兄
「…………は? え?」
言葉が見つからない。最悪な形での家庭崩壊だ。その当事者である美咲の精神的ダメージは想像を絶するだろう。
兄が家族を襲い、そこから連鎖的に全てが崩れる。獣に何もかも喰らいつくされるのだ。
「当然私も狙われて危うく死にかけたけど、助けに来たグローバーのおかげで一命は取り留めたわ。お母さんはその場で処理されたけど」
「…………お兄さんも?」
美咲はうつむきグッと缶を強く握りしめた。
「いいえ。逃げられたみたい。そして今も……何処かにいる」
そして卓也の目を真っ直ぐと見据える。その瞳には燃え、怒りと闘争心に満ち溢れていた。
「ペンギン型キャリアー……処理された記録が無い以上、お兄ちゃんはまだ生きている。だから……」
深呼吸をし、更に強く拳を握る。缶は潰れ紅茶が足元に散らばった。
恐ろしさすら感じる気迫に、卓也も思わず息を飲む。
「私が切る。必ず」
自らの手で実の兄を殺す。そんな重苦しい覚悟が美咲にはあった。
卓也は何も言えなかった。肉親を殺める罪を背負う、そんな心情を彼には想像もつかない。
「…………ごめん」
やっとの思いでその一言が出る。聞いてはいけない事だった。美咲の過去、その心の傷を開くような行為だと深く反省する。
不快な思いをさせてしまっただろうと思うと、謝る事しか出来なかった。
「別に謝らなくても良いのに」
だが美咲は違った。先程とは打って変わって、謝罪など不要と優しく微笑む。
「いや、だけどさ」
「だから大丈夫だって。藤岡君は悪くないし、私も気にしていないんだから」
卓也はただ不思議だった。怒りはせずとも、美咲にとっては話して気分の良い内容ではないはず。だが彼女の態度は変わりはさはない。本当に不快に感じていないようだ。
「だって、私だけじゃないよ……こういうの。世界中に広がっているのだから、家庭内で発症したキャリアーで一家全滅だなんて珍しくもない」
「…………」
「殆どのグローバーは似たような境遇ね。私が特別不幸な訳じゃない。そして今もそんな事件は起きている」
美咲の言う事は確かにあり得る。家族の一人が感染、発症し襲い掛かる。結果は火を見るより明らかだ。
誰しもの身にも起こりうる悲劇。だが自分達には戦う術がある。
「だからこそ今を守らないと。私みたいな人がもっと増えてしまう。勿論、二葉達にだってあり得る」
「……! そうだったな」
美咲の言葉にハッとする。守らなければならない日常が卓也にはあるのだ。
「うじうじしてるようじゃ駄目。私も二人の事は好きだし、この病院の人達も守る。その一心で私は今まで走り続けられた。だから私の事なんか気にしないで……ね?」
「ああ……」
力強く卓也は頷き美咲も続く。
全て受け入れ自らの力とするまで様々な悩みや葛藤もあったのだろう。過去を悲劇とし哀れむのは、寧ろ彼女にとって侮辱だ。
そしてそれは卓也も同じ。人ならざる身体へと変えられているのだ。
少しだが気分は晴れたような気がする。例え化け物と蔑まれようと、自分達には守りたい日常が、戦わなければならない理由がある。だから立ち上がれるのだ。
「藤岡君」
美咲は改まったように姿勢を正す。
「協力してくれてありがとう。君や黄川田さんがいれば、この病気の対策に大きな進捗があるはずだって院長も言ってた。私もそう信じている」
「そんな、俺は当たり前の事をしているだけさ。いくらでも協力するよ」
卓也は胸の前で拳を叩く。
「天然痘にだって負けなかったんだ。やれないはずがないさ」
きっと……勝つ。そう意気込んだその時だ。
耳をつんざくような警報器の音が響き渡る。脳を直接揺さぶるようなけたたましい音に卓也も思わず耳を塞ぐ。
「な、何だ? 火事でも起きたのか?」
「違う……これは……」
美咲の顔が青ざめる。その表情に卓也も嫌な予感がした。これはただ事ではない。
「院内で緊急事態が発生した時の警報。例えば……発症者が侵入したとか」
「な……」
警報器の音は鳴り止まない。ただひたすらに、無機質な音が二人の心に染み渡る。
脳裏に浮かぶ嫌な予感を嘲笑うかのように。
病院の地下施設の一室。広い部屋に何台もの端末機が並べられているが、それに見合わない僅か三人の女性が忙しそうにキーボードを叩いている。
ここは地下院長室、別名司令部。通常の病院業務とは違い、キャリアーやベクターの索敵、世界中の研究所や病院との連携、美咲達への指示を行っている部屋だ。
その部屋に院長の博幸が入ってくる。真っ白な白衣を着こなし、女性達へ挨拶をしながら自分の席に座った。
「みんなお疲れ様。今日は平和かな」
「はい。本日は発症者の姿もありません。勿論、警察からも」
博幸は満足そうに微笑む。しかしもう一人の女性は参ったように深いため息をついた。
「院長、先程から本日採取予定のサンプルについて苦情が多数届いています。何と言うか……普通に研究する気無いですね」
「だろうね。想定はしていたが……。ああ、やっぱりあいつらか」
彼も卓上のパソコンに届いているメールを確認し顔をしかめる。
「まったく、もっと寄越せはまだ解るが何だこれは。酷い連中はいるもんだ」
「私も幾つか確認しましたが、あからさま過ぎて唖然としましたよ。サンプルではなく本人を渡せってのもありましたし」
「フン。対キャリアーだの研究資料だの言っているが、実際は軍事利用が目的だ。それに……」
背もたれに身体を預ける。ギシっと小さく椅子が軋む音が聞こえた。
「あの二人は私の患者だ。可能な限り彼らの日常を続けさせてあげるべきだろう。引き渡せば何をされるか解ったもんじゃない。幽閉され、実験動物扱いされるに決まっている」
そうとう苛立っているようだ。穏やかないつもの彼とは違い、声色は荒々しくなっている。
そんな彼の様子に女性達は苦笑いをするしかなかった。一人を除いて。
「ですが院長、ヴィラン・シンドロームは通常の病院を逸脱した存在です。非人道的であろうと、まともに研究をする組織化に引き渡すのも考えては? そのくらいしなければ成果を出すのも難しいと思います」
「……確かに現代医学には、非道な人体実験や研究による発展があった事は否定しない」
博幸はもの悲しげに目を伏せる。
「しかしそれを繰り返して良いのか? こんな残酷な事を若者に強いて良い理由などない。私は医者だ、そんな事は許せん。今やれる事をするんだ、道を踏み外さない範囲でな」
「……そうですね」
女性は作業に戻り、博幸もそれを見届ける。
彼女の言う事も一理ある。それに今まで散々発症者を殺すよう命じた自分が言うのもおこがましいかもしれない。それでも一人でも多くの人を助けたい。そこには卓也と千夏も含まれている。
人命の為、人々の為とはいえ、己の内に善悪はある。その悪を選択する事は彼にはできなかった。
博幸も 自分の仕事に戻ろうとパソコンに手を伸ばす。その時、彼の懐から電子音が鳴り出した。院内用の携帯電話だ。
「石橋だ」
こんな祝日に電話だなんて、地上の病院でトラブルでもあったのだろうか、それとも重篤な急患か。そんな彼の予想は悲鳴にも似た声に打ち破られる。
『久我山です。地下施設内にべ、べ、ベクターが侵入しました! な……く、来るな! うわあぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?』
断末魔を最後に音が途切れる。
「久我山君? 返事をしろ、久我山君!」
返事は無い。通信は途切れ、博幸の声も向こうに届いていない。
ベクターが侵入した。その報告が彼の心に突き刺さる。




