其ノ肆・放出
占い師がこちらを向いて座っている。あの日つけていたヴェールはもうなく、その素顔を露にしていた。
どのような顔なのかわからない。頭で理解することができない。
だが、眼だけは頭の中で一つのはっきりとした印象を残している。
その眼は、瞳がわからないほど眼球すべてが真っ黒だった。
あの日、ヴェールがあるにも関わらずぎょろりとした視線を感じたのはこのためだったのだと気づいた。
まるで眼に取り込まれるように体が前のめりになる。
すると、占い師の言葉がどこかから聞こえてきた。前でも後ろでもないどこか。
それは今まで聞いたことのない言語だった。だが、その話している内容はイヤというほど理解できた。一枚の紙に書かれた文章が直接頭の中に貼り付けられるような、相手にすべてを即座に理解させる言葉だった。
― ― ―
人類が見ることのできるウイルスは不完全な部分だけだ。もっとも大切な部分は電顕であろうとなんであろうと見えはしないのだ。
カプシドなどウイルス構造の中核ではなく、知られている病原性とその機能すら単なる橋頭堡突破のためのものにすぎない。体で増殖したウイルスは常にあるチャンスをうかがっているのだ。
その真の目的とは、量にモノを言わせ、肉体という関門を抜け、ヒトの本当の中枢にまであるものを運搬することだ。
あるものとはウイルスにとってもっとも重要な部分だ。人類の未知なる領域でのみ知覚することのできるそれを、かの天才ステフィン=ラルゴはmalumと名付けた。林檎の意味だ。だが、蛇が誘惑した知恵の実のことではない、魔女が与える毒林檎のことだ。
たとえば、ヒトの狂犬病は実在していない可能性があると言われることがある。これは、症例が少なすぎるため、おそらくこのウイルスが原因であろう、という憶測レベルの解析しかされていないという主張によるものだ。
真実は違う。
ヒトの狂犬病は実在する。症例が少ないのではない。研究する機会が少ないのではない。狂犬病ウイルスの『透過性』が高いため、人類にはほぼ観察できないだけだ。
これらはシークレットアナトミーなる長編の医学書にラルゴの研究結果とともにまとめられたが戦争の折りに紛失している。人類は唯一のとっかかりを既に失っているのだ。
リンゴを受け入れたが最後、幽体は肥やしとなり、大樹が芽吹く下地が完成する。そうして『向こう側』の住人はこの世に降り来る!!
古来、この地球が生まれたときからあの者達は、ずっと、ずっと、そうやってあらゆる生き物に対してアプローチとアタックを繰り返してきたのだ。そしていつしかヒトがうまれ、ウイルスなどと名づけて知った気になっていた媒体は種への特異性をも超えて臓器特異性すら持つようになっタ。
免疫によって適応してきた人類は、感染を防ぐのと同時に、より適した運搬体の選別ヲ手伝うこととなり、逆に彼らのチャンスを増やし続けていたのだ。
もう間に合わンゾ。
サパティカのレンズがあれば魂の関門を見つけ出シ、聖刃ヤザ・ハザによって感染部位を切除することもデキタだろう。ダガ、それらモもうこの世にはナク、新たに造レル者ももうイナイ!
アァ、幸イナル哉! アイツも、アイツも、ドイツもコイツも、コノ女も駄目ダッタ! ダガ、オマエハイケソウダ!!
― ― ―
脳の中がいっぱいになった感覚がしたかと思うと、唐突に気を失った。一挙に押し寄せる情報が意識のブレーカーを落としたかのようだった。
目が覚めたとき、そこがどこなのかわからなかった。バスの停留所にあるような休憩室じみた小屋だった。
自分が寝ていたベンチと小さな机、灰皿、吊り下げられた暗い電球、壁にはよくわからない色褪せた古い広告。焦げたような色をした木の天井。
とにかく喉が乾いた。全身に汗をびっしょりとかいている。とても暑い。
ぼんやりとした頭で外に出て、通りの先に見えた自動販売機に向かった。適当に買った飲み物を一気に飲み干して、ふと自分の来た道を振り返った。
先程までいた休憩室のような場所は霞のように消えていた。
そこは、あの日、あの占い師がいた場所。あの街角。
そうだ、ここは、いつもの、なんの変哲もない、ただの街角だ。
頭が痛い。
体が怠い。
気分が悪い。
それからずっと調子がおかしい。
食欲は減退し睡眠時間が減った。かと思えばまるで起きられないことも多くなった。喉は常に乾いているし、いたるところが痒い。
なのに、身体はまるきり健康そのものだ。
頭は冴えているし、体力も増していて息切れひとつしない。勘違いじゃなければ視力もよくなった。成長期のように身長まで伸びている。
おかしいのにおかしくない。
意識はいつもぼんやりしているはずなのに体はまるでぼんやりしていない。
おかしいんだ。おかしいはずなんだ。
確信しているのは、やがて病院を辞めるだろうということだ。だが、そのあと自分がなにをするのか検討がつかない。つくはずがない。その頃には、きっともう……
鏡の中から、自分にだけ真っ黒に充血しているように見える眼球が見つめている。
あの『小蝿』を感じることは今ではもうすっかりなくなってしまった。
「大丈夫だ、オマエはイケる」
鏡の中から聞こえる、耳ではなく聴覚に直接話しかけるその声が、今日も視界を焦燥の色に染め上げていく。