再会
次の日、俺たちは早速亜麻を漉き込んだ紙の試作に取り掛かった。
亜麻をほぐして灰汁で煮込み、柔らかくする。
十分に柔らかくなったら清水でよく洗い、簀桁で漉いていく。
漉いた紙は天日で干すのだが、ここ薩末鞬は晴れた日が多く、空気も乾燥しているので、とても乾きやすい。
「なかなか良いんじゃないか、兄い」
促織の言葉に、俺も頷いた。
これならなんとかなりそうだ。
「さすがは蔡侯の子孫だな」
紙漉き職人の一人、朱という男が俺を冷やかす。
「蔡侯」というのは、名を蔡倫と言い、その昔、漢の時代に、今も俺たちが漉いているような紙を作ったと言われている偉いお人で、紙漉き職人の間では神様扱いされている。
いや、姓が同じなだけで、俺のご先祖様とかじゃないはずだぞ。
そもそも、蔡侯は宦官だったっていう話だから、子孫はいない……、いや、宦官になる前にすでに子供がいたってこともあり得るのか?
まあどうでもいいや。とにかく俺は神様とは関係ないからな?
それに、伊斯蘭の教えだと、神様はただお一人であるらしいから、迂闊に神様だの何だの言わない方がいいと思うぞ。
ちなみに、ここに集められた紙漉き職人たちの中では、何となく俺が領導みたいな立場になっている。
蔡侯云々とは関係なく、俺の腕が一番だからだ。
朱さんなんかは俺よりもだいぶ年上なんだけどな。
薩末鞬の太守様にも試作品を見てもらい、ご満足いただけた。
これまで大食では、自前で紙を作ることはできず、商人が大唐から買い付けてきた紙を高い値で買うか、羊などの獣の皮を鞣した羊皮紙を使っていたらしい。
そりゃあ、今回の戦で捕虜にした俺たち紙漉き職人を大事にするわけだ。
そんな次第で、紙漉きの仕事も段々軌道に乗ってきた。
アニスとの結婚生活もきわめて順調。本当に出来た嫁だ。
俺個人にとってみれば、ここ薩末鞬での暮らしは順風満帆と言ってよかったが、世間の動向は必ずしも平穏とは言えないようだった。
怛羅斯の戦いで大唐軍を打ち破った敵将の斉亜徳という人は、その翌年に叛乱を起こして討伐された。
その親分である呼羅珊地方の総督の阿布・穆斯林という人も、そのさらに三年後に暗殺された。
噂によると、大食の王様が、謀反の疑いを抱いて刺客を放ったのであるらしい。
今の大食の国は、怛羅斯の前年にその前の国(ウマイヤ朝)をぶっ倒して出来たばかりらしいが、阿布ってお人はその時の功労者だって話なんだがな。
お偉い人たちには、恩義だの何だのってのは軽いものらしい。怖い怖い。
大食の王様は伊斯蘭の教主様も兼ねていて、とても偉いのだが、ついこの間代替わりした二代目の王様(アル=マンスール)は、とても怖いお人でもあるらしい。
阿布をはじめ、建国の功臣たちを次々に潰していってるって話だ。
まるで漢の高祖だな。
ええっと、こういうの何て言うんだっけ? ああ、そうそう。「狡兎死して走狗烹らる」だ。
え、お前意外に学があるんだなって? いやぁ、軍隊にいた頃に、科挙の落第書生が同じ隊にいて、そいつから色々教わったんだよ。
普通なら、科挙に受からなくってもお役人とかに雇われて文筆で食っていけるもので、実際そいつもそうしていたらしいんだが、雇い主の若い後妻に手を出して叩き出されたらしい。
まったく、「良い鉄は釘にならず、良い人は兵にならず」とはよく言ったもんだ。
怛羅斯の時は別の隊だったが、あいつどうなったんだろうな。
やっぱり戦死しちまったんだろうか。
と、まあ、色々物騒な世の中だが、差し当たって俺たちに大きな影響はない。
紙の改良に精を出す毎日だ。
「兄い、じゃねえ、親方。太守様から、いまいち墨水の乗りが悪いから何とかできないかって言って来られてるんだけど」
いつの間にか、俺は親方と呼ばれる立場になっちまった。
我ながら出世したもんだ。
今じゃ大唐軍の捕虜たちだけでなく、各地から買われてきた解放奴隷たちも俺の下で働いている。瞳の青いのやら肌の黒いのやら、色々だ。
「あー。そいつは俺も前々から気にはなってたんだがな。どうしたもんだろうなぁ」
「少し糊を混ぜてみる、ってのはどうだろうな」
朱さんがそう提案した。
ふむ、試してみるか。
小麦粉で作った糊を混ぜてみると、確かに墨水の乗りが随分良くなって、太守様からもお褒めの言葉をいただいた。
「上手くいってよかったな、親方」
「ああ。しかし促織に親方って呼ばれるのはどうも慣れねえな」
「慣れてもらうしかねえだろ」
なんて会話を交わしていたところに、職人の一人の郭ってやつが大慌てで駆け寄って来た。
「おい、聞いたか? 大唐ででっかい叛乱が起きたって!」
郭が言うには、河北の地でいくつもの藩鎮の節度使を兼ねていた安禄山ってやつが、楊貴妃の従兄である楊国忠と対立し、とうとう兵を挙げたのだという。
長安は叛乱軍に占拠され、天子様は蜀へ落ち延びて行かれたのだとか。
「お、おい、じゃあ娘娘は!!」
「娘娘?」
俺に食ってかかられた郭が面食らった表情を浮かべる。
ああ、すまない。昱歓お嬢様の行方なんて、わかるわけもないよな。
無事に落ち延びていらっしゃることを願うしかない。
遠い大唐の話がこちらにまで伝わって来たのは、大食も援軍を送り込んだからだ。
兵数は四千人ほどだとか。
かつて戦をした間柄なのにな、とは思うが、逆に叛乱軍に肩入れされるよりは断然いい。
はるか遠くの大唐に思いを馳せ、何も出来ない無力さを噛みしめながらも、俺は日々紙漉き仕事に勤しんだ。
そして、その頃身籠っていたアニスも、無事元気な女の子を産んでくれた。
それからしばらくの後、ここ薩末鞬にでっかい紙漉き工房を建てることになり、俺は正式にそこの親方になることが決まった。
なんでも、大食の王様直々の肝煎りであるらしい。
そして、薩末鞬の太守様が、大勢のお供を伴ってうちの工房を視察に訪れた。
そのお供の中に、一人の女奴隷がいた。
髪を色鮮やかな布で包み、顔の下半分を紗で隠した女奴隷は、太守様のお側に侍っていたが、どういうわけか、さっきから俺のことをその黒い瞳でしげしげと見つめている。
色目を使っているわけでもないようだし、何なんだろうな。
「先日、唐の援軍に赴きそのまま駐屯していた部隊が、ようやく帰国してな。その者たちが、向こうで購入した奴隷をわしに献上してきたのだ。こやつはその中の一人だが、話を聞くと紙づくりに関して知識があるらしくてな。おぬしらのところにまだ独り身の者がおれば、娶せてやろうかと思い、連れて参った」
太守様はそんなふうに事情を説明してくださった。
へえ、女の身で紙漉きのことを知ってるのか。
たしかに、この工房にも独り身の者は何人かいるが、さて、誰を推挙しようか、などと考えていると、女奴隷が突然叫んだ。
「七郎! やっぱりあなた、七郎なのね!?」
え? 何で奴隷女が俺の名前を知ってるんだ?
それにこの声……。
「まさか……、娘娘?」
昱歓お嬢様なのか? そんなまさか……。
「そうよ! 私、楊昱歓よ! 逢いたかったわ、七郎!」
「娘娘!! 生きておられたのですね!!」
思わずお嬢様に駆け寄り抱き締めようとする寸前で、太守様の困惑顔が目に入った。
そりゃあ、太守様にしてみれば、何が何だかわからないだろうな。
「おぬしたち、知り合いだったのか?」
「とんだ失礼をいたしました、太守様。こちらは、私が唐におりました頃、お仕えしていた方のご息女でございまして」
「ほう、それはそれは。数奇な縁もあるものじゃな」
まったくだよ。何だか夢を見ているみたいだ。
促織たちも呆気に取られる中、俺は太守様からその女奴隷――昱歓お嬢様を賜ることとなった。
ありがとうございます。どんなに感謝してもし切れねえくらいだ。
家に連れて帰って、俺はあらためてお嬢様から詳しい話を聞くことにした。
「昱歓と呼んでくれていいわよ……、じゃない。お呼びください、旦那様。今はあなたが私のご主人様ですから」
そんなこと言われてもなぁ。まあでも、そういうことにしておくしかないか。
「わかったよ。それじゃあ昱歓、これまでの経緯を聞かせてくれ」
昱歓が語ったところによると、俺が工房を追い出された後、彼女が手当たり次第に男を漁っているという噂が流れ、嫁の貰い手がない状況になってしまったのだとか。
そしてそんな中、張の野郎が親方に、自分でよければ嫁に貰ってもいい、などと売り込んだのだそうだ。
あの野郎、さてはわざとそんな噂を流しやがったな?
もちろん、昱歓がそんな女じゃないってことはよく知っている。
昱歓は当然嫌がったが、楊親方は、ふしだらと噂の立った娘に嫁の貰い手があるだけでもありがたいと思え、などと言って、張の野郎に彼女を押し付けてしまった。
張の妻となって辛い日々を過ごしていたところに、例の安禄山の叛乱が起きたってわけだ。
長安の町は叛乱軍に荒らし回られ、張は殺されて昱歓は攫われた。
攫ったのは、安禄山の軍の者たちではなく、やつが助っ人に呼び寄せた西方の騎馬の民だったようだ。
そして昱歓は、長安の西、涼州の町で奴隷として売りに出され、その後何人かの手を転々とするうちに、どんどん西の方へと連れて来られ、亀茲の町で大食の将に買われて、とうとうここまで連れて来られた、という次第なのだそうだ。
「苦労したんだな。すっかりやつれちまって」
「でも、おかげで旦那様と再会できました」
違えねえや。
俺はアニスに頭を下げ、昱歓を二人目の妻にしたいと頼み込んだ。
「頭を上げてください、旦那様。聖典にも、四人まで妻を持っても良いと書かれておりますから」
そうなのか。でももうこれ以上は必要ないよ。アニスのことも絶対に大事にすると約束する。
かくして、俺は昱歓を奴隷身分から解放してやり、二人目の妻に迎えた。
長安で別れてから、かれこれ八年ほど経っていただろうか。
まさかこんなことになるなんてなぁ。
でかい工房も無事完成し、俺はますます忙しい身となった。
一方で、昱歓との間にも男の子を授かり、アニスが産んだ娘もすくすくと育って、もうすぐ四歳になるか。
そんなある日、促織からこんな話を聞いた。
「杜の隊長、覚えてるかい?」
杜環さんか? ああ、忘れるわけないだろう。俺たちの命の恩人といってもいいお人だからな。
「あの人、大食の軍に入って、はるか西方の、肌の黒い連中の国と戦ってきたんだそうだけど、この度その功績が認められて、大唐への帰国の願いがかなったんだと」
本当か、その話?
俺の心はざわついた。
「親方、いや兄い。大唐に帰りたいかい?」
帰りたくないか、と言われたら、そりゃあ帰りたい気持ちもある。
けど……。
「ふん。ここの暮らしにもすっかり慣れちまったしな。人生至るところ青山ありってやつさ」
「何だい、そりゃ」
「住めば都ってことだよ」
「違えねえ」
俺は促織と二人、腹の底から笑い合った。
未練を吹き飛ばすためか、と言われたら……、そうだったのかもしれないな。
†††††
杜環は762年、唐の宝応元年、海路広州に到着し、ふたたび唐の土を踏んだ。
帰国後彼は、「経行記」という書物を著し、かの地での体験談の数々を記録に残した。
それは今日ではほとんど散逸してしまったが、その中に、タラスの戦いで捕虜となった唐兵の中に各種の職人が混じっていたことが記されている。
画工の樊に劉、織工の楽に呂といった人たちだ。
残念ながら、紙漉き職人についての記述はその中になく、彼らの名を知る術はない。
しかし、名もなき彼らによって製紙技術が西方にまで伝わり、その後の人類の歴史を大きく変えたことは、紛れもない事実である。
――Fin.