アビー【明けの明星の思い出】
本編でチラッと出てきた、革命軍のスパイ女官のアビー視点の番外編です。
長いです。八千字くらいあります。
リクエストいただいていた平和ないちゃラブ話じゃなくて、申しわけありません(>_<)
私はアビー。昔は家名もあったけれど、今はただのアビーと呼ばれている。
城が炎上した革命の日、あの方の子であるヘレナ姫殿下をお守りすることが出来なかったにも関わらず、私だけが今ものうのうと生き延びている。
「あの方」とは、私が生涯でただひとり心からお仕えし、お慕いしていたヘレナ殿下のお母上にあたる方のことだ。
あの方は私にとってすべてだった。いや、「だった」という過去形の言い方は正確でない。
私にとってあの方は今も、夜明けの明星のごとく光輝く唯一の存在なのだ。私の胸のなかには、どんなときもあの方との思い出がある。
あの方の子であるヘレナ殿下が亡くなり、革命も失敗して、この国は一面焼け野原になった。
思えば私はいつも、大切なものを見逃してばかりいた気がする。
◇◇◇
私の憧れたあの方は、常にかなしみの青い影のなかにいらっしゃった。
私が王宮に上がったのは、13歳のとき。六人姉妹の末っ子の私は、父に厄介払いされるように王宮の行儀見習いに出された。王宮で私は後宮女官に配属され、我が国に併呑されたばかりの小国の姫であるあの方にお仕えすることになった。
あの方が敗戦国の王族として、そして隷従の証として、奴隷の身分を賜り王の後宮にいらしてすぐのことだった。
あの方は私より5つ歳上で、不馴れで失敗ばかりで家を恋しがって泣いていた私にいつも優しくしてくださった。
「自分にもこれくらいの妹がいた」とよくおっしゃって。
おそれおおくも懐かしげに私の髪を撫で、とても丁寧に編み込んでくださったものだ。あの方は細いピンクのリボンを私の髪と一緒に編み込むのが好きで、私も仕事中に手で何度もさわったり鏡や銀食器にうつしてはニマニマした。
はじめのころは実家の姉たちを思い出して、素直にあの方に甘えたものだ。幼すぎてそれがどれほど罪深い行いか、知らなかったのだ。
あの方は、家族も思い出も故郷も身分も自由も、なにもかもを奪われて、あそこに居たというのに。
後宮というところは、特殊な場所だ。東西から集められたよりすぐりの花たちが、根をゆっくりと腐らせながら放つ芳香で息がつまりそうになる。
子どもだった私も、すぐに「姉」と慕うあの方がどのような苦境にあるのか悟ることとなった。
日陰に咲く大輪の薔薇のような美貌のあの方には、ときおり王のお渡りがあった。
王のお渡りのある日は決まって、あの方は私に念入りに編み込みをほどこしてくださった。そうして気を紛らわせていらっしゃったのだと思う。
王がいらっしゃる夜、私は控えの間の寝台のなかで、唇を噛んで息を殺していた。そうやって、あの方のあげる悲痛な声をやり過ごしていたのだ。
私とあの方が後宮に入って三年ほどたってあの方が王の子を妊娠したとき、あの方は食事をまったく召し上がらなくなってしまった。日に日にやせ細り、寝台にいらっしゃる時間が増えた。
「すこしでも召し上がりませんと」
カトラリーを手にしたがらないあの方に私はそう申し上げた。
それでもあの方は食事を無視して、ぼんやりと遠くを眺めていた。どこをごらんになっているのだろう、とあの方の視線を追うと、あの方は鉄の飾り格子のはまった窓の外を眺めていた。
後宮の庭には燦々と光がふりそそぎ、小鳥が木の上に巣を作っていた。親鳥が交互にやって来ては雛鳥にエサを与えていく。
私はあの方の手をとり、無理やりにスプーンを握らせた。
それでも動こうとなさらないので、スプーンを握らせたあの方の手の上に私の手を重ねて甘いパン粥をすくい、あの方の口元へ持っていった。
そこまでしてやっと、あの方は私に視線を向けてくださった。
「おやめなさい。アビー」
「このままではお身体にさわります。大事なお身体ですのに」
「悪い冗談ね」
「なにをおっしゃいます。私にとってあなた様はかけがえのない……」
「その先を口にしないで、アビー。わたくしは今、悪魔の子を宿しているのよ。すべてを奪った男の子どもを」
奴隷になってもなお、あの方の肩には故郷の民の命がかかっていた。もしあの方が自死をしたり、逃げ出すようなことがあれば、あの方の故郷の民はどうなるのかわからない。
それをご存じでいたらしたからこそ、あの方はそれまで自分を殺して堪え忍んでいらっしゃったのだ。心が引きちぎれそうになる悲しみを細い身体の奥深くにとどめて。
しかし、どんなに強固な堤にもいつか決壊するときがくる。妊娠は決定的な出来事だった。
本来情け深い気質でいらっしゃるのに、自分のなかに宿った命を憎まずにいられないという矛盾は、あの方の心身を蝕んだ。
このような状況でなければ、あの方はきっと我が子の誕生を心待ちにする慈母におなりになったでしょうに。
「敵兵が迫るあのとき、どうしてためらってしまったのでしょう。幼い妹でさえ、毒だとわかっていてためらいなく飲み干したのに。あのとき、杯のなかのものをすべて呷っていたら……。
わたくしはもはや命を失っても、家族と同じ神の国には行けないでしょう。だって、こんなにも罪深い。だから、もうなにも口にしたくない。ただ消えてしまいたいの」
あの方はまた私から目をそらし、遠くをごらんになっていた。あの方の目に映っていたのは、あの方の故郷が焼かれた日の思い出だったのだろうか。焦点があわず、浮世離れしてみえた。
私はこのままあの方が儚くおなりになるような気がして、どうにか視線をあわせてほしくて、スプーンをおくと、あの方の両手を指先が白くなるほど強く握った。
「あなたさまは誇り高い方でいらっしゃいます。私がそれを存じています。
おなかのお子さまにもあなたさまにも、罪などあろうはずがございません。生きたいと願うのが、生まれてくるのがどうして罪でありましょうか。
真に罪深きは、あなたさまに苦しみを強いる我が国です。我が国の罪は王の罪、反対に王の罪は我が国の罪。私はあなたさまに詫びなければなりません。我が国の民として。
そして、あなたさまがどのような苦しみのなかにいらっしゃるのか理解していながら、『あなたさまが生きていていらしてよかった』と思わずにはいられない、ひとりの身勝手な人間として。
ほんとうに、ほんとうになんとお詫びしたらいいのか。それでも、私はどうか、あなたさまに生きていらしてほしいのです」
私がそう申し上げて頭をたれると、あの方は真珠のような涙をぽろぽろとこぼして「ああ、アビー。わたくしのかわいい妹。おまえだけがわたくしの心の慰めです」とおっしゃった。
私は胸が締めつけられて鼻の奥がツンとしたけれども、「あの方の前で泣くわけにはいかない」と口をぎゅっと引き結んだのを覚えている。
あの方はそんな私に苦笑して、「かわいい妹の願いですもの」とおっしゃって、スプーンをみずから口にお運びになった。
私はその様子に安堵とよろこびを覚える自分の罪深さに胃がしくしくと痛んだ。
――私だけが、あの方の慰めでいられる!
その事実は火のように私の心の裏側を炙った。
しかし、そのみにくい感情をあの方に悟られたくなかった。だから、ただの無邪気な妹として、姉の食事をよろこんだ。
私はあの方に生きる慰めと苦しみを与える愚かで残酷な看守なのだった。
◇◇◇
ヘレナ殿下が生まれた日、あの方は生まれた子が女の子だったのをごらんになって、嘆息なさった。
子の行く末を案じていらしたのかもしれない。
ひどい難産で、一昼夜、文字通り命をふり絞って闘い抜いたあとのことだった。
指さきで赤子の小さく繊細な目と鼻と口をたしかめるように撫でて、
「この子には、たしかにわたしくしの血が流れている。わたくしの子」
とおっしゃった。蝶の羽ばたきの音のような、かそけき声だった。
「アビー、わたくしのかわりにこの子を守って。あなたはわたくしの妹なのだから、この子はあなたの姪のはず」
「縁起でもないことを」
「わたくしにはわかります。もう、わたくしの命脈は尽きようとしている。あぁ、やっと、やっとここから出られる……」
「私は……私は……、あなたさまの妹などではございません!」
私にもわかっていた。あの方に、もはやいくらも時間が残されていないことは。
お産の最中、産婆が「血が出すぎている」と言っていた。産婆は、後宮で一番偉い女官に「母と子、どちらを優先する?」とたずねた。
女官は「決まっている。奴隷の命なんぞより、王の子の命の方が尊い」と答えた。
それであの方の運命が決まった。
私はあの方の命の期限が区切られるさまを、ただ見ていることしかできなかった。
「ずっと、ずっとお慕い申しておりました」
あの方の運命を決めた女官はとうに引き上げ、産婆が淡々とあと片づけをしている横で、私はあの方に長く秘めていた想いを打ち明けた。
あの方のおもざしをしっかりとこの目に焼きつけようと思うのに、目の前が滲んでゆれて、どうしようもなかった。
あの方は、おだやかにほほ笑んだ。あらゆる痛苦が、生とともにあの方から離れようとしていた。それは、浮き世の者にはとうてい真似できない、神々しく透明な笑みだった。
「知っていたわ、アビー。知っていて、わたくしはあなたに『妹』を望んだの……」
私は思いあまって、あの方の唇に口づけた。冷たくかさついた感触だった。
「アビー、ごめんなさい。わたくしはなに一つあなたに報いることができません」
「いいえ、いいえ。私はあなた様にたくさんのものをいただきました」
つまって、鼻声になってしまう。
「アビー、あなたがいたから、わたくしは今まで堪えてこれたのです。ありがとう。あなたがいてくれてよかった」
「……っ、逝かないでください……!」
とうとう、私は自分の思いをおさえることができなくなってしまった。死こそがあの方に唯一残された解放だと知っていたのに。
みっともなく取りすがって泣いてわめけば、「妹」のためにこの世にとどまっていただけるだろうか。そんなどうしようもないことまで考えた。
それでも、やはり、どうにもならなかった。
私はさいごのさいごに、あの方の耳元に口を寄せた。
「私もいつかそちらへ参ります。あなた様がこれからいらっしゃるところに、あなた様の実のご家族がいらっしゃらなくても、私だけは必ず参りますから……、ですからどうか、どうか」
ほんとうは「安らかにお眠りください」と続けたかったのに、それだけは口にすることができなくて、私はあの方の手を強く握ることしかできなかった。魂が引き裂かれるような心地だった。
あの方は瞼を閉じたまま、かすかに口角をあげて「えぇ」とため息のようにうなづいた。それがあの方の最期だった。
あの方はまだ22歳になったばかりであらせられた。
◇◇◇
あの方が産み落としたヘレナ姫は、すくすくとお育ちになった。
幼くも利発で愛らしく好奇心旺盛で、さすがあの方のお子さまだと思わずにはいられなかった。
ヘレナ殿下が五歳ごろまでは、あの方にお仕えし慕っていた女官たち数名が姫をお守りしていた。
しかし、陛下が利発なヘレナ殿下に目をとめ、かわいがりはじめるようになると、状況が一変した。
高貴な身分の妃の方々の嫌がらせがはじまったのだ。高貴な身分の妃の方々がいくら子どもを産もうとも、その子を陛下がかわいがることなど決してなかったからだ。
蛇のような嫉妬が幼い姫のまわりでとぐろをまいていた。
ヘレナ殿下をお守りしていた女官たちは次々に退職に追い込まれた。それでも抵抗していた女官のなかには、不審死をとげたものもいた。
この後宮では、侍女は妃が実家からつれてきた腹心の部下で、妃個人に仕えている。たいして女官は、国から妃に貸与されている下働きで、基本的には国に仕えている。
ヘレナ殿下に侍女などいようはずもなく、かの姫は孤立した。
辞めさせられたり、殺されては元も子もないと、私はあえてヘレナ殿下から距離をとり、ひっそりと影ながらお守りすることしかできなかった。
利発で愛らしかったヘレナ殿下は、ほどなくして冷たい石の仮面のような子どもになってしまった。
いつも、ただ見ていることしかできない。そんな自分にやりきれなさが募った。
あの方のさいごの願いなのに、あの方の子を十分にお守りすることができない。
私は実家の伝を頼り、ほうぼうに探りを入れ、野心家とうわさのグラスゴー公爵と渡りをつけることができた。
彼は、この国の現状を憂いていた。
先代から爵位を継いだばかりでまだ若く、理想に燃えて自信家だった。彼もまた、あの方の故郷をくだした凱旋パーティーで戦利品として連れてこられたあの方を目にしたときから、あの方の虜だったのだ。
それからは、激流に飲まれたようだった。
ヘレナ殿下を苦しめた妃や王子王女を全員陥れて殺し、ヘレナ殿下のもとにロビンとかいう小娘がやって来て、殿下は亡くなってしまった。
あの方の子は、あの方と同じ道をお選びになったのだろう、と思った。そんな気はしていたのだ。だって、ヘレナ殿下は日に日にあの方そっくりにおなり遊ばれていたから。
私は、殿下に複雑な感情を抱いていた。
あの方の子だから、あの方のさいごの願いだから、そう自分に言い聞かせ、ヘレナ殿下が自由になる道を模索するほどに
「どうして、あの方の命を奪った子のために私は動いているのだろう。どうして、あの方のために同じことができなかったのだろう」
という思いが、ヤスリのように私の心を削ってヒリヒリした。
ヘレナ殿下の遺髪を目にしたとき、私は自分で思っていたよりもはるかに強い衝撃を受けた。
一瞬で死の床についたあの方の白い顔が蘇り、とりかえしのつかないことをしてしまったと思った。全身の血が冷える思いだった。
あの方の子を、私はみすみす死なせてしまった。なんてことをしてしまったのだろう。
私が余計なことをしたせいで、結果的にヘレナ殿下を追い詰めてしまった。
その事実は長く私を苛んだ。
深夜になると、ヘレナ殿下やあの方が夢に出てきて、飛び起きることが続いた。
◇◇◇
公爵の薬による洗脳のスキャンダルによって革命軍が危うくなったとき、私はそうそうに抜けることにした。
へレナ姫を救えなかった時点で、私にとって革命軍はとても苦い場所だったのだ。
荷物をまとめて出ていこうというとき、私は赤毛の少女が呆けているのに出くわした。
彼女は革命軍のなかでも、特に公爵に心酔していた。信者といってもよかった。
その公爵が遠方で同志の罠にはめられ囚われたという報せが入ってきた直後のことで、いまや公爵の信者たちも不信感を抱いた同志たちによって狩られはじめようとしていた。
革命軍が崩壊するまで、独身の同志たちは街にいくつか家を借りて、それぞれ寮のように共同で暮らしていた。あのころは私も彼女も、他数人の仲間とともに同じ家に暮らしていたのだ。
赤毛の少女は、リビングの暖炉の前で呆然自失といった様子でへたりこんでいた。目はなにもみておらず、ただぼんやりしていた。
あの城が炎上した日、幼馴染みを永遠に失った彼女には、もはや革命しか残されていなかったのだ。その革命も頓挫し、心の支えがぽっきりと折れてしまったのだろう。
最初は無視していこうと思った。荷物を担ぎ直し、玄関の扉を開け踏み出そう……とした足を戻し、私はきびすを返した。
リビングで人形のように腑抜けていたヒルダという少女の腕を乱暴につかみ、そのまま彼女の部屋に乗り込んで適当に服を鞄に詰めると彼女に無理矢理に背負わせ、同志たちの家を出た。
どうしてそんなことをしたのか、私は後になって何度も首をひねった。
私にとって大切なのはあの方に関わることだけで、その他のことなんて心底どうでもよかったのに。
けれど、ほっといたらこの少女は確実に死ぬだろうと思った。
煮えるようなひどい苛立ちを覚えていたような気もする。
私はもう、とにかく目の前の若い女が死ぬ悲劇にうんざりだったのだ。
無気力なヒルダの手を引いて戦禍をくぐり、私たちは何年もかけて逃げ続けた果てに、国境近くの都市にたどり着いた。
そのころには苛烈だった内戦も下火になり、ヒルダも腑抜けからすっかり復活して歳の離れた頼れる相棒になっていた。
私たちがたどり着いた街では、人々がガレキを少しずつよけて、ふたたび立ち上がろうとしていた。
モノも労力もそれぞれに持ちより協力して、自分たちの手で自分たちの生活をあらたに建て直そうと汗を流していた。
とことんまで破壊された焼け野原から、希望というみどりの双葉が芽吹きはじていたのだ。
曲がりなりにも文字が読めて、多少の教養があった私たちは、街の復興の中心メンバーに加わった。
無我夢中で互いを支えあうつながりを作り、意思決定の仕組みを試行錯誤しながら積み上げていった。
王国や革命の失敗に学び、一人のリーダーに頼らなくてもいいように。それぞれに誇りと自由を持てるように。
私は、この二つの願いを胸に人々と手を取り合った。ヒルダも今度こそ理想郷にするのだとはりきっていた。
◇◇◇
そして今日、城が炎上しあの方の子が亡くなって10年がたとうとしている。
実りの秋を迎え、復興途中のこの街は収穫祭を催すことになっていた。
今年は、はじめて外国から人気の旅芸人一座を招くことになって、私たちは街道に面した街の入り口で今か今かと芸人たちを待ちかまえていた。
街の人を元気づけるために、できるだけ華やかで賑やかな祭りにしたい。そのためには、外国で人気の芸人一座は必須なのだった。
地平線に砂ぼこりが見えはじめ、かたわらのヒルダが「あれじゃない?」と言う。
私は歳のせいでますます悪くなった目をこらした。高価な眼鏡の度を調整するような財力も、それを依頼する職人の技術力も、今はぜんぜん足りないのだ。
街道の向こうのインクの滲みのような影がしだいに形をなし、派手な色の馬車とそれを取り囲む数頭の馬の姿をとりはじめる。風にまじって、楽しげな話し声も切れ切れに聞こえた。
私の隣でヒルダが「あ!」と叫んだ。「もしかして、アレは……まさかそんな! いや、でも、アレはたしかに……!!」と真っ青な顔でわけのわからないことを口走っている。
いきなり挙動不審になった相棒の方へ振り返ると、彼女は矢も盾もたまらずといった様子で一座に向かってダッと駆け出してしまう。
私は彼女のあたまがおかしくなってしまったのかと思って、もう芸人一座のことよりヒルダのことが心配で追いかける。
四十を迎えた中年の身体で全力疾走するのはキツい。息が切れて、心臓がドクドクする。
若いヒルダはどんどん先に駆けていってしまい、ぜんぜん追いつけない。
「待って! 待ちなさい!! この猪馬鹿娘……!!!」
叫んで呼び止めても、ヒルダの耳にはなにも聞こえていないようだ。
すぐに息の限界がきて、両膝に手をついて肩で息をする。
すると、ドドドっと馬の蹄の音が近づいてきて、
「大丈夫ですか?」
と、涼やかなよく通る声が頭上からふって来た。
その瞬間、私は雷に打たれたようになって、「あぁ」という意味をなさない声が口から漏れた。
顔をあげると、馬上には懐かしくも慕わしいあの方によく似たおもざしの芸人がいた。
亡くなったときのあの方より、少し歳上にみえた。
馬上の若い女性は、顔の造作こそあの方と瓜二つだけれども、雰囲気がぜんぜん違っていた。
旅の砂とほこりにまみれてはいたけれど、太陽のような力強い魅力を身の内からはなっていらした。10年前、さいごにお見かけしたときよりずっと逞しくなられて、生き生きとしてみえた。
涙が止まらなくて、あごを伝って、ぼとぼと服と地面に落ちた。
――あの方の子が、生きていらした……!
胸がいっぱいになって、私は言葉が出てこなかった。
芸人を歓迎するための言葉はきちんと用意していたけれど、亡くなったはずの大事な方をお迎えする言葉が必要になるなんて、夢にも思ってなかったのだ。
つま先から頭のてっぺんまで歓喜の震えが走り抜けるのと同時に、遠くでヒルダの「ロビン!!!」と叫ぶ声が聞こえた。
あとで聞いたら、自分を目にして突然号泣しはじめた謎の中年女に馬上の人はおおいに焦り、再会した幼なじみに体当たりをかまされたアクション担当の役者はたじたじだったという。
私は今度こそ、見逃さなかったのだ。




