長安の紙漉き
※本作は史実を題材にしたフィクションであり、主人公は作者の創作です。
「愛しています、娘娘」
「私もよ、七郎」
昱歓お嬢様と熱い抱擁を交わし、麻布の覆いを被せた綿くずの山の上に押し倒そうとしたまさにその時、楊親方の怒声が倉の中に響き渡った。
「蔡、この野郎! 大事な娘を傷物にしやがって!」
俺の名は蔡七郎。楊親方の紙漉き工房で職人として働いている。
親方の娘の昱歓お嬢様とは想い想われる仲なのだが、親方は一人娘を官吏に嫁がせたいと考えていた。
科挙に受かったお役人つったら、たいてい三十も半ば過ぎって話じゃないか。
お嬢様はまだ十六だってぇのにひでえ話だが、そういう次第で、娘が自分の弟子と恋仲になることなど許してはくれず、それで俺たちは密会していたのだが……。
俺は親方に、力任せにぶん殴られ、お嬢様と引き離された。
一晩、今では使っていない古い倉に閉じ込められ、翌日には工房を追い出されることとなった。
お嬢様が泣きながら親方に縋って訴えかけてくださっているが、親方は聞く耳を持たない。
おい、ちょっと待て。お嬢様に手を着けてしまったのは事実だから仕方ないとして、工房の金を懐に入れただのなんだのっていうのはどういうことだ?
俺はそんな性根の腐った人間じゃないぞ!
「親方! 俺の話も聞いてください!」
「やかましい! お前はクビだ! 役所に突き出さないだけありがたく思え!」
門人が工房の金に手を着けたなどと噂になったら恥だということで、役所に突き出すのは止めてくださるそうだ。ありがたい話だな。もし本当に俺がやっていたのなら、だが。
他の門人たちはおろおろしながら成り行きを見守るばかりだ。
自慢じゃないが、こう見えて同僚たちの人望は厚かったので、親方と一緒になって俺を吊し上げようだなんてやつはいない。
しかしさりとて、親方に逆らってまで俺を庇おうだなんて根性のあるやつもいなかった。
そんな中で、張って野郎だけは、にやにやほくそ笑んでいた。
あっ、さては俺たちのことを親方にタレこんだのはこいつだな!?
職人としての腕はそこそこ悪くはないが、女癖が悪いと評判で、お嬢様にも言い寄って手ひどく突っぱねられたらしい。
それで逆恨みしやがったのか?
ひょっとしたら、工房の金に手を着けたのもこいつなんじゃないか?
娼館通いで随分使っているって話だしな。
だが、何の証拠があるわけでもない。
結局、親方は俺の話を欠片も聞き入れてはくれず、俺は身一つで工房を追い出された。
俺の実家は長安の町で細々と小間物屋を営んでいるが、両親はすでになく、跡を継いでいる十歳上の兄貴とはあまり折り合いが良くない。
特に、嫂との仲は最悪だ。これがまた本当に意地の悪い女でなぁ。
昱歓お嬢様の爪の垢でも煎じて飲ませてやりたい、と何度思ったことか。
けど、所詮三男坊の立場なんて弱いものだ。
え、何で三男なのに「七郎」なのかって? 「排行」てやつだよ。従兄弟連中とかも含めて七番目ってことだ。
二番目の兄貴も、暮らし向きは厳しいので、転がり込むわけにもいかない。
親方に破門された以上、長安で他の紙漉き工房の世話になるのは無理だろう。長安は広いが世間は狭いのだ。
さりとて、俺には他に出来るような仕事もない。
考えあぐねた挙句、俺は兵隊になることにした。
長征健児制ってやつで、兵の募集をしているのだ。
命の危険はあれど、食いっぱぐれることはないからな。
軍での訓練はさすがに厳しいものだった。
そりゃあ、命がかかってるんだから、当然ではあるんだが。
最初のうちは毎日ゲロを吐いていたが、段々に慣れてきて、そうこうするうちに親しいやつも出来た。
「おい、促織。こんなとこで何やってんだ?」
「あ、兄い。蟋蟀がいたもんでね。でもこいつは弱そうだな」
「お前も懲りないやつだな」
このあばた面の野郎は、名を李小三というのだが、仲間内ではもっぱら「促織」と呼ばれている。
促織ってのは、蟋蟀の別名――。寒くなる前に機を織れと促すように鳴き出す虫のことだ。
昨今、お偉い貴族様方の間では、「闘蟋」と言って、蟋蟀を喧嘩させる遊戯が流行っていると聞く。
雄の蟋蟀を二匹、盆の上に乗っけると、噛みついたり投げ飛ばしたりして大喧嘩をし、勝負がついたら勝った方が羽を鳴らして勝鬨を上げるのだそうだ。
そして市井でも、いち早くそういうのを真似するやつらが現れる。
この促織は、元は俺と同じ紙漉き職人だったそうなのだが、闘蟋博奕に入れあげ、仕事はおろそかにするわ借金はこしらえるわで、とうとう趙っていう親方の工房を追い出されたらしい。
まあろくでなしではあるのだが、気のいいやつだ。
俺が二十一で促織が十九なので、俺が兄貴分でこいつが弟分ってことになっている。
いや、義兄弟の契りっていうほどご大層なもんじゃねえよ。
桃園義挙じゃあるまいし。
「遊んでると隊長どのにどやされるぞ」
「わかってるって。けど、大唐の御世は泰平で事も無し。戦って言われてもピンと来ねえよなぁ」
「ふん、それはどうかな」
と、口を挟んできたのは、樊という先輩兵士だ。
俺たちより五つ六つ年上で、ちょっと世を拗ねたかんじの男だ。
まあ悪いやつじゃあないんだけどな。
「どういうことだよ、樊さん?」
「大唐の北の方でも西の方でも、夷狄どもの動向は油断がならん。そもそも、今回の兵募自体、西域で大きな戦が催されるからだ。知らんわけではあるまい?」
「いやまあ、それはそうなんだけどさ」
促織は困惑顔だ。
正直なところ、俺もあんまり実感は湧いてない。
西域のほうには、突厥だとか吐蕃だとかいう強国があり、一応大唐に従っちゃいるが、何が起きるかわからない状況なんだそうだ。
で、近々でかい戦が起きるらしく、俺たちの隊もそれに駆り出されることになっている。
だから、安穏としていられるのも今のうちだけ……ではあるのだが。
「それに、お上も、な……」
樊さんはそれだけ言って黙り込んだ。
続く言葉は、さすがの彼も口にできなかったのだろう。
誰が聞いているかわからないからな。
天子様は英邁なお方だと言われているが、最近はちょっと雲行きが怪しい。
何年か前から楊貴妃という美女を可愛がられ、それだけならまだいいのだが、貴妃様の従兄だとかいう楊国忠っていうろくでなしを重用され、宮中は色々揉めているのだとか。
工房にいた頃はともかく、軍の中にいると、そういう噂は耳に入りやすいんだ。
それにしても楊貴妃、かあ。
俺はふと、お嬢様のことを思い出した。
姓は同じ「楊」だし、貴妃様のお名前は「玉環(yù huán)」というのだそうだが、「昱歓(yù huān)」とよく似ている。
天子様が寵愛なさる美女にはさすがに及ばないだろうけど、お嬢様だってすごくお綺麗なんだ。
どこぞのおっさん役人に嫁がされてしまったんだろうか。
想像すると胸が掻きむしられる。
せめて幸せでいてくださったらいいのだが。
年は明けて大唐の天宝10載(西暦751年)。
軍隊暮らしを続けていた俺たちは、春の気配が訪れる頃、長安を発ち、何ヶ月も掛けて西域へ向かう長い旅路についた。