第19話「崩壊の臨界点と血塗られた靴下」
「殺す! 殺してやる!! 私の陸に近づく泥棒猫は、全部私が殺してやるああああああッ!!」
密室のカラオケボックスに、獣のような結愛の絶叫が反響する。背後から羽交い締めにしている僕の腕の中で、彼女の細い身体は信じられないほどの力でバタバタと暴れ回っていた。火事場の馬鹿力どころではない。生存本能のすべてを「目の前の外敵を排除する」という一点に極振りした、狂気の暴走状態だ。
「結愛! やめろ、頼むから落ち着け! 僕はどこにも行かない!」
「嘘だ! だってその女、陸と二人でこんなところに……! 私の知らない陸を、その女が奪おうとして……! 離して、陸! そいつの顔をぐちゃぐちゃにしてやる!!」
結愛の右手に握られた銀色のブックマーカー、本来なら本に挟むだけの美しく無害な栞が、今は鋭利な凶器となって虚空を切り裂いている。もし僕の拘束がほんの少しでも緩めば、あの鋭い雪の結晶の角が、間違いなく白石の眼球か頸動脈に突き立てられるだろう。
「ひっ……あ、あ、ああ……っ」
ソファの隅にへたり込んだ白石みぞれは、ガタガタと全身を震わせながら後ずさりしようとしていた。しかし背中はすでに壁に張り付いており、逃げ場はない。
先ほどまで僕を嘲笑い、スマホの電源を切って「試してみましょうよ、彼女の愛情の深さを」と、サディスティックにゲーム盤を支配していた女の面影は、もはや微塵もなかった。彼女の瞳孔は極限まで見開き、顔面はシーツのように蒼白になっている。
白石は賢い女だ。だからこそ、今目の前で起きていることが「ブラコンの妹が嫉妬して怒っている」というような可愛い次元の話ではないことを、肌で理解してしまったのだ。
論理も、駆け引きも、脅迫も、今の結愛には一切通用しない。理性を完全に焼き切った本物のヤンデレは、自分の命すら天秤にかけず、ただ標的を破壊することだけを目的とする化け物なのだと。
「あ、開けて……鍵、開けてよ……っ! 天野くん、そいつ、頭がおかしいわ……っ! 私、帰る、帰らせて……!」
「動くな白石!!」
内側から鍵をかけられた防音扉へ這いずろうとした白石を、僕は怒鳴りつけた。結愛は今、白石の一挙手一投足に異常なほど過敏に反応している。白石が不用意に動けば、それが引き金となって結愛のストッパーが完全に弾け飛ぶ可能性があった。僕の腕力だけで、これ以上この狂乱状態の妹を抑え込み続けるのは限界に近い。
「いいか、白石! お前は壁際から一歩も動くな、声も出すな! 少しでも結愛を刺激したら、僕でも抑えきれない!」
僕の怒声に白石はビクッと肩を跳ねさせ、両手で自分の口を強く塞いで涙目になりながら首を縦に振った。
「結愛、結愛、僕の声を聞いてくれ!」
僕は床に組み伏せた結愛の耳元で、必死に語りかけた。
「僕はその女に脅されて、無理やりここに連れてこられただけだ! 自発的に来たんじゃない、ずっと結愛のところに帰りたくて、結愛のことだけを考えていたんだ!」
「嘘……嘘だ! だって、ネットのあの人も私を裏切った! 陸も私を置いていくんでしょ!? ネットの泥棒猫が私の居場所を奪ったみたいに、この女が現実の陸を奪うんだ!!」
結愛の口から悲痛な叫びが漏れた瞬間、僕の胸を鋭い罪悪感が突き刺した。
昨夜、僕自身が『有能P』として実行したネット上での裏切りが、結愛の精神の防壁をすでにボロボロにしていたのだ。そこへ今日、学校でのGPS監視と、白石によって強行された「密室カラオケでの通信切断」という決定的な絶望が叩き込まれた。
GPSの途絶から三十分。どこにいるかも分からなくなった僕を追いかけ、靴すら履かずに駅前まで走り込み、フロア中の部屋を覗き込んでここまで辿り着いた結愛の心は、まさに今、崩壊の臨界点に達している。
このままでは結愛の心が完全に壊れてしまう。あるいは、僕の手を振り切って本当に白石を刺してしまう。
僕は覚悟を決めた。たとえそれが、白石みぞれという人間にどれほどの屈辱を与え、後でどんな報復を受けようとも、今は結愛の世界を肯定し、彼女に絶対的な安心を与えるしかなかった。
「結愛! よく聞け! 僕がこんな女を好きになるわけがないだろう!!」
「……え?」
暴れる結愛の力が、ほんの少しだけ弱まった。
「見ろ、この女を! 人の弱みを握って脅迫し、他人の不幸を笑うような最低の性悪女だ! こんな女と一緒にいて、僕が楽しいわけないじゃないか! 吐き気がするほど嫌いだよ!!」
僕の言葉がカラオケボックスに響き渡る。白石の肩が大きく震え、口を塞いだ両手の隙間から、信じられないものを見るような目で僕を見つめていた。プライドの高い彼女にとって、他人の前でここまで露骨に罵倒され、存在を否定されることは初めての経験だろう。だが、今の僕に彼女の自尊心を気遣う余裕など1ミリもない。
「僕にとって大切なのは結愛だけだ。結愛以外に、僕の世界に女の子なんて一人もいらない。僕の隣は結愛だけの特等席だ。だから……だから、もうそんなものを振り回すのはやめてくれ。僕の可愛い結愛が、人殺しになんてならなくていいんだ」
僕は結愛の背中を、まるで壊れ物を扱うように優しくゆっくりと撫でた。
「……り、く……?」
「そうだよ。結愛のお兄ちゃんだ。ずっと結愛の味方だ。だから、武器を捨ててくれ」
結愛の体から、徐々にピンと張り詰めていた力が抜けていくのがわかった。過呼吸気味だった荒い息が、少しずつしゃくりあげるような泣き声へと変わっていく。
「ほんと……? ほんとに、陸は、私だけのもの……?」
「ああ、本当だ。結愛だけのものだ」
「どこにも、いかない……?」
「行かない。ずっと一緒にいる。スマホの電源だって僕が切ったんじゃない。その女が勝手に切ったんだ。僕は結愛から逃げたりしない」
「……り、く……っ!」
結愛の右手から力が抜け、銀色の雪の結晶のブックマーカーが床に落ちた。それと同時に、結愛は堰を切ったようにボロボロと大粒の涙をこぼし、僕の胸の中に顔を埋めて子どものように泣きじゃくり始めた。
「あああぁぁぁ……っ、りくぅ……っ! 怖かった……怖かったよぉ……っ! 画面から陸が消えちゃって、どこに行っちゃったか分からなくなって……っ! 私、私ぃ……っ!」
「ごめん、結愛。ごめんな。もう大丈夫だ……」
僕は結愛の細い背中を強く抱きしめながら、彼女の足元に視線を落とした。靴も履かずにアスファルトを走り抜けてきた彼女の白い靴下は、泥と血でどす黒く汚れ、所々が破れて痛々しい素肌が覗いていた。この足で、息を切らし、絶望に支配されながら、GPSが最後に示したこのビルまで走り、数十もあるカラオケの部屋を一つずつ覗いて回ったのだ。
その執念の深さと、彼女をここまで追い詰めてしまった自分自身の愚かさに、僕は唇を強く噛み締めた。
「……っ」
不意に衣擦れの音がした。見ると、白石が壁伝いに滑るように立ち上がり、震える手でドアの鍵を開けようとしていた。
「……待て、白石」
僕が低く声をかけると、白石はビクッと体を強張らせて振り返った。その顔は涙と恐怖でぐしゃぐしゃになっており、先ほどまでの「サディスティックな観察者」の面影は完全に消え失せていた。
「言っておくよ。もし今日ここで起きたことを誰かに話したり、ネットで僕の正体をバラしたりすれば、結愛は次こそ本当にお前を殺しに行く」
「……っ!」
「僕にももう止められない。自分の命が惜しいなら、もう二度と僕たちに関わるな。学校でも、ネットでもだ。……分かったか?」
僕の脅しがどこまで効くかはわからない。もしかしたら、安全な場所に逃げ込んだ途端に、警察に通報するか掲示板にすべてを暴露するかもしれない。だが、今の白石の瞳に浮かんでいるのは、計算や悪意ではなく、純粋な「狂気への恐怖」と「逃げ出したい」という本能的な拒絶だけだった。
「……狂ってるわ……。あなたたち兄妹、二人とも……絶対に狂ってる……っ!」
震える声でそう吐き捨てると、白石はガチャリと鍵を開け、ドアを押し開けて逃げ出すように廊下へと飛び出していった。バタンと重い防音扉が閉まり、足音が遠ざかっていく。部屋には再び、カラオケのカラフルな点滅と、虚しく流れるBGM、そして結愛の泣き声だけが残された。
僕は大きく息を吐き出した。テーブルの上に放置されていた僕のスマートフォンを取り上げ、電源ボタンを長押しする。画面が明るくなり、再起動のロゴが表示された。
最悪の事態──結愛が白石を刺して取り返しのつかない罪を犯すことはどうにか回避できた。
だがこれで全てが終わったわけではない。白石みぞれという現実の脅威を退けても、「ネットの泥棒猫・白雪みぞれ」という存在が消えたわけではないのだ。結愛のPに対する絶望と、見えない敵への憎悪は、何一つ解決していない。
(……どうすればいい?)
僕が「有能P=天野陸」であることを結愛に隠し通したまま、どうやって白雪みぞれとの関係を清算し、結愛の壊れかけた精神を救い出すのか。
「……陸……?」
僕の胸の中で、少し落ち着きを取り戻した結愛が、涙で濡れた瞳で見上げてきた。その瞳には、先ほどの狂気的な暗濁とは対照的な、すがるような幼さが宿っていた。
「ねえ、陸……。私、もうネットなんてやらない……。裏切るような人たちも、画面の向こうの嘘つきも、全部嫌い。みんな私を傷つける……。陸だけがいればそれでいいの……」
「結愛……」
結愛は自分がVTuber『星降ルナ』であることを僕に隠している。だから、配信やプロデューサーといった具体的な言葉は決して口にしない。しかし、彼女の震える声に込められた絶望は、間違いなく星降ルナの終焉を意味していた。
僕たちが二人三脚で築き上げてきた輝かしい実績も、ファンからの歓声も、すべてがこのドロドロとした泥沼の中に沈もうとしている。
(いや……これでいいのかもしれない)
ネットでの活動を完全にやめさせ、僕が現実世界でずっと結愛のそばにいてやれば、彼女の精神は安定するかもしれない。それが、僕が支払うべき贖罪の対価なのだとしたら。
そう思いかけた、まさにその時だった。
ブルッ……。
手の中で再起動を終えた僕のスマートフォンが、微かなバイブレーションを打ち鳴らした。画面を見ると、Discordの通知が表示されていた。
送信者は『白雪みぞれ』
『有能Pさん、急に配信を切ったり、昨夜コメントを固定してくれたり……色々ありがとうございますっ』
『ルナちゃんの様子、どうですか? すごくショックを受けて配信落としちゃいましたよね。心配です(>_<)』
『でもこれで、Pさんは私だけのものになりましたよね? 今夜、二人だけでお話ししませんか?』
画面に浮かび上がる悪意のない(あるいは、徹底的に計算された)メッセージの文字を見た瞬間、僕の背筋に冷たい汗が吹き出した。
メッセージの送信時刻を見ると、それは白石が僕のスマホの電源を切った直後──つまり、結愛がこの部屋に殴り込んでくる前に送られたものだった。
カラオケで僕のスマホの電源を切り、結愛が家でどう苦しむかを嘲笑いながら、彼女は裏でこんなメッセージを、P宛てに送っていたのだ。自分が仕掛けた悪意が、どれほど凶悪な化け物を叩き起こすのかも知らずに……。
もちろん、今の白石みぞれは自宅で恐怖に震えているはずだ。現実で結愛の本物の殺意に触れた以上、もう二度とこんな呑気なメッセージを送ってくることはないだろう。
もしこの状況で、Pとしての僕が白雪を突き放せば、彼女は腹いせにネット上で「有能Pとの秘密」や「ルナへの嫌がらせ」を大々的に拡散するかもしれない。そうなれば休止どころか、星降ルナの炎上と破滅は免れない。
一方で、結愛は僕の胸の中で、僕の服の裾をキュッと強く握りしめている。
「ねえ……帰ろ? おうち帰ろ……?」
「……ああ。帰ろう」
僕はスマートフォンの画面を伏せ、結愛の背中に手を回した。
「立てるか?」
「ううん……立てない。足、痛いの……」
「わかった。おんぶしてやる」
僕は血と泥で汚れた靴下を履いた妹をそっと背負い上げ、ゆっくりと立ち上がった。
背中に伝わる結愛の体温は異常なほど熱く、僕の首に回された彼女の両腕は、まるで二度と離さないと言わんばかりに強く締め付けられていた。
鍵の開いた防音扉を押し開け、カラオケボックスの薄暗い廊下を歩いていく。現実の泥棒猫を追い払った束の間の平和の裏で、ネットの泥棒猫が仕掛けた罠と、自分自身が作り出した二重生活の代償が、逃げ場のない毒となって僕の首を絞め続けていた。
血塗られた靴下の感触を背中に感じながら、僕は静かに覚悟を決めた。
(白雪みぞれ……お前との決着をつけなきゃ、僕と結愛の本当の地獄は終わらない)




