其ノ参・増殖
顕微鏡の視界の中をうぞうぞと無数の細かな点が蠢いている。倍率は400倍。細菌だ。
あまり集中できず、かなり長い間顕微鏡を覗いていたので目が疲れている。
いい加減、3+の陽性を入力して機器から離れた。
今日は当直の予定ではなかったが、本来の担当である剖検にいた先輩が体調が優れないということで交代していた。
もしかしたらが続いている。
書類を見てカルテを見ていた。おかしなほどなにもなかった。
例の解剖の話だけではない。当直中なにも起こらないのだ。仕事もない。
そこそこの時間になれば仮眠でもとればいいのだが、今日一日が、今日という日がどうにもおかしくて気持ちが悪い。
電話が鳴った。
「お忙しいところすいません、管理なんですが」
管理? 管理といってもいろいろあるが、正直把握していない。
職場の管理かもしれないし、業務上の管理かもしれない。ただ、この夜中に管理と言って電話してくるのはだいたいだが施設、設備の管理の意味だろう。
「あのですね、奥の部屋なんですが、暖房がついていないか確認してほしいのですが」
なんだと?
「奥って、あそこの奥ですか?」
そんなことがあるのか。
「はい。あのー……」
言葉に迷っている。通話相手もわかっているのだ。
「奥って、解剖室ですよね?」
ありえることじゃない。
「はい。ですよね、解剖室ですね」
言い出した本人が半信半疑なのだ。
「暖房ついてるんです?」
「いや、わからないんですけど、温度が高いんですよね」
「そんなのモニターしてるんですか」
「ええ」
「あそこのエアコンは中央制御とか一括の制御じゃ」
「ないですね」
「あー……こっちで見たほうがいいですかね?」
「まぁ、場所的にそうしていただいた方が」
「そうですね……では、見てきます。ええと、返事は? この番号で?」
「はい。すいませんが、お願いできますか」
電話を切った後、しばらく動けなかった。
ついているわけがない。
エアコンがついていることはありえるかもしれない。消し忘れもありえるかもしれない。だが、百歩ゆずってついているのは冷房だ。
病理解剖を行う部屋が暖かい瞬間などない。24時間365日ずっと冷えている。間違えて暖房をつけることなどどう考えたってない。
当然だ。あらゆる人体の部分をそこで処理して置いてあるのだ。最終的な保存場所に移すまでずっとそこにあるのである。
慣れという名の麻痺で忘れていた感情が蘇ってくる。
恐怖。
暖房がついていないのならなぜ暖かい。どんな管理上のエラーを吐いているのか知らないが、そんな原因知りたくなんかない。
おそるおそる扉の前までくると何かが聞こえた。
「――、~~ー―、―」
声だ。何を言っているかは聞き取れないが誰かが喋っている。
「―、~、ーー、ー」
一人じゃない。数人いる。
それで安心した。普通に誰かがいるのだ。その人が何かしているんだろう。
もしかしたら今日のことかもしれない。そりゃそうだ。あれはどう考えたって普通じゃない。
そのまま放っておこうかとも思ったが、管理に返事をしなければならない関係上、一応は確認しておく必要があるな。
扉をひくと、たしかに暖かな空気を感じた。ムワっとした蒸し暑さだ。人がいるからだろうか。
少しだけ開いたドアの向こうを見て手が止まる。
暗い。
待ってくれ、なんで暗いんだ?
体がどんどん硬直していった。
電気がついてるならわかる。しかし、電気はついていない。中の人間が今消したわけでもない。
そしてもっと明確な異常。
聞こえる声の具合が変わらない。
ドアという遮蔽物があるからヒソヒソと聞こえていたわけではなかった。
話す声話す声、聞こえる声聞こえる声、そのすべてが不明瞭で小さく、テープを早回しにしたような声だった。
たじろいでいるとその声が増えた。増えて増えて増えて、発する声が大きくなっているわけではないのに音だけが大きくなっていく。近づいてきているのだ。無数の声が。
そうだ。そもそも解剖室にも電話ぐらいある。ここに用があるならまずここにかけているはずだ。
電話に出ない、暗い、生ぬるい部屋で、複数の人間が何をしているというのか。
ひそひそという声がどんどん近づいてくる。
お互いに話し合っているんじゃない。一方的にこちらに話しかけているんだ。
無表情に、たんたんと、底知れない目的を持った何か。
逃げられない。
わかる。コレからは逃げられない。
電気のスイッチはすぐそこだ。一歩もない、半身入って壁に手をやればすむ。
確かめてやる!
足を踏み入れスイッチを入れたのとまったく同時に、電気のついた世界に暗闇がへばりついた。
視界にとらえたのはまったくの黒、黒い細やかななにか。
煙か、霧か、もう少し粒度のある、砂ほどの大きさの集合。
部屋の四隅に中央に、ブラウン運動のような、細菌のような無数のランダムな動きが広がっていた。
それが、明かりに反応して一気に吹き上がって舞い上がり、部屋を撹拌するように這い回ると、一気に天井の換気口に吸い込まれていったのである。
そして一部は部屋の出入り口、つまり自分のいる方向から外へ逃げ出すように飛び抜けていった。
声も出せずただ手を振って身をよじる体を撫でていったそれは、まぎれもなく『小蝿』と呼んでいるそれだった。瘴気としか言いようのない目に見えない空を漂うデブリス。
なんと表現すればいいのだろう、どう証明すればいいのだろう。
今ならば、単に勘違いかなにかだろうと思っていた、勝手に瘴気だと呼んでいたものが実在し、それが害をなすものだったと言い切ってしまえる。
なんてことだ。アレは人に感染するなにかだ。人の中で増殖し、外へと広がっていく実体なきバクテリアだ。死そのものをうつすウイルスだ。
管理になんと返事したか覚えていない。とにかく全身に感じる痒みが、蕁麻疹ともアレルギーともつかない痒みが、もっとも不安を煽るあの言葉を思い出させる。
あの占い師の言葉だ。
『病にかかる素質がある』
あの言葉がこの一連の出来事をさすとしたら……
自分がある顔を思い出せないことに気がついた。
あの人の、ご遺体の表情はどんなだっただろう。
だいたいは表情などない。だが、こうしてみるとどうしても気になる。
顔にはガーゼが乗せられていた。だが、それが覚えていない理由ではない。
興味を持てなかった。そういう自覚もなかった。
情報や病態そのものに向き合うことだけに慣れてしまう典型的な偏りだ。
自分の中にある顔は、あの、皮の捲られた顔なき顔貌だけ。死の貌だけ。
今では、あれこそが自分の顔だったように思える。
不安が不安を呼んで、記憶をおぼろげにさせていく。
今日までもっとも『小蝿』を感じたのはあの占い師に対してだった。
また会うだろうか。会う気がする。会うのが正しいのだろうか。会いたくはない。会わなければならない。
だが、きっと、必ず、間もなく、すぐに、現れるだろう。
感じるからわかる。瘴気が、まとわりついて離れないのだ。
そう、この歩みの先に待っている。
朦朧とした意識の中仕事を終え、わけもわからぬまま、まるで導かれるように足が進んだ。
どこをどう歩いたのか。知っている道のようにも思う。だが、なにも認識できない。理解できない。
脳の機能が寸断されてしまったかのように支離滅裂な思考が四方八方に広がって、その隙間に何者かの指令が挟み込まれてまったく別の意識に組み直されてしまっている。
気がつくと、そこはどこかの部屋だった。狭く、香の焚かれた、なにやら品のいい調度に囲まれた、小さな小さな部屋。
だらりと椅子に座ったまま、ぼんやりとなにかを待っている。なにを待っているのかは自分でもわからない。
部屋は扉も窓もない。燭台の灯りがちらちらと目の中を泳いでいる。
やがて、本当になんの前触れもなく、あの占い師が部屋に入ってきた。
どこにも出入り口はない。虚空から現れ出でたのだ。




