第1章:異質な洞窟
最初に感覚を打ったのは、異様な「匂い」だった。
これまで嗅いだことのない悪臭。腐肉よりも酷く――胃袋をひっくり返したくなるほどの強烈な刺激臭だ。
目を開けるまでもなく、自分が寝そべっている場所が本来ベッドと呼べる代物ではないことが分かる。冷たくて、硬い。
重い瞼をこじ開け、ゆっくりと上体を起こした。
視界に飛び込んできたのは、洞窟(?)だった。
(ここ、どこだ?)
自分の輪郭すらおぼろげなほどの暗闇。周囲を見渡すと、背後の岩肌に薄青く光る燐光体のようなものが点在していた。唯一の光源であるそれは、ここが間違いなく洞窟の内部であることを物語っていた。
(俺、死んだのか?)
まず脳裏をよぎったのは、そんなどこにでもあるテンプレみたいな疑問だった。
ここに来る前の記憶を必死に手繰り寄せてみる。
確か、誰かと会っていて……(あー、もういい、やめだ)
俺は立ち上がろうと腰を浮かせた。
足元がやけに濡れている。ふと下を向き、息を呑んだ。
(血、なのか……!?)
慌てて自分の身体をペタペタと触ってみるが、どこにも傷一つ見当たらない。
(俺の血じゃないなら、一体どこから?)
再び周囲を見渡す。暗順応した目で改めて確認すると、この洞窟は異常に広かった。壁面には血管のように脈打つ不気味な鉱脈が張り巡らされており、おぞましくも、同時にどこか蠱惑的な美しさを放っていた。
この血は壁から滲み出ているのか、それともここに迷い込んだ哀れな犠牲者のものなのか? 知る由もない。
ただ一つ確かなのは、一秒でも早くここから抜け出したいということだけだ。
ズルッ……ズルッ……
背後から、鼓膜を撫でるような異音が聞こえた。首だけを後ろへ回し、音の出処を探る。
(……何かいる)
迷宮のように入り組んだ地形のせいで、はっきりとは視認できない。
得体が知れない以上、君子危うきに近寄らずだ。俺はその場から静かに離れることにした。
ズルッ……ズルッ……!
(ヤバい、これはマズい展開だ)
音がさっきより近く、鮮明になっている。どうやら光源のある方向から迫ってきているらしい。逃げ出そうと歩調を早めるが、俺が焦れば焦るほど、背後の音もそれに呼応するようにピッチを上げてついてくる。
(誰だ……いや、何なんだよあれは?)
ついにその全貌が視界に収まった瞬間、背筋が凍りついた。
まるで古代の巨大狼か、規格外のネコ科の捕食者。鷲のように鋭く湾曲した爪を持ち、体毛に見えるものは波打つ黒水晶のようにギラギラと不気味な光を放っていた。
極めつけは、その頭部。
あるべきはずの「眼球」が存在せず、代わりに禍々しい骨の冠が角のように頭を覆い尽くしている。
おまけにデカすぎる。見上げるほどの巨体は、軽く見積もっても5メートルは下らない。
(クソッ! 完全に詰んだフラグじゃねえか)
足音を聞きつけたのか、それとも鋭い嗅覚で嗅ぎつけられたのか。いずれにせよ、俺が完全に「獲物」としてロックオンされているのは明白だ。草食動物か肉食動物かなんて愚問だ。あのサーベルタイガー顔負けの凶悪な牙を見れば一目瞭然だろう。
(考えろ、思考を回せ! まだ完全にバレてない可能性だってある)
身を隠せる場所を必死に探す。右手に手頃な岩の山を見つけ、這うようにしてその裏へと滑り込んだ。
岩の隙間から息を殺して覗き込むと、化け物は地面を執拗に嗅ぎ回りながら、洞窟内を徘徊していた。
(よし、落ち着け。深呼吸だ……スー、ハー……)
もう一度、様子を窺おうと身を乗り出した。
――真横に、いた。
逃げろ
脳髄がアラートを鳴らし、生存本能がそう叫んだ。
ガシャァァンッ!!!
足が勝手に動いていた。方向なんて関係ない。ただこのバケモノから一歩でも遠ざかりたかった。だが、俺が必死にスプリントするほど、背後の足音も容赦なく加速してくる。
(クソッ、限界だ! これ以上は足がもつれる!)
グアァァァッ!!!
鼓膜を突き破りそうな咆哮。直後、背後から急行列車でも迫ってきたかのような、ゾクッとするほどの冷気が背中を撫でた。
ズガァァンッ!!!
ドゴォッ!!
ガアァァッ!!!
ヤツの凶爪が直撃し、視界が真っ白に染まるほどの激痛が走った。
自分の身体に視線を落とすと、左の脇腹が紙切れのように引き裂かれ、どす黒い鮮血が滝のように噴き出していた。
そして顔を上げれば、化け物がすぐ目の前に立ちはだかっている。
音を立てないように、ジリジリと後退する。だが無意味だった。撒き散らした血の匂いのせいか、ヤツは俺の動きを完全に捕捉している。
(あぁクソッ、マジで万事休すかよ……)
後退する足元に気を配る余裕などなかった。ヌチャリと滑る地面に足をとられ――俺は背後の暗い「穴」に気づかなかった。
身体が宙に浮く。
ただの落下じゃない。斜面をボロ雑巾のように転げ落ち、鋭い岩の突起に何度も身体を打ちつけられる。そして最後は、凄まじい衝撃と共に硬い「何か」に激突した――。
ドシャァッ!!!
沈黙。
背中が砕けたように痛む。左脇腹の傷も致命的だ。指一本動かせない。全身を貫くような痛みに、思わず発狂して叫び出したくなる。
(ダメだ、声を出したら終わりだ。弱みを見せるな)
奥歯を噛み砕くほどの力で耐え、無理やり意識を浮上させる。
出血多量によるものか、視界はすでにモザイクがかかったようにぼやけ、急激に体温が奪われていくのが分かる。
どうにか上体を起こし、周囲を見渡した。落下前とは明らかに違う空間。そして、俺の身体を受け止めた「岩」は、ただの自然物ではなかった。
一枚岩の石碑。高さは2メートルほどあり、表面には異質な碑文が刻まれている。複雑に絡み合う螺旋状の幾何学模様。それが淡い黄金色の光を放ち、俺の視線を強烈に惹きつけていた。
螺旋の中央には見たこともないルーン文字が浮かび上がり、古の魔力のようなオーラを漂わせている。何かに導かれるように恐る恐る手を触れると――ふっと、その光が消えた。
瞬間、空間から一切の音が消え失せた。
世界が呼吸を止めたかのような、不気味なほどの静寂。やがて、モノリスの奥深くから「ピキッ」と春の湖の氷が割れるような音が響き始めた。その音は次第に大きさを増し、まるで孵化を待つ卵の殻が砕けるように、亀裂が石碑全体へと走っていく。
ピキピキピキ……パリンッ!
空間全体を震わせるような重低音。モノリスに入った巨大な亀裂から、再びあの淡い黄金色の光が漏れ出し、俺の目を眩ませる。
だが、光は一瞬にして飲み込まれ、再び絶対的な闇が空間を支配した。さっきよりもはるかに深い――底なしの深淵のような暗闇。
再びモノリスに目を向けると、そこには先ほどの巨狼など比較にならないほど「冒涜的」な何かが這い出てきていた。まるで、巨大な人間の『眼球』のような代物。
デカい。この洞窟では直立できないほどの圧倒的な質量。そいつはモノリスからズルリと身を乗り出し、氷のように冷たい視線で俺を見下ろした。明確な顔の輪郭はなく、黒煙が人間の顔を象っているかのようだ。その中心で、不安定に明滅する二つの赤い光の点だけが浮かんでいる。
その二つの赤い点は、俺の魂の奥底まで値踏みするようにジッと見つめていた。俺はただ地面に這いつくばり、虚ろな目でソレを見返すことしかできない。指先一つ動かす余力もない。激痛で狂いそうだが、声すら出せない。いや、決して弱みを見せてはいけない。
直後、そいつが嗤った(?)――顔なんて見えないはずなのに、俺の直感がそう告げていた。
『人間か。愉快だな。久方ぶりに見る顔だ』
脳内に直接響くような、重圧を伴う声が木霊した。
どうやら俺は、あの巨大狼に追い回されるよりも、さらにタチの悪い「絶望」を引き当ててしまったらしい。




