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異世界転生したら、弟が婚約者になりました  作者: くなぎ八重
第一章 常緑の国を巡る旅
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59話   想いの在処、絆の形③


 通された部屋は、宴の賑やかさとは打って変わり、夜の静けさに包まれていた。

 重厚な木壁に囲まれた空間は、余計な装飾を排しつつも、端正な意匠が全体に行き届いている。壁の中央には一枚の風景画が掛けられ、シンプルながらも気品のあるソファがその下に据えられている。

 ふいに、彫刻が施された衝立の向こうに置かれた大きなベッドが目に入り、ルナリスはぱっと視線を逸らした。

 あそこでリヒトが寝ているのだな、と思うと、僅かに鼓動が早くなる。


「子供の頃から、ここに滞在する時は、この部屋を使っていたんだ」

 

 リヒトが指で壁の一角を示す。そこには、幼い背丈を刻んだような傷が残っていた。

 ルナリスの口元に、柔らかな笑みが浮かぶ。

 この空間もまた、彼を育んできたひとつなのだろう。

 案内されたソファに腰を下ろすと、リヒトは人ひとり分をあけた隣に静かに座った。

 灯された明かりがゆらめき、木造の壁にふたりの影を映し出す。

 沈黙を破ったのは、リヒトだった。

 落ち着いているようで、でも少しだけ震えている声は、燭台の炎のゆらぎと重なって部屋へ広がっていく。

 それは、彼が体験した転移の真実と、「異世界」である日本での記憶だった。


 突如として訪れた夜のこと。

 星が狂ったように降り注ぎ、気が付けば全く異なる世界に放り出されていたこと。

 そこで彼が過ごした日々。考えたこと、感じたこと。

 本宮理人として過ごした時間。

 理沙のこと。

 

 言葉の端々からは、懐かしさと同時に、痛みを隠しきれない色が滲んでいた。

 ルナリスはただ耳を傾けていた。

 夢物語のようでありながら、耳に馴染む響きの数々。彼の口から零れる「異世界」の情景は、自分の中にある記憶を呼び覚ます。

 けれど、それ以上に胸を打ったのは、リヒトの語り方そのものだった。言葉を飾り立てず、痛みさえも誤魔化さずに差し出す姿勢。

 彼がどれほど大切にその記憶を抱えているかは、ひとつひとつの言葉から伝わってきた。

 ふと、リヒトの声が途切れる。俯いた横顔に影が差し、しばしの沈黙のあと、小さな声が零れた。

 

「本当は、俺……弟じゃないんだ」


 告げられた真実が、ルナリスの胸に鋭く突き刺さる。

 

「俺は、たまたま……あの日、あの場所に流されただけ。なのに……勝手に『弟』の顔をして、側にいた」

 

 声はかすれ、指先が震えていた。それでも彼は逃げずに続ける。

 

「でも、姉さんが俺を弟と呼んでくれることが……救いだった。たとえそれが、偽りの記憶だったとしても。今さら謝っても、許されないって分かってる。それでも……ごめん」

 

 白い頬を伝って、ぽろぽろと雫が零れ落ちる。

 ルナリスは気付けば涙を流していた。

 泣き顔を目にしたリヒトは小さく息を呑み、恐る恐る肩を抱き寄せた。


「……ごめんなさい」


 リヒトの胸に顔を埋めながら、ルナリスは頭を横に振った。


「辛い記憶を語らせてしまって、ごめんなさい。あなたの気持ちも考えないで、私は……」


 悔やんでいた。

 なにも語ってくれないと憤り、彼の抱えていたものを知らぬまま過ごしてきたことを。

 本当は、全てを覚えている彼のほうが、ずっと辛かったはずなのに。

 それでもリヒトは、自分の隣で、いつも微笑んでくれていた。


「あの時のことは、きっと一生忘れない。でも、辛い記憶を受け入れられたのは……ルナリスに出会ったからだ」


 涙に濡れた菫青色の瞳を覗き込みながら、彼は真っ直ぐに言葉を重ねる。


「最初は戸惑った。夢じゃないかって、何度も思った」


 彼の声には、もう揺らぎはなかった。


「たしかに、きみは理沙の記憶を持っている。でも共に過ごすうちに、きみ自身に惹かれていったんだ……ルナリスとしてのきみに。理沙への想いが、まったく含まれていないと言えば嘘になる。それでも俺は、ルナリスと歩んでいきたい」


 一拍の間を置き、リヒトははっきりと告げた。


「今のルナリスが、好きなんだ」


 胸の奥に響く声。

 ルナリスの唇がかすかに震える。

 前世の記憶に囚われてきた日々、答えを見いだせずにいた時間。

 その全てが、いま溶けていく。

 理人が本当の弟ではなかったとしても、共に過ごした日々は決して偽りではない。笑い合い、支え合った記憶は、確かに刻まれている。

 絆は消えない。

 形を変えながら、これからも続いていくのだろう。

 もはや姉弟ではなく、新たな関係として。


「……私も、あなたが好き」


 月の光のように柔らかな微笑みが、リヒトへと向けられる。

 ふたりはそっと抱き合った。

 重なり合うぬくもりの中で、過去も、痛みも、迷いも――ただ静かに溶けていった。




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