第8話 帳簿魔
午前の光は、紙を透かす。
トオルは机の上の帳簿を両手で押さえ、鉛筆の先を立てた。
二階の物置は図書館の中でいちばん静かだ。下の階からはサエのハミングが薄く響く。潮の気配が風とともに上がり、古い木の床を軋ませる。
帳場の机には二冊の帳簿がある。
一冊は黒表紙の「公帳」。配給、当番、合唱の輪唱順が記されている。
もう一冊は、布張りで角のすり切れた「裏帳」。
こちらには、誰にも見せない列が並ぶ。
親密度、触覚頻度、別称、代用音――。
数字で人を測るようで、いつも胸の奥がざらつく。
だが、名が消えていく世界で、それを繋ぎとめるには、何かの“目印”が要る。呼び声の記録も、触れた時間の数も、すべてが命の断片だ。
トオルは短く息を吐き、鉛筆を走らせる。
塩の白い粉が紙の端に浮いている。昨日、葵が塩水処理した紙の名残だ。
堤防の向こうで、波が砕ける音がした。
――記録しなければ、消える。
それを知っているから、書くしかない。
午前の点呼を終えて、裏帳の同じ行を確認したときだった。
紙の中央が、じわりと黒く染まっていた。
インクではない。煤のような黒。
指で擦ると、ざらつきが指先に移る。
「……なんだ、これ」
文字の列が、黒く焦げるように沈んでいく。
昨日まで“薄れていく”のが常だった。
今度は、逆だ。
消えるどころか、濃く、焼ける。
他の行にも黒い点が移り始めた。まるで病巣のように。
トオルは息を止め、公帳の同じ行を開いた。
そこには名前の欄がある。だが、誰の名だったのか――。
舌の先まで来ているのに、音が出ない。
階下でユウの声がした。「どうした?」
トオルは答えず、黒くなった紙をじっと見つめる。
煤けた跡は、まるで何かを焼き残したようだった。
――消えた痕跡だけが濃く残る。
鉛筆を持つ手が震えた。
名を記すことが、誰かをまた一歩、消滅に近づけているような錯覚。
それでも書くしかない。書かないことこそ、完全な喪失だ。
トオルは決めた。
帳簿をもう一冊増やす。
二重構成を三重にして、“影帳”を作る。
新しいノートを開き、頁の上に定規を当てた。
今度は、文字を使わない。
数字と記号だけで、名前を表す。
ナオの指サイン、ハルのハッシュ値、葵のステッチ数、ソラの瓶タグ――
四つの符号を掛け合わせた「影の記名」。
誰にも読めない。自分だけが理解できる式。
それでいい。
文字が燃えても、数列が残れば思い出せる。
罪悪感は、後で受け取ればいい。
トオルは鉛筆を削り、最初のページに「呼び線」の太さを記した。
ユウ=7、葵=9、サエ=8、ミオ=8、ハル=7、ソラ=6、レイ=5、ナオ=6――。
数字に置き換えた瞬間、胸が痛む。
これは点数じゃない。
救助の優先順位でもない。
ただの“目印”だ。そう言い聞かせる。
だが、ページを閉じようとしたとき、煤けた行が目に入った。
黒化は、呼び線の太い相手ほど濃く、薄い者は灰色で止まっている。
親しいほど、強く焼かれている。
トオルは思考を止め、鉛筆を握り直した。
――親密度が高いほど、熱が生じて紙を焦がす。
ならば、呼びの順番を変えればいい。
遠い者から近い者へ。順に呼び継げば、熱は分散される。
新しい輪唱の表を作った。
名前の順ではなく、距離の順。
けれど、その表はどこか冷たかった。
数字が壁を作る。
距離は、防壁でもあり、孤独でもある。
迷った末、葵を呼んだ。
階下から上がってきた葵は、糸の束を指で転がしながらトオルを見た。
「冷やす、ってこと?」
「そう。近いほど焼ける。だから遠い順に呼ぶ。でも……冷たすぎる」
葵は少し考え、針を一本取り出した。
「じゃあ、触れを入れよう。最後に呼ぶ人の肩に、みんながそっと触れる。
遠い順に呼び、近い順に触れる。熱は、きっと均される」
トオルはその提案をノートに書き加えた。
数の設計に、ようやく温度が戻る。
その夜、試運転を行うことになった。
夕暮れ。
図書館の一階、机の上に紙と糸と瓶が並ぶ。
サエのハミングが静かに始まり、ユウが拍を取る。
ナオが指サインを送る。ハルは端末で無声波を流す。
輪唱は、遠い者から近い者へ。
トオルは階段の上から、それを見下ろし、影帳に印を入れていく。
音が重なるたびに、空気の層が厚くなっていく。
最後に一番近い者が呼ぶ瞬間、全員がその肩に手を置いた。
温度が下がる。
風が窓をくぐり、紙がふるえた。
トオルは帳をめくり、黒化しかけた行を見た。
煤はそこで止まり、広がらない。
成功だ。
思わず椅子に背を預けた。
数字の列が、救いになる日が来るとは思わなかった。
しかし同時に、胸の奥でひどく冷たい痛みが広がる。
“距離”で守るという発想が、こんなにも悲しいとは。
葵が笑いながら階段を上がってきた。
「止まったね。これで少しは安心」
「……ああ。でも、順番を決めるのは俺だ。誰から遠い、誰が近い。全部俺の手の中で決まる」
「それでも、決めなきゃ。誰も決めなければ、誰も守れない」
葵の声は柔らかかった。
トオルは答えられず、窓の外を見た。
海の端に、灯台の光が瞬く。
夜。
帳場の灯りを消し、椅子にもたれていた。
階下からは寝息がいくつも聞こえる。
波の音と風の音。
それに混じって、階段の木が小さく軋んだ。
誰かが上がってくる。
トオルは目を開け、手探りで影帳に布をかけようとした。
その手が止まる。
レイだった。
暗闇の中、レイの目は光を宿していた。
無言で影帳を見下ろす。
ページの上の数字列に、長い指が触れる。
「これは……祈りの順番にも見える」
低い声だった。
トオルは首を振る。
「違う。これは、消えないようにするための――」
「順番を決めた者が、儀を決める」
レイは静かにページを閉じ、布を掛けた。
「君が書いたのは、秩序だ。誰を先に呼び、誰を後にするか。
それはもう祈りじゃなく、儀式だ」
階段の下から、鈴の音が微かに鳴った。
ミオの鈴だ。
レイは一瞬そちらを見て、階段を降りていった。
トオルは残された帳簿を見つめた。
数字が並ぶ。
けれど、それはもう単なる数ではなかった。
誰かの存在の重さと、呼ぶ順番の冷たさが、同じ頁の上で並んでいる。
窓の外で波が砕けた。
灯台の光が一瞬だけ差し込み、帳簿の端を照らした。
黒い煤のような跡は、もう広がっていない。
けれどその分、心の中で何かが焦げついたままだった。
トオルはゆっくりと鉛筆を置いた。
明日も、書く。
消える名を、繋ぐために。
誰かが、呼べなくなる前に。
階下で再び鈴が鳴る。
短く、澄んだ音。
それが合図のように、トオルは帳を閉じた。
――祈りは、まだ終わっていない。




