第104話 「会長、助けられた感触が残っている」
落ちると思った。
濡れたホースに足を取られ、体がプール側に傾いた瞬間、ミレイは反応できなかった。
プールの底が視界に入る。
水はかなり抜けているとはいえ、落ちれば危なかった。
その時、後ろから腕が回った。
黒瀬くんだった。
彼が、自分を抱き止めてくれた。
しっかりと。
背中に黒瀬くんの胸元が触れた。
肩の前に腕が回った。
腰のあたりを支えられた。
ほんの数秒だったはずなのに、その感触が鮮明に残っている。
「大丈夫ですか、ミレイ先輩!」
黒瀬くんの声は、いつもの少し不思議な調子ではなかった。
本当に心配してくれている声だった。
ミレイは、心臓が痛いくらいに鳴っていた。
怖かったから。
助かったから。
そして、黒瀬くんに抱き止められたから。
「く、黒瀬くん……」
彼は真っ赤になりながら、慌てて言った。
「す、すみません! 緊急回避行動です!」
緊急回避行動。
黒瀬くんらしい言い方。
けれど、腕はまだ離れない。
「まだ動かないでください。足元、滑ります」
その声が少し低くて、真剣で、ミレイは余計に動けなくなった。
(黒瀬くん、こんな声も出すのね)
安全な場所へ移動して、彼の腕が離れた。
ほっとした。
でも、少しだけ寂しいとも思ってしまった。
そんな自分に、ミレイは動揺する。
水泳部の女子たちが、こちらを見てざわざわしている。
「少女漫画だった」
「会長、顔真っ赤」
「黒瀬くん、やる時はやるんだね」
ミレイはバインダーで顔を隠した。
(これは事故。救助。事故なのよ)
でも、心の中では、事故という言葉だけでは片づけられない何かが生まれていた。
作業後、黒瀬くんが何度も聞いてくる。
「ミレイ先輩、本当に怪我はないですか?」
「ええ。大丈夫よ」
「足首は?」
「平気よ」
「精神的ダメージは?」
ミレイは少し笑った。
「それは……少しあるかもしれないわ」
黒瀬くんが青ざめる。
「すみません!」
「違うの。怖かったけれど、黒瀬くんが助けてくれて安心したの」
言ってから、ミレイはまた顔が熱くなった。
黒瀬くんも真っ赤になる。
「安心……できたなら、よかったです」
その言葉が優しくて、ミレイは胸が苦しくなった。
◆オチ
その日の個人メモ。
プール清掃中、足を滑らせたところを黒瀬くんに助けられた。
追記。
後ろから抱き止められた。
さらに追記。
事故。救助。事故。救助。
夜、リコに話すと、こう言われた。
「会長、同じ単語を繰り返す時点で動揺してます」
ミレイは顔を覆った。
「だって、まだ感触が残っているの」
リコは机を叩いて笑った。
「会長、それは完全に恋愛イベントです」




