固定された。
荷物のパッキングが終わると明日が出発の為全員早く寝るように指示を出された。なかなか寝付けなかったが翌日はスッキリした目覚めを迎えることができた。
出発当日の朝、午前6時に偵察隊は自転車に乗ってバリケード前に集結した。全員の体調を確認し終えると隊長の炭田が話を始めた。
「今回の任務はこれまでで最も危険かつ困難なものだ。しかし注意べきことは普段と同じだ。俺たちはこれまで何度も危険な任務から生還し訓練を重ねてきた。何があろうとこれまでに身に着けた技術や知識、経験があれば必ず任務を遂行できるはずだ。」
話が終わると周囲に感染者がいないことを確認しバリケードの1部が開かれた。全員が出ると再びバリケードは固く閉ざされた。
再びこのバリケードを通れるだろうか。そんなことを思いながら新枝はペダルを漕ぎ出した。
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