最終編
翌日、蒼は眼科に来ていた。
週に3日は通っている検診の関係で今日も訪れていた。
待合室には疎らに患者がいて、各々雑誌を読んだり、ウォークマンで音楽を聴いたりしている。蒼は、手近なソファに浅く腰を下ろして自分の名前が呼ばれるのを待っていた。
手元の腕時計が短い電子音で時間を告げる。まだ呼ばれる気配はない。蒼はそわそわと落ち着かない様子で携帯に手を伸ばす。少し向かうのが遅れそうだと栞に連絡を入れようとしたのだが、次の瞬間診察室から顔をだした看護師に名前を呼ばれた。
「長瀬さーん」
「はい」
診察室から看護師の声に、蒼は返事をすると座っていたソファから立ち上がった。一度手に掴んだ携帯も鞄へと押し込めた。
その後、滞りなく検診を終えて、すぐに栞のもとへ向かおうとしていたが不意に看護師に呼び止められてしまった。
「長瀬さん、ドナーがみつかりましたよ!」
「え?」
思ってもみない朗報に素っ頓狂な声が出てしまった。いや、誰かが亡くなっているのだから喜んではいけないのかもしれない。でも、蒼は嬉しさを隠せずにいた。
「つい先ほど、脳死判定を受けた方がいらっしゃいまして、すぐにオペにはいりましょう!2時間もあれば終わりますからね」
看護師にそう告げられ、急すぎて蒼は気持ちがおいついていかなかった。けれど、これで真っ暗な世界ともおさらばなのだ。
「……今からですか? いや、でもちょっと連絡をとりたい人がいるんですが」
手術に入る前に、せめて栞には一言いっておきたかった。このあとの約束もあるので、時間の変更を伝えようと蒼はまた、携帯電話を手に取る。世間ではスマホが普及しているようだが、目の見えない蒼にとって真っ平らなあの画面は操作しずらくて仕方なかった。なので、未だに二つ折りの携帯電話を使用しているのだ。手術が終わって落ち着いたらスマホに変えてもいいかなと、密かに考えていた。
一度病室を出て、携帯のプッシュボタンを押していく。ボタンの配置は全て暗記しているので、番号入力もメールを打つのも今では慣れたものだ。
受話器を耳に当てて目当ての人物に電話をかける。しかし、何度かけても栞は出なかった。
「移動中かな……? とりあえず、メールいれておくか……」
不審に思いながらも、蒼は手早くメールを打って病室に戻っていった。
****
蒼は、手術台に横たわると周りを囲んだ看護師や医師に「すぐ終わります」「頑張って」と励ましの言葉をかけられる。
直後に腕にチクリと痛みが走り、点滴の針を刺されたのだと蒼は思った。違和感があったのは最初だけで、すぐに針が肌に馴染んでいく。
医師に何か声をかけられていた気がしたが、いつの間にか蒼は意識を手放していた。先程打たれた点滴は、意識をなくさせ深い眠りをもたらす睡眠剤だった。
****
「蒼くん」
聞き覚えのある声で名前を呼ばれる。
酷くこもっているが、間違いない栞の声だ。
「ん……? 栞? なんでここに」
そういいつつ蒼は、今自分が手術中だということをすぐに思い出した。
そうか、これは麻酔で見ている夢か、と。
光で顔は見えないが、女の子が傍に立っているのが目に入ってきた。表情は見えないはずなのに何故か、こちらに微笑んでくれているような気がした。
「蒼くん、さようなら」
その少女から栞の声が発せられた。この子は栞なのか?
「え?」
突然の「さよなら」の言葉に、蒼は戸惑うようにして少女に手を伸ばした。けれど、その手は少女に触れることなく空振りする。
「さようなら」
少女がもう一度そう呟くと、蒼に背を向けてゆっくりと歩き出した。眩いほどの光の先へ、彼女は立ち止まることなく歩き出す。
何度も「待ってくれ!」と蒼は叫んだが、どうしてもそれが声に出せない。声にならない叫びをあげ、虚空を掴んだ所で、一気に現実に引き戻される。
目を覚ますと心配そうに覗き込む、看護師の姿がそこにあった。
「長瀬さん?! 大丈夫ですか?」
どうやら肩を揺すられていたようで、ガクガクと揺れる自分の体に蒼はハッと我にかえった。
「お、俺は」
「うなされていたみたいで」
「いえ、俺は夢を。見ていたようです」
真っ白なシーツのベッドから体を起こす。手術が終わったあと病室のベッドへ移動させたのだろう。
蒼はゆっくりと辺りを見回す。すると、先ほどの看護師が目の前に立って自分を指差した。
「どうですか? 私が、見えますか?」
「はい、よく見えます」
力強く頷くと、看護師は胸をなで下ろして嬉しそうな顔になった。
手術は、成功した。
これでもとの、いや、普通の生活に戻れるのだ。
蒼は、ホッした半面夢の内容がどうにも気がかりだった。
その後、手荷物を受け取り蒼はすぐに携帯に目を通した。栞からの返信が見たかった。
しかし、着信履歴に入っていたのは知らない番号だった。
訝しげに思いながらも、その番号にかけていることにした。
数回のコール音の後、30代前半ぐらいの若い男性が出た。
「もしもし、こちら市立病院です」
病院のワードに蒼は眉を顰めた。何故私立病院から自分宛に電話が入ったのか。
「病院……? なんでしょうか?」
間違い電話だろうと思いながらも、一応用件を聞いてみる。
「藤堂栞さんをご存知ですね?」
男性の発言に蒼は、一瞬言葉が詰まった。そして、震える唇でなんとか声を搾り出す。
「栞に何か、あったんですか……?」
「彼女が先ほど、乗用車にはねられて――」
はねられた?
蒼は何がなんだかわからず、直ぐに眼科を出て市立病院へと走った。
途中、看護師や医師に呼び止められた気がしたが構っている暇などなかった。
****
嘘だ。
栞が。
栞が。
無我夢中で走って、なんとかたどり着いた病院の受付から案内されたのは
霊安室の前だった。
漂ってくる線香の香りに、全身から力が抜けた。ガクッとその場に膝を折った蒼の傍へ駆け寄ってきたのは、恐らく先程電話に出た男性だろう。
「藤堂栞さんの身内の方ですか?」
男性にそう問われ、放心状態の蒼は静かに首を縦にふった。
****
嘘だ。
こんなのは、嘘だ。
蒼が、男性に言われるがままに霊安室へと足を踏み入れた。
そこには自分と同い年ぐらいの女の子が白いベッドの上に横になっている
全身が丸太のように硬直して、青白い肌にはいくつもの打撲したような青痣があった。頭部や、四肢には一筋、二筋と鮮血が線を作っている。
「……栞?」
少女は、何も言わない。
「先ほどボールをおいかけて道路に飛び出した子供を助けようとして、そのまま……。お子さんも助かりませんでした」
「栞……?! 栞!!」
一度も好きだと言ってやれなかった
「嘘だろ! 栞っ! 目を開けてくれよ!」
乱暴に抱いてやることしかできなかった
「冗談だって……! いってくれよ……こんなっ、こんなのはっ」
少女の眠るベットになだれ込むようにして倒れ、何度も栞の肩を揺すった。栞の体は氷のように冷たく死後硬直の始まった体は石のように硬い。
先程の男性は、蒼の背後に回ると肩に優しく手を置いてきた。体を震わせて振り返ると、男性は首を左右に振る。
そして、男性は白衣のポケットから何やら取り出すと蒼の目の前に差し出す。
「彼女が最後に持っていたものです、おそらくあなたに宛てたものだと」
「……手紙?」
手渡された、ピンク色をした便箋を開き中から一通の手紙を取り出す。
それを見て、蒼はきつく目を閉じると堪えていた涙が頬を伝った。一度涙が溢れてしまえば、あとはもうとめどなかった。
「長瀬蒼くんへ
はじめまして、長瀬くん。私は、藤堂栞といいます。
あなたは多分私のことを知らないと思います。
突然ですが、この高校に入学したときから
図書室でよくあなたのことを見かけていました。
いつもあの窓際の一番端の席に座っていて
呼んでいるその黄色い本はどんな本ですか?
楽しい本ですか?悲しい本ですか?切ない本ですか?
でも、あなたの読んでいる本ならきっと素敵な本なんだろうなと
私は思います。私もいつか読ませてもらってもいいですか?
ずっと、ずっと長瀬くんのことが好きでした。
私は、長瀬くんを見ているとすごく元気になるし
幸せをもらいます。
私も、長瀬くんに幸せを与えられるように頑張るので
よかったらお友達から、よろしくお願いします!」
そう綴られた、手紙には、事件前日の日付が最後に書かれていた。便箋にはさらにもう一枚カードが出てきた。
「これは…」
目尻から流れ落ちる涙で袖で拭いながら、カードを手にとって蒼は絶句する。
「ドナーカードです。彼女は両目をドナー登録していました。そして、あなたに目を提供したのも彼女です」
「栞っ……、なんでだよ……なんでっ」
自分は、彼女に対して何もしてやれなかった。むしろ酷いことばかり、彼女が傷つくことばかりしてきたじゃないか、……それなのに。
今まで両親も亡くして、失明もして、失ったものや辛かったことはたくさんあった。
世界で一番不幸な高校生は、多分自分のことなんだろうと思ったりもした。
でも、失明して不便だと感じても最近になるまで移植を望むことはなかった。
何故なら、誰かのために生きようという想いは今までの俺にはなかったから。
好きな女の子ができたあたりから考えが変わった、彼女に助けられているばかりではダメだ。俺が彼女を助けてあげられるぐらいにならないと、導いてあげたいと、思ったから。
正直、彼女が犯人の娘だと知った時は信じられない気持ちでいっぱいで、裏切られたと思っていた。だけど、それを乗り越えて、今やっと、やっと……。
全ては、栞のために。彼女と生きていく道を選んだから、移植を望んだのに。
「君のいない世界で、目が見えるようになったって、意味ないんだよ……っ!」
蒼は、堰を切ったように大声で泣き出すとその場に崩れ落ちた。
****
あれから数日が経った。
栞が亡くなったという事実は、当然学校にも広まっているようだった。
抜け殻の状態で、校内に足を向ける。
栞は家族がいない、なので家族の代わりに蒼が栞の荷物を学校に引取りに来たのだ。
下駄箱の前で、乱暴に上履きを地面に落としていると背後から声をかけられた。
蒼が死んだ魚の目をして振り返ると、そこにはいつぞやの栞のクラスメイトが立っていた。
「蒼くん、おはよう。藤堂のやつが死んだらしいね」
「よかったね、害悪な人間がこの世から消えて」
その発言を聞いた次の瞬間、蒼は彼らに殴りかかっていた。自分でも驚く程に頭にカッと血が上ったようだ。執拗に栞を虐めていたと思われる、ひとりの男子生徒には地面に突き飛ばして馬乗りになって顔面を殴ってやった。自分の拳から血が出ようが、骨の軋む音が聞こえようが関係なかった。ただ、無心で殴った。通りかかった教職員によって蒼は羽交い絞めにされて生徒から引き離されたが、制止する人がいなかったら殺していたんじゃないかという気迫だった。
****
騒ぎを起こした、蒼は校長室に呼ばれた。
険しい顔をした髭面の校長が顔の前で手を組んで、蒼に目を向ける。
「長瀬くん、君どうしちゃったの。真面目でいい子だったじゃないか。今回の騒ぎの件、怪我人も出ているからね。謹慎処分だよ」
校長にそう、告げられたが蒼は顔色ひとつ変えることなく「いえ」と一言呟いた。校長が「ん?」と首を傾げた。
「やめます。退学処分にしてください」
「急にどうしたの?!」
「もう、俺には必要ないんです。何もかも」
蒼はそのまま踵を返して校長室を出て行った。校長は、目を見開いたがあとを追ってくることはしなかった。
****
もう、学校もやめてきたしどうしようかな。
家族も殺されていなくなった。
生涯で初めて好きになった女の子もいなくなった。
そうか、俺もいなくなろう。
それがいい。
どこがいいかな、人の迷惑にならないところで静かに逝こう。
樹海なんてどうだろう。
蒼は、学校からの帰り道そんな事を考えながら歩いていた。
彼の胸中とは裏腹に、太陽が眩しい程に照りつけて鳥たちが囀っている。
鳥の鳴き声に、俯いていた顔を上げると蒼の目の前に飛び込んできたのは道路を横切る小さな子供と、今まさにその子をはねようとしているトラックだった。
「……危ないっ!」
蒼は叫ぶと、子供を抱きかかえてなんとかトラックをよけきるが、受身をとった拍子に肩にひびが入ったような音がした。
「大丈夫?」
痛みに顔を歪めながら、子供に抱き起こす。
突然の出来事に驚いたのか、子供は赤ん坊のように口を大きく開けて泣き出した。
「……よかった無事だったんだな?」
「……あれ?」
子供の無事を確認して、ホッしていたのも束の間、じんと鼻の奥が痺れるようにして涙がはらはらと頬を伝ってきた。
「なんだ、俺……おかしいな」
泣き騒いでいた子供は蒼を見て不思議そうな表情をして顔を覗きこんできた。
「お兄ちゃん、痛い痛いなの?」
子供がたどたどしい手つきで蒼を撫でる。それを合図に蒼が子供を両手で抱きしめると火がついたように泣き出した。熱い涙が幾重にも筋を作って流れていく。
「……栞っ……うっ……うぅ」
栞のあとを追って死のうと考えていた矢先なのに、今トラックを目の前にして足がすくんだ。怖かった。自分が死ぬかもしれないと考えると。恐ろしくなった。
蒼は、自分の浅はかさや情けなさに涙が出た。
それに栞は俺にこんなことをさせたくて眼を提供してくれたわけじゃない。
「馬鹿だよ、俺は本当に馬鹿野郎だっ」
****
数時間後、蒼は栞の墓参りに来ていた。
「栞」
「綺麗だろう、この花」
蒼は、手に持っていた花を墓前に供えた。
「手紙よんだよ……。あの本は、実は白紙なんだ」
言いながら、蒼が墓前にしゃがみ込む。
「俺、将来絵本なんかの作家を目指しててさ。無地の本を買って、物語を自分で紡ごうと思っていたんだ。だけど、白紙と睨めっこするばかりでまったく筆は進まなかった」
「おかしいよな」と、自嘲気味に蒼は笑うと、ふうと息をついた。そして、栞の墓をキッと真剣な眼差しで見据えた。
「この本を完成させるよ。そしてこれを持って君の元へ行く。それは、今じゃない。きっとずっと先の遠い未来。次に栞に会う時までにこの本を完成させる。必ず」
「だから、待っていてくれないか? 俺がそっちに行くまで」
「最後まで言えなかったけど、栞。君を愛してるよ」
「これからも、ずっと君だけを想う……」
「またな」
最後にその言葉を残し、蒼は墓を後にした。
供えられた花が、優しく風に揺れる。
その音がまるで栞が笑っているような、そんな気がしたのだ。




