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望郷


血のにおいがした。

ひりつく鼻腔を、生臭い鉄の液体が突き刺さる様に流れ落ちてくる。沁みて痛い。生温かい感触が気持ち悪い。

ぽた、ぽた、と、乾き切ったアスファルトを次々に紅色の模様が濡らしていくのをぼんやりと眺めている。

厭に悲惨な状況に悲鳴を上げそうになる喉を押し殺し、奥歯をぐっと噛み締めて堪える。

頭が痛い。くらくらする。

真夏の西陽に灼かれたアスファルトの熱気で逆上せているのか、まともに食らった鼻っ面への一撃に狼狽えているのか、自分でも判らなかった。

自身の荒い息遣いと、ひぐらしのけたたましい競り合いが、うなじからじわじわと血の気が引いていく脳天に響いて、その疎ましさに思わず舌打ちをする。

項垂れていたこうべを上げる。

じっとこちらを見詰める切れ長の目とかち合う。挑む様に睨み返すと、ただでさえ切り口の様な目が余計に細められた。

頑なに引結ばれていた厚ぼったい唇が捲れ上がり、頑丈そうな歯が剥き出しになる。

「ーーーー、ーー 」

分厚い唇が緩慢に閉じたり開いたりしているだけだ。何も聴こえない。眉間にかなり皺が寄っている。怒鳴っているのだろうか。

なんて?

訊き返してハッとする。

ーー声が出ない。喉に、力が入らないのだ。何度声を張り上げてみても、まるで声帯丸ごと失ったみたいに、絞れてひゅうひゅうと荒い息が漏れるだけで、腹立たしいもどかしさだけが募っていく。

聴こえへん。何言うとんねん。

叩きつけたつもりの怒声は、ただの腑抜けた喘ぎに変わる。

みっともない様が滑稽なのか、切り口の目がうねり、憐憫の眼差しを与えてくる。向こうからすれば、水面で死にかけている魚の如きこちらの方が、よっぽど不可思議だろう。

しかし束の間の後、憐れむ瞳はすぐさま鋭い光を焚きつけ、怒りを燃やし始めた。憎悪さえ燻らせる焦げた眼差しに、じりじりと視界が灼かれていく。熱い。痛いくらい熱くて、熱くて、眩しくて、もう視ていられない。

堪らず視界を閉じる。

ーーお互い様やんけ。

ふとそんな思いが湧き上がる。

違う。お前が。お前が、盗っていったからや。全部、お前らのせいや。

高鳴る胸を、苦いものが抉り、掠め取っていく。

瞼を上げると、分厚くて堅い上背が目の前まで迫っていた。

瞬く間もなく、骨張った若い拳がおのれ目がけて力任せに突き出される。

こちらも負けじと腕を突き出し、渾身の力で振りかぶる。

ーー突き出したと言うには、余りにも貧弱な拳だったのだが。

間に合え。当たれ。

目を瞑る。

敢えなくくうを泳いだ拳が落ち、支えを失った身体が前のめりに倒れ込んでいく。

がん、と鈍い衝撃を左のこめかみに受けて、脳天が揺れた。

あ、殴られたん、俺か。

もやに呑み込まれていく意識の中で、俄かに静心な自分の声がした。

殴打されたそのままに、背中から頽れて硬い地面に叩きつけられる。

襲う痛みに身構えたが、不思議なくらいに何も感じなかった。灼かれたアスファルトの熱も、立ち昇る熱気も、まるで伝わってこなかった。

蝉の煩い牽制合戦も、いつの間にか遥かに遠い。ふわふわと浮遊する心地も気持ち良くなってきた。

このまま、ここで伸びているのも悪くない。ひょっとしたら、これで終いなのかもしれない。

あれだけの力で二度も殴られているのだから相当やられているだろうし、今はもう感覚も判らないが、血もそれなりに失っているのだろう。

自分も大概な人間だ。仕方が無い。

多分、腹を括って己の終りを受け入れるその時なのだ。

ほう、と嘆息する。すると、だんだんと呼吸が楽になっていく。

今度こそもう意識を手放そうーーそう肚落ちた瞬間、額を何か硬いもので軽くはたかれて、離れかけていた意識がぐいと引き戻ってきた。

ふいに頭上を暗く覆う気配がして薄目を開けると、見飽きたも見飽きた、いつもの胸焼けしそうな程こってりとした面構えが覗いていた。

「おっさん」

「起きんかい」

「……え」

今度は、ちゃんと声が出た。ひどい喉の渇きで掠れてはいるが、確かに、はっきりと発声が出来る。においもわかる。……かなりいぶり臭い。

目線をずらすと、重度の喫煙者だらけなせいで副流煙とやにで黄ばんだ汚らしい壁が見えた。

ここは確かに、いつもの埃っぽい、古ぼけた雑居ビルの一室の、ならず者ばかりが巣食う探偵事務所だ。

暫く、散り散りに霧散していた思考が集まってくる。たった今まで居た真夏の暮れの土壇場は夢だったのだと漸く理解して、胸の閊えが下りていった。

視界に被さっていた髭面が退き、蛍光灯の白ばんだ明るさが一気に露出して眼に沁みて来る。眩んだ眼球の痛みを咄嗟に庇い、呻き声とも呼べないふやけた音が鼻腔を抜け出た。

「まぶし……今何時や 」

「16時や。お前寝過ぎやねん。もうええ加減起きい。どんだけ寝たら気ぃ済むねん」

しゃがれた低音が呆れた調子で鼓膜にぶつかってくる。

そうだ。眠り呆けている場合ではない。どうでもいい、滅茶苦茶に面倒臭い案件で無駄に手を焼かされている最中なのだ。

大手企業に長く勤続し、それなりの金も地位もある熟成した男と、偶々店で出会った若く美しいだけの女。よくある取り合わせ、よくあるパターンだ。

「私以外に、囲い者の女がいる。しかも、私より若くて綺麗なのが余計に許せない。女をやりこめてやらないと気が済まない」と、先週の相談の席で女は喚き散らし、怒気を震わせた。余程頭が逆上せあがって堪忍ならなかったのか、あるいは"カネの回り"を危惧したのか、生成なまなりの貌を張り付け、夜半も深まる刻に、よりにもよってこの出鱈目だらけの探偵事務所に転がり込んで来たのだ。

だが蓋を開けてみると、男には過去に婚姻歴があり、女とそう違わない年頃の娘が居た。大学病院で麻酔科医として勤務する元妻とは頗る折り合いが悪かったが、娘とは仲が良いらしく、親権が元妻に渡り離れて暮らす様になってからも、約十五年間、やれ食事やれ買い物だのと、親子としての時間を育んでいたらしい。それが、因果にも女の目に入ってしまった。女は男の実の娘を別の交際相手だと思い込み、逢瀬に男を詰ったのだ。男は誤解だ、思い違いだと弁明した。実の娘だと、正直に白状もした。しかし、男の乞いはもはや聞く耳など持たぬ女の神経を余計に逆撫でし、むしろ婚姻歴や実子が在ることを今まで一切話さなかった男の不義理が女を酷く狼狽させ、不信感を与えることとなった。

男にしてみれば、何とも苦しい状況だろう。実の娘を可愛がっている父親という貌と、娘と近しい年頃の女に現を抜かし、或いは捌け口にしているという貌が両立しているという情けなさ。

実際、調査の中で男に聞き取りを行った際、男はかなり消耗していた。娘に合わせる顔が無い、と。娘には、夜の世界には絶対に近づくな、触れるな、お前には関係のない世界だと、当たり前の父親面で言っていたのに、と。女の存在を娘から遠ざけたかったからではない。ただ父親として、娘には潔白の道を歩いて行って欲しかったのだ。

男は、自身の痴態が愛娘の耳にも入ることを極端に恐れていた。娘の信頼も親子の所縁も、一浚ひとさらいに失ってしまうかもしれないことに、ひどく怯えてもいた。

明日、いよいよ男も同席の会が開かれる。

不義案件ではないだけに、弁護士を介することは成し得ない。しかしそれでは女の気の持って行きようが無いのだ。となれば、とことん膝を突き合わせて話すしか方法はあるまい。

何も、この場所を提供する謂れは全く無いのだが。大体、離別した娘に取って付けた様に父親面するのは、免罪符のつもりなのだろう。自身の穢らわしい行いを禊祓いしている気にでもなっているのだろうか。

何れにしても、愚かな男だ。

一縷の憐れみの情さえ湧きそうに無い。

ただ頭が痛いだけだ。容易に修羅場がありありと思い浮かぶ。正直、これ以上は巻き込まれたくない。

明日の惨状を思うと、自ずと深い溜め息が出た。薄手のシャツが肌にへばり付いてきて気持ちが悪い。背中が温くてかなり汗ばんでいる。ここ数年の外気温の異常な高さに室外機がやられているのか、旧式のエアコンは大分効きが悪い。そのせいで、事務所内はいつも中途半端に涼しい。

重石が効いた身体をゆっくりとソファから起こす。薄くなって骨張った肘掛けを枕替りにしていたせいでうなじが痛いし、放り出していた脚も痺れてだるい。中年に差し掛かってきたせいか、最近身体が鈍らに重いのだ。急に動かそうものならば、腰やら膝やらがしんと痛む様にもなってきた。残念ながら、潤滑油を差せば滑らかに動き出す機械の様にはいかないから難儀なものである。

気合いを入れて重い腰を上げると、己の汗と体温で湿ったなめし皮のソファがぎゅっぎゅっと音を立てる。居抜きで借り上げたこの事務所の、前の主である税理士法人時代からの代物だ。焦茶の色味が随分と剥げているし、そろそろ替え時だろう。

最も、貧乏探偵事務所うちにはソファを買い替える金さえ無いのだが。

先程からこちらには目もくれず、頻りに何かを削っては息を吹きかけてを繰り返している熊背に一瞥を投げ、喉の渇きを潤すものを求めて冷蔵庫を開ける。

哀しい位に何も冷えていない庫内から、冷気だけが漂ってくる。普段ならば、ジュースやらお菓子やらと頼んでもいないのに矢鱈買い込んでは詰め込む人のせいで、息苦しい程に埋め尽くされているのに。それも今では嘘だったかの様に空っぽだ。いつも通り殆どを自らの胃袋に収めて行ったきり、当人がここ一週間程顔を見せていないのだ。

こんな時に限って、水の一本さえ無いとは。

「……なんも入ってないやんけ」

無意識に舌打ちをしかけた自分にはっとして黙り込む。

解りきってはいるが、一瞬でも苛立たしくなった自身の幼稚さを掻き消す様に、乱暴にドアを押し込む。

かりかりと削り続けていた音が止み、背後で身じろぐ気配がした。

「せや、キョウコちゃん来週いっぱい迄休みやて。なんか老猫ちゃんの調子が悪いらしくて、連日の通院が必要なんやと」

片手間な調子の暢気な声を振り返ると、手元の木彫り猫に視線を縫い付けたまま、銀縁眼鏡の奥の垂れ目を細めながら何やら感慨深げに唸っている。この男にとっては、長年の相棒の愛猫よりも、掌で遊ばせているがらくたの猫の方がよっぽど心寄せるものらしい。

呆れてものを言う気にもなれず、何をするともなく天井を仰いでみる。やにで黄ばんだ白地の天井に、赤いインクが点々と飛び散っている。いつの日だったか、男の銭勘定の余りの杜撰さにとうとう腹を立てた彼女が、どんぶり勘定も甚だしい請求書面に赤ペンを叩きつけ、男の顔を目がけて電卓を思いきり投げつける……という事件があったのだ。

普段、金の締まりは専ら彼女に任せているものだから、取締役が居ないこの状況は男にとってもかなり厳しいものだろう。

日焼けと不摂生でただでさえくすんでいる顔色が、更に黒くどんよりとした気がする。

世話焼きでいつも賑やかしい、ふくよかな更年期の事務員を思い浮かべる。甲高い笑声が頭の中でこだまし、耳がキンとした。よく食べ、よく笑い、よく怒っては泣く素振りをする、その騒がしさが疎ましいはずが、正直今は少し寂しい。

むさ苦しい男共だけでは、どうにも湿気た空気しか流れないようだ。

もの寂しさを悟られないように、わざとらしく悪態を投げる。

「オバハン居らんかったら仕事捗るやろ。丁度ええわ。明日もめっちゃめんどくさいやつ待ってるしな。あーほんまに嫌やわ」

大袈裟にため息を吐き、男に目線を戻すと、木屑が散乱していたつくえの上はいつの間にか片付けられ、こちらを見詰めるように木彫り猫が置かれていた。腕を組み、応接椅子に深く座りながら満足気にこちらを見上げる男と目が合い、慌てて顔を顰める。

「なに? 」

「ま、はよ帰ってきてくれたらええな。キョウコちゃん」

「はあ?なんでやねん嫌じゃ」

「然様でっか。んー俺は寂しいわあ」

くっくっくっ、と男が喉を絞って笑う。

この狸親父を前にしていては、腑の奥の奥まで見透かされているようで、非常に居心が悪い。しかも、こういう時は決まって老獪な眼差しに妙な柔らかさを含んでいるものだから、余計にばつが悪くなる。

愉しげな狐狸の眼を振り切るように背を向け、速足で扉に向かう。

「ちょっと出てくるわ、流石に喉渇いた。なんか要るもんあったら、一緒に買うてくるけど」

振り向かず、ぶっきらぼうに喋る。

今出来うる、唯一の反抗と労いだった。

「お、ええんか。ほなハーゲンダッツ買うて来てや。あれ、期間限定のーー 」

「やっっっぱ無し。やかましいねんおっさん。黙れ。誰がおっさんに高級アイス献上したいんじゃ。自分で買って食え。とりあえず六時までには戻るから。じゃ」

言いたいだけ言って、勢いよく扉を開ける。

ぶつくさと不満そうな音が聴こえる気もするが、気にしない。

いざ動き出してみれば、肩も胸も案外軽い。

ふっと一息吐き出す。頭がすっとする。

足取り軽やかに階段を降りていく背中越しに、諦めた呑気な大欠伸が聴こえた。




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