招かれざる猫
ご機嫌に缶コーヒーとアイスを詰め込んだコンビニ袋をぶら下げて帰ってきたのが、つい数十秒前。
着古して色褪せた趣味の悪い柄シャツを汗でしとどに濡らし、再三の脱色で傷みきった金物束子のような金髪をがりがりと掻きながら、いかにも堅気とは思えない様相の男ーーこの如何様探偵事務所に長らく居着いているーー栂沢朝也は、馴染みの煙草屋に寄って帰らなかったことをひどく後悔していた。
こんなことになるなら、買い物がてら油を売ってくればよかった。渋い溜め息が出る。
アイスコーヒーでも買おうかと入ったコンビニで、食欲を唆る甘いパッケージに惹かれて結局、まんまと期間限定アイスを買ってしまったのだ。それも、きっちり2人分。
何も、態々狸親父に食わせる謂れもないじゃないかと今更ながら思う。
煙草屋のお気楽な爺店主と食べながら、取り留めのない話でもやって、土産に味の感想でも嫌味のひとつに持ち帰ってやるだけで良かったのに。
こういう時、自分の妙な律儀さが嫌になる。
こんなところで足踏みしていたら折角のアイスが溶けてしまう。しかし今この扉を開ければ、扉の向こうで繰り広げられている押し問答に否応無しに巻き込まれることになる。アイスを護ることとこの場をやり過ごすこと、そのどちらも捨てがたいと朝也は心中焦がれていた。
磨りガラスの先で向かい合って座る大きな人形と小柄な人影が動く。
さっきからずっと押し問答をしている。
ひたすら自身の主張を嘆願したい者と、それを宥めすかそうとする者の攻防戦が繰り広げられている。
俄かに若い女の声が一層高く、大きくなる。
今度ははっきりと言葉が聞き取れた。
若い、というよりもっと幼い、子どもの声だ。
まだ十代半ば頃だろうか。年端も行かぬ少女の声に聴こえる。どうやらかなり感情が昂っているらしい。
「なんで分かってくれないんですか! 」
鼓膜が直に叩かれたのかと錯覚する程の声量が空気を震わせ、朝也は咄嗟に耳を塞いだ。
少女の激る(たぎる)想いは止まらず、更に過熱していく。
「あたし本気です!いたずらじゃありません! 」
「うんそれは解ったけど、そうは言うてもな、うちはおたくみたいなお子さんの依頼は受けてないから」
「お金ですか?お金ですよね。払います。ちゃんと払いますから」
「いやいやいや、そういう話とちゃうーー 」
「いくらですか。正直今すぐには無理ですけど、必ずお支払いしますので」
「ちょっと聞きいな。頭血い昇りすぎや」
「あなたがあたしの話を聞かないからでしょ」
かなり強情だ。言葉にも声色にも、円やかさが一切無い。四角四面に言い募るその言葉から、確固たる意志が突き刺さって来る。
彼女が幾つなのか知らないが、一体金はどう工面するつもりで喋っているのだろうかとは思うのだが。
老朽化が進み、随分立て付けの悪い扉の前で朝也は息を潜め、僅かに開いた扉の隙間から事務所の中を伺う様に覗き見る。
腕を組み、隈取りの様な皺を刻む渋面が見えた。五和龍二という名に違わず、燻銀の鬣を思わせる髪を撫でつけ、意外に整えられている口髭を苦々しく歪めながら、如何様探偵事務所の草臥れ所長はもはやお手上げ状態の様だった。
このままでは埒が開かない。朝也は舌打ちをした。
強つくばりで分からず屋の小娘のせいで、これ以上焦らされるのは御免だ。
さっさと摘み出してやる。
お前の様な乳臭い奴はお呼びじゃ無いと、とっととママの処にでも帰れと、忌憚無く言ってやる。
朝也はひと息吐き、ノブに手を掛ける。
ーーおっさんほんまガキには弱いからな。
しかし手首を引き込もうとした矢先、事務所の中から野太い声が飛び、朝也は瞬時に肩を強張らせる。
「さっきからそこに居んのは分かっとるぞ」
猛禽の眼が凝視めていた。
一度刺されば肉を捉えて離さない、逆鉤の付いた針の如き鋭い視線に貫かれている。朝也は思わず生唾を呑み込んだ。
立ち入った話を蚊帳の外で盗み聞きしている自分が居る、今この状況が悪いことだと思えてくる。悪戯が見つかった子どもの気分だ。
「ええから入ってこいや」
束の間の剣呑さは和らぎ、宥める様な声音が届いてくる。
躊躇いがちに朝也が扉を引くと、苦笑いを浮かべた龍二のこってりした髭面と、挑む眼差しで見詰める少女の真顔が向けられていた。
アイスが溶けるや飲み物が温くなるだのと、ぼやきながら冷蔵庫に迫る朝也に目線だけを縫い付けたまま、少女は微動だにしない。
朝也の顔を凝視して止まない少女の目が、ただでさえくるりとした大きな目が、明らかに見開かれていく。
ぎらつく眼光を浴びせている少女の異様など気付きもせずに、朝也は何とか無事だったアイスを満足気に冷凍庫へ仕舞い込む。
やはり少し溶けてしまってはいるが、数刻冷やせば大丈夫だ。
とにかく一刻も早くこの厄介者を追い出し、明日に備えて資料を整え直しておかねば。
朝也は少女を振り返ることもせずに淡々と告げる。
「何をそんなに勇んでるんか知らんけど、うちはごめんやからな。ここボランティアとちゃうで」
一銭たりとも自力で払えそうには到底見えぬ子どもに手を貸してやる程、うちは暇じゃない。
きれいな制服を着せてもらい、きれいな靴を履かせてもらっているその姿で、よくもこの薄汚い場所へのこのことやって来たものだと、朝也は肚から迫り上がってきた黒い物を飲み下すことなく吐き捨てた。
「……早く帰れこのクソガキが」
朝也の低く唸る威嚇に、龍二さえも口を噤み、事務所がしんと静まり返る。
壁掛け時計の秒針だけが音を刻む中、少女は瞬きもしない。
「櫻井さん、まひるさん。急にえらいじっとして、どないしたん」
少女のただならぬ様相に異変を感じ取ったのか、龍二が慌てて声を掛ける。
櫻井まひると呼ばれた少女は、ここに至って漸く瞬きをしたかと思えば、何かを押し留める様に狼狽え、ついには俯いてしまった。
言いたいけど言い出せないという風に、小さな唇が頻りに閉じたり開いたりを繰り返している。
まひるの肩で揺らぐ黒髪を眺め、今度は龍二の目蓋が大きく捲れ上がる。
「あんた……まさか」
龍二の珍しく動揺した声色に朝也が振り返ると、どんよりとした眸がレンズの奥から覗いていた。
「あんたの、その探してるって言う父親って、まさか…… 」
龍二は乾涸びた声を絞り出し、震える右手の人差し指でおもむろに朝也の顔を指す。
「こいつのことか」
再び沈黙が下りる。
しかし瞬く間も無く、朝也は龍二を見、まひるは朝也を見上げて咄嗟に言い放った。
「それはちゃうわ」
「それは違います」
重なった否の言葉に、朝也は初めてまひると真面に目を合わせた。
間近で見ると、思っていたよりも更にあどけない顔立ちをしている。
まだ中学生くらいかもしれない。
若々しい艶を湛える黒髪を耳にかけ、捻れひとつない紺のセーラー服を纏っている。
履き潰された様でもない焦茶色のローファーは、靴底が擦り減ることも無く綺麗に揃えられていた。
滲み出る行儀の良さが、乾いた目を眩ませる。
自身の見窄らしさが余計に際立つ気がして、目を逸らしたくなる。
さぞ母親から大切にされていることだろう。
こんな脂臭い、心も身体も燻し切った出涸らしを父親かと尋ねられるなんて堪ったものではない。断じて違うと即答したくもなるはずだ。
「なんや……そか、ほな良かった。おん、良かったわ。まあ座りいな」
明からさまにほっとしたらしい龍二が、頓狂な声を漏らす。そのぎこちなさが可笑しくて、憐みさえ沸き上がってくる。
朝也は黙って龍二の隣に腰を下ろし、まひると向かい合った。
まひるはもう驚いてはいなかった。
大分昂りも落ち着いてきたのだろう。
目の前で浮かない顔を晒している男どもの出方を窺っているのか、ふたりをただ怪訝そうに見つめて小首を傾げている。
まひるをなるべく視界に入れない様に、朝也はその旋毛の向こう、いつの間にか窓際の戸棚の上に飾られている木彫りの猫の歪で勝ち気な彫りを眺めていた。
「ま、ちょっと話整理しよか」
ぱん、と小気味の良い拍手を合図に、三者の焦点が重なる。
傾聴の意を注ぐまひると朝也に目配せし、龍二は確と頷いた。
「最初からもう一回喋るで。えー、まひるさんは今中学三年生、お母ちゃんとおばあちゃんとお住まいで。お父ちゃんは居らんと。んで、お母ちゃん達からはお父ちゃんはあんたが生まれる前に亡くなったと、そう聞かされてたんやな」
身振り手振りを交えながら話す龍二に、まひるは首肯した。
「はい。父の存在は、あたしが物心つく頃にはそういうことになってました。家では写真自体無いみたいで、今まで見たことがなかったし、まあそういうものかと思ってたんです。でも…… 」
視線が逸らされる。何かをその澄んだ瞳に映しているのか、卓の角をただじっと見つめている。
「たまたま見たんです。お母さんの手帳」
まひるがぽつりと呟いた。何ら隠っていない、素直な声だった。
「お母さん……母は、結構きっちりしてるタイプで。毎日仕事のスケジュールとか、あ、母は会社員なんですけど、まあ買い物の段取りとかを細かくメモする人なんです。それで、いつも手帳を持ち歩いていて。普段なら忘れて会社に行くことなんて無いのに、あの日は……大雨の日で、"大雨のせいで電車が遅れるかも"って、大分早くに家を出て行ったんです」
「で、お母ちゃんは珍しく手帳を置いて行ってもうたわけか」
「はい。学校に行く前に、おばあちゃんが作ってくれたお弁当をリビングに取りに行ったら、テーブルの隅に置きざりになってて…… 」
長い睫毛が降ろされ、円らな瞳が翳る。
あ。お母さん、手帳忘れてんじゃん。
これが無かったら困るーって、いつも言ってんのに。
既に満員電車で揺られているだろう母に向かってお小言を吐きながら、使い込まれて僅かに黒ずんだ薄桃のカバーを手に取る。
ぱた。
テーブルの上に何か放り出された、と思った。
小さな写真だった。
指で摘み上げ、表を見返す。
薄ぼけた写真の中で、嬉々として笑う幼いまひるを抱いて初々しくはにかむ母と、愛らしい母娘に破顔する紅顔の男が、ぎゅっと身を寄せ合っていた。
幸せそのものだった。
親子の幸福の瞬間だということが、胸が苦しくなる程伝わってきた。
どれだけ焦がれても、羨んでも思い出すことは叶わなくて、もどかしさだけが募った。
何故、この人のことを何もかも忘れてしまっていたのだろう。
なのに何故、この人が自分の父親だと覚ったのだろう。
日に焼けた艶の良い頬を目でなぞる。
知らない筈の温かくて丈夫な腕で、分厚い大きな手で、愛おしく抱きしめられた気がして、心が熱くなった。
胸に手を当てる。
沸いて震える心臓が鮮やかに脈打ち、早鐘を撞いている。
この人に会いたい。会ってみたい。
肚の底から希求する。衝動が迫り上がってくる。
この人は、まだ生きている。
根拠の無い確信だけれど、当てにならない直感かもしれないけれど、確かに感じることが出来た。
「父に会ってみたいんです。父は、本当は生きてるんじゃないかって、あたし思うんです」
現に舞い戻り、まひるは克明な瞳を目の前の神妙な大人達に向けた。
「母も祖母も、父の存在にはまるで触れたことがありません。亡くなった祖父でさえ、あたしには一切言及したことが無かったんです。何かあったんでしょうね。子どもには言えない、何か大人達の事情が」
先程まで興奮に任せて殆ど叫びに近い声をあげていた少女とは思えない位に理知的な言葉だ。
この子は聡い。そして敏い。
朝也はまひるの眼差しに居住まいを正し、努めて冷静に話しかけた。
「あんたからご家族に、父親に関して訊いたことはある? 」
「はい。それはもう。でも、何というか、険悪な感じにはならないんですけど、触れてほしくないっていう感じが……やんわりと、話を終わらせられるのがいつもの流れでした」
「そう……か。じゃあ、今回写真を見た後も」
「"勝手に人の大事な物触るなんて、もうしたらあかんよ"って。明らかに動揺してるっぽくて、あたしが何聞いてもその一点張りで。とても写真のことを訊ける感じじゃなかった…… 」
そこまで言って、まひるはため息をついた。
「意地でも娘に話したくない理由がある、か」
龍二がしゃがれた唸りを漏らす。
訊くに堪えないということだ。
父親についてまひるが問い掛けたところで、どのみち碌な返答は得られなかった訳だ。
「ほんでこりゃあ埒が開かんと思って、話聞いてくれそうなとこ探してうちを訪ねて来たわけか」
「そうです」
まひるの凛とした返事に、龍二が満足気に頷き
、鼻を鳴らす。
愉しんでいる。
まひるの境遇ではない。
新たに解き明かすべき由々しき事態が舞い込んできたことに、俄然興を唆られているのだ,
また始まった、と朝也は呆れ返る。
こうなったらもう終わりだ。
カネなどまるで関係が無い。龍二のまにまに巻き込まれざるを得なくなるだけだ。
そろそろ自分の頭が割れるんじゃないかと本気で思う。
胡乱な者を見る眼の朝也を尻目に、龍二は得意気に息巻く。
「よっしゃ、もうしゃあないな。これは」
ぽん、と威勢良く膝を叩き首肯した龍二をまひるが瞠る。
白く滑らかな頬がみるみると色づいて喜色を湛え、潤う期待の眼差しで大人達を見詰める。
「まひるちゃん、オレ等に任しときい。まひるちゃんがお父ちゃんに会いたいことはよう伝わってきたわ。大丈夫や、何とかしたる」
「おれ"ら"って何やねん巻き込むな俺は何とかせえへんからな、おっさん一人で」
「ああ、こいつ口は悪いんやがやることはちゃんとやる奴やからな。まひるちゃん安心して頼ってええからな」
「聴けや。何勝手に喋っとんねん。黙れ。あのなよう聞けよおっさん。俺ら慈善事業やっとんちゃうねん、商売やねん。どっからどう見ても子どもやんけ、下手に首突っ込んで手ェ出したらややこしなるやんけ」
「え?オレはタダで引き受けるなんか一言も言うてないで」
「……は? 」
龍二の言葉に、事務所が俄かに静まりかえる。
大人達の応酬にまるで漫才でも観ている気分で頬を緩ませていたまひるも忽ち紅頬を強張らせ、緊張の面持ちで固唾を吞んで緘黙する。
「最終訊くけど」
「何を知っても、例えそれが余計にあんたの柵になる羽目になってもええ覚悟はあるんやな」
自然な成りで、当たり前の体で、狸親父が問う。
まひるは挑む様に首肯し、ただ淡白に「はい」とだけ返した。
まだ制服を着た子どもばかりの少女が、大人達の事情を解こうとしている。
そして何より、自身の生い立ちを絆すものから、知らんとする想いを阻む者達から、自らを解き放す術を求めている。
挙句無鉄砲にも得体の知れない探偵事務所に身一つで押し掛けて、どぎつい男どもに怯みもせずに応酬している。
如何にも我が所長の意をくすぐる案件でしかないと、朝也は内心独り言ちた。
特種のにおいを嗅ぎ取り、舌舐めずりをする。
餌食に飢えた獣が、喉笛に咬みつく機会を窺っている。
尻目に盗み見た横顔は、狐狸そのものだった。
先程までの世話好きな調子の良い中年は、もうどこにも居なかった。
「ほな、依頼成立っちゅうことで。依頼書書いてもらおか」
喋る口は最早身体ごと所長机の方に向いている。
日頃何かにつけて年寄りの振りをする腰の重さが嘘のような身軽さだった。
鼻歌交じりに引き出しをほじくる龍二を見遣り、朝也は頭を屈ませてまひるに囁く。
「今ここで書くなよ」
「え? 」
短く言い放った朝也に顔を寄せ、まひるは怪訝に眉を顰める。
どうして。何が駄目なの?
戸惑いに揺れる瞳が答えを急いて縋り付く。
朝也は心の中で舌打ちをした。
また余計なことを口走ってしまった。
咄嗟にまひるを案じ、庇ってしまった。
まひるを構う必要はないし、庇護の義務も当然無い。寧ろ、関わるべきではないのに。
寄る辺無き身のまひるに、中途半端に手を差し伸べてしまった。
日陰者としてあるまじき行為で以て、清浄な子どもの世界を侵しかけてしまった。
だが、大人としての自分は今更引き返すつもりは無いと告げる。
ああもう、義理堅いのも大概にしてくれや。
自分で自分に文句を言っておきながら、可笑しさが込み上げてきた。
じゃあ腹括れ、くそみそ野郎。
朝也は瞼の裏が痛くなる程固く目を閉じて、かっと開いた。
「焦って勢いでサインすんなって言うてんねん。一旦帰ってから考えるって言え」
「え、でも」
「しっ、いいから俺の言うこと聞いとけ」
口早に捲し立て、逸るまひるを目で往なす。
ほんの瞬く間、無言で見つめ合う。
有無を言わさぬ朝也の強い瞳に、まひるは息を呑んで頷くしかなかった。
「お待たせお待たせ。さっ、どうぞ」
舞い戻ってきた龍二からボールペンを受け取り、まひるは卓の上で差し出されているやや萎れた書面を見下ろした。
「よう読んでくださいな。ちょいと難しいかもしれんけど、解らんかったら訊いて」
「……はい」
和かで人好きのする表情が、急に胡乱な面に視えてくる。
『調査依頼申請承諾書』と題された文書には、依頼時の注意事項や調査期間中の禁則事項、調査方法から調査結果の開示請求に至るまで、微細に記されている。
契約書は疎かビジネス文書でさえ殆ど目にすることの無いまひるにとっては、この依頼書は非常に理解し難いものであることは確かだ。
まひるは持て余していたボールペンを卓の上にそっと置いた。
緊迫した視線が朝也に注がれる。
ほんの数瞬のことだった。
朝也はまひるに大丈夫だと言い聞かせるように、凪いだ瞳で応えて見せた。
まひるの強張った頬が、僅かに弛む。
小さな口元が、やがて薄ら笑みさえ滲ませる。
「やっぱり、ちょっとあたしには難しいみたいで……。持ち帰って、じっくり読んでからでも、いいですか……? 」
拙く強請るあどけない顔とは相反して朗々と鼓膜を通る声に、朝也は知らず笑みを零した。
流石、この廃墟然とした老ビルに丸腰で単身乗り込んで来ただけの根性はある。
しなやかで強かだ。
「構へんかまへん、書けたらまた持ってきて。連絡先そこに書いてるから」
しゃがれた猫撫で声がやけに癇に触る。
繕う龍二に首肯しながら、まひるはもはや依頼書を畳みかけている。
型崩れの見えない学生鞄を漁るまひるを視界の隅に、朝也は龍二の方を向いて言った。
「もうこんな時間やし、はよ帰したほうがええ。駅まで送ってくるわ」
時針は十九時を過ぎた所だった。
窓の外はもう十分に暗くなっている。
夜の帳が下りたこの街は、子どもには似つかわしくない世界だ。
帰り支度を整えて行儀良く座っているまひるに目配せし、どちらからともなく腰を上げる。
「お邪魔しました。じゃあ、また」
「お、よろしく。ほな気いつけて帰りや」
「はい」




