第2章:取引《ディール》
その二つの赤い光の点は、俺を射抜くようにじっと見つめていた。
そして俺はといえば、指一本動かせず無様に地に這いつくばったまま、それを見返すことしかできない。
どうやら、俺の人生はここで本当にゲームオーバーらしい。
『人間の子よ。貴様、この世界の者ではないな?』
先ほどよりも、その声は鼓膜に直接響くようにクリアに聞こえた。
だが、その威圧的な物言いは、俺を脅そうとしているのだろうか?
「ちが……っ!」
俺はその意味を理解する余裕すらなかった。
脳髄はとうに麻痺しかけている。
ただ本能のまま、ありのままを口走るしかなかった。
答えようとしたが、喉から絞り出されたのはひどく弱々しく、震えた声だった。
『ほう、これは失敬……。随分と深い傷だな。貴様は、我がかつて出会った者たちとは随分と毛色が違う。酷く脆弱だ』
「ゲホッ……ガハッ……!」
口からドス黒い血が吐き出される。
俺は左脇腹を力なく押さえた。
傷は絶望的なまでに深い。
意識が遠のき、ゆっくりと瞼が落ちていく……。
「たす、けて……」
掠れた声で、俺はそう懇願した。
『人間よ。他者が言葉を発している最中に眠りにつくとは、ひどく無作法ではないか』
化け物の『手』のようなものが、俺の身体に触れた。
その瞬間、絶対零度の冷気が全身の血管を駆け巡るような感覚に襲われた。
背中に、無数の焼き印を押し当てられるような激痛が走る。
まるで、見えざる針で何かを直接刻み込まれているような――。
(アアアアアアッ!!!)
俺の背中に、一つの紋章が浮かび上がった。
それは俺自身が流した血を触媒にして形成され、やがて淡い黄金の光を放ち始めた。
次の瞬間、抉り取られていた左脇腹の肉芽が文字通り『増殖』し始めた。
蠢きながら、ゆっくりと傷口を塞いでいく。
(ジュルルルルッ!!!)
狂いそうなほど痛いが、同時に得体の知れない感覚だった。
千切れた神経や細胞が強制的に『接続』されていくような、これまでに経験したことのない異質の痛み。
(ガアァァァッ!!!)
傷が完全に塞がった。
傷跡一つ残らず、痛みも嘘のように消え去っている。
まるで、最初から何も起きていなかったかのように。
「俺……生きてる……?」
恐る恐る身体を動かしてみる。
今度は、微塵も痛みを感じない。
俺はしっかりと両足で大地に立つことができた。
(信じられない……)
あれほどの致命傷が、一瞬で完治するなんて。
俺は周囲を見渡し、命の恩人(?)である化け物の姿を探した。
そいつはまだそこにいて、俺を観察するようにじっと見下ろしていた。
見上げると、改めてその異常な質量に圧倒される。
だが不思議なことに、ヤツと視線を合わせても、先ほどのような恐怖は一切感じなかった。
まるで、昔からの知己であるかのような奇妙な安心感すらある。
『身体の具合はどうだ?』
耳障りで、雷鳴のように響く声がはっきりと鼓膜を打った。
「あ、ああ……生きてる。身体も治ってるみたいだ……。あんたが助けてくれたのか……ありがとう」
「俺に、一体何をしたんだ?」
両手両足を曲げ伸ばしし、他に不具合がないか再確認する。
間違いない、絶好調だ。
『貴様と契約を交わしたまでだ。この契約により、貴様は永遠の超再生を得た』
「超再生……永遠に?」
『左様。貴様の細胞が一片でも残っている限り、貴様が死ぬことは決してない。必ず元の形へと修復される』
「……副作用とかはあるのか?」
『無いと言いたいところだが……貴様は二度と死ねん。これは恩恵というより、永遠の呪いに等しい』
俺は言葉を失った。
化け物の宣告を頭の中で反芻する。
それが朗報なのか悲報なのか、今の俺には判断がつかなかった。
「それで……ここはどこなんだ?」俺は尋ねた。
『ここは大迷宮【ヴォルズンヘイム】の一角。より正確に言えば、隠し階層だ』
『そしてこここそが、偽りの神々によって我が封印された場所……我のためだけに誂えられた特別な牢獄というわけだ』
そいつは、どこか誇らしげな響きでそう嘯いた。
ツッコミどころは山ほどあるが、一つだけ確かなことがある。
ここは俺の知っている世界(地球)じゃない。
「……なるほど、マジで異世界転移しちまったってわけか」
周囲を見渡しながら、俺はひとりごちた。
『いかにも』
再びその声が脳内に響く。
「俺のいた世界に帰る方法は?」
化け物に向かって問いかける。
『残念ながら、無いな』
ヤツはあっけらかんとした様子で即答した。
「……だと思ったよ」
俺は深いため息を吐いた。
「ここ、大迷宮だって言ったよな?」
「ここから外に出ることはできるのか?」
立て続けに質問をぶつける。
『無論可能だ。だが、そう容易い道程ではないぞ』
『現在貴様がいるこの【ヴォルズンヘイム】は、この世界でも最大規模であり、最難関を誇る大迷宮だ』
『さらに絶望的なことに、ここは【第100階層】だ』
「ひゃ、第100層……!?」
俺の顔が引きつる。
まあ、今目の前で喋っている規格外の化け物や、さっき俺を追い回したあの凶悪な巨狼を思えば、ここが初期階層なわけがないことくらい察しはつく。
『ここから脱出したくば、第1階層まで迷宮を逆走し、踏破するほかない。だが、我と契約を交わした今、貴様の道行きは幾分か容易なものになるはずだ』
「確かに、死なない無限再生持ちならゴリ押しできるか……」
俺は呟いた。
『その通り。して、どうする? ここで永遠に腐り果てるか?』
そんなの、答えは決まっている。
「一つ聞き忘れてた」
俺は口を開いた。
「あんた、一体何者だ? どんなバケモノなんだよ。それに、なんで俺なんかと契約した?」
化け物を真っ直ぐに見据えて問う。
『そこいらの雑魚モンスター共と一緒にしてもらっては困るな。我は上位悪魔、名を【ヴォルゴン・トゥール】という』
『貴様と契約したのは、我が封印を解いてくれたことへの礼に過ぎん。我は一千年の長きにわたり、ここに幽閉されていたのだからな』
「封印を、解いた……!?」
俺は素っ頓狂な声を上げた。
(……なんか俺、ヤバいことやらかしてないか?)
冷や汗が背中を伝う。
『ハッハッハッ! 無論、特大のやらかしであろうよ!』
上位悪魔は俺を嘲笑うかのように、腹の底から笑い声を上げた。
『だが厳密には、貴様は我を解放したわけではない。我を永き眠りから「目覚めさせた」に過ぎん』
『だが安心しろ。我はとうの昔に己の野心なぞ捨て去っている。世界を滅ぼすような真似は二度と起こさんよ』
『フハハハハッ』
「ま、まあ、結果的に命を救ってもらったわけだし。こっちこそ礼を言っておくよ」
俺は引きつった笑いを浮かべながら答えた。
『うむ。そういえば人間よ、まだ名を聞いていなかったな。貴様は何者だ?』
「俺の名前は……ショウゴ・ケイスケだ」
静かに答える。
『ショウゴ……ケイスケ……』
上位悪魔はその響きを確かめるように、ゆっくりと俺の名を反芻した。
『ニホン(日本)の出身か? この世界では聞き慣れん響きだ』
「ああ、その通りだけど……。なんで知ってるんだ?」
『かつて我を封印した者の一人が、その国の出身であったからだ』
上位悪魔は淡々と答えた。
「なるほど……だから最初に『この世界の者じゃないな?』って聞いてきたわけか」
『左様』
ということは、俺以外にもこの世界に渡ってきた地球人がいるということだ。
これは重要な情報だ、少しでも探りを入れておきたい。
「その『ニホン人』は、今どこにいるんだ?」
前のめりに尋ねる。
『ハッハッハッ! そんなこと、知る由もないわ!』
上位悪魔は豪快に笑い飛ばした。
『とうの昔にくたばっておるだろうよ』
鼻で笑うように、ヤツは冷酷に言い放つ。
「そ、そうかよ……」
(それだけか? 役に立たねぇな)
まあいい。詳しいことは、このクソッタレな迷宮を脱出してから自分で調べればいいだけの話だ。
「で、結局あんたは俺に何をさせたいんだ?」
俺は本題に切り込んだ。
「ただ俺を人助けするために契約を結んだ、なんてお人好しの悪魔には見えないけどな」
『勘のいい小僧だ。先ほども言った通り、我はこの階層に千年以上封印され、毎秒のごとく魔力を搾取され続けてきた』
『我もこの忌まわしい迷宮から脱出したい。そのためには、契約の依代となる強靭な肉体が必要だったのだ』
『そこに、都合よく貴様が転がり込んできた。我をここから連れ出してもらうぞ』
「要するに、俺を『依代』にしたいってことか?」
「断っておくが、身体を乗っ取られるなんて御免だからな!」
俺は警戒心を剥き出しにして言った。
『ククッ、案ずるな』
上位悪魔はなだめるように笑う。
『貴様の自我を奪うつもりはない。単に貴様の内に宿り、失われた魔力を回復させてもらうだけのこと』
「魔力を回復して、どうするつもりだ?」
『本来の姿を取り戻すためだ』
上位悪魔は即答した。
「じゃあ、その姿は仮の姿なのか?」
『無論だ』
「本当はどんな姿なんだ?」
『知りたくば、我を外の世界へ連れ出してみせることだな』
ヤツは勿体ぶるようにそう答えた。
「……分かった。契約成立だ。ただし条件がある。俺がこのダンジョンを脱出するのを全力でサポートしろ。それに、この世界の情報も教えろよ」
俺は条件を提示した。
『造作もない』
余裕たっぷりの声が返ってくる。
シュウゥゥゥッ……!!!
上位悪魔の巨体が眩い光を放ち、無数の蛍のような光の粒子へと分解されていく。
そして、俺の周りを舞うように飛び交うと、背中の契約紋へと次々に吸い込まれていった。
『あぁ、言い忘れていたが。この状態では、貴様といかなる手段でも意思疎通を図ることはできんのでな』
「おい、ちょっと待てっ――」
言い終わる前に、最後の光の粒子が俺の背中の紋章に吸い込まれた。
血で描かれた紋章がカッと強烈な光を放ち――やがて完全に沈黙した。
後には、不気味なほどの静寂だけが残された。
上位悪魔の声は、もう二度と聞こえなかった。
「ふざけんなクソ悪魔! 全力でサポートするって言ったくせに、意思疎通できないならどうやって助けるんだよ詐欺師がっ!」
誰もいない空間に向かって、俺は虚しく叫んだ。
ひとしきり悪態をついていると、突如として地響きのような音が轟いた。
同時に、聞き覚えのあるおぞましい咆哮が、急速にこちらへ近づいてくるのが分かる。
俺は弾かれたように立ち上がり、上層の暗闇を睨みつけた。
間違いない。《《さっきのあのクソデカい巨狼が、戻ってきたんだ!》》




