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名前を失くした少年たち ――呼ばれなければ、存在できない世界で  作者: 二条理|アコンプリス


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7/17

第七章 名前を呼ぶ朝

 葵という名前がほどけた時、最初に聞こえたのは、ハルの笑い声だった。

 白い光の中で、誰かが笑っている。

 大げさで、少し間の抜けた、でも不思議と人を安心させる笑い方。冗談を言う前から、自分で笑ってしまう癖がある。言ったあとに誰も笑わなければ、さらに自分で笑って場をごまかす。そのくせ、本当に怖い時ほど、誰かより先に笑おうとする。

 葵はその笑い声を知っていた。

 ハル。

 名前は、まだ呼べる。

 そう思った瞬間、彼の姿が見えた。

 廃図書館の閲覧室。床に膝を抱えて座り、寝癖を跳ねさせたまま、片方だけ靴を履いている少年。右足は靴下のままだった。消える直前に靴が片方なくなったせいだ。

 ハルは困ったように肩をすくめた。

「だから言っただろ。俺、しぶといって」

 声が白い光の奥から届く。

 葵は手を伸ばそうとした。

 けれど、自分の手が見えなかった。

 体がない。

 いや、体だけではない。

 自分がどこからどこまでなのかも、わからない。

 足も、指も、髪も、呼吸もない。ただ、葵という名前だったものが、細い糸のようにほどけ、いくつもの方向へ流れていく感覚だけがあった。

 痛みはなかった。

 それが、かえって恐ろしかった。

 痛ければ、自分がまだ自分だとわかる。けれど、今は痛みすらない。代わりに、無数の声が体のない場所へ流れ込んでくる。

 ユウ。

 ミオ。

 ソラ。

 トオル。

 レイ。

 ナオ。

 コト。

 ハル。

 サエ。

 名前が葵の中を通っていく。

 それぞれの名前には重さがあった。温度もあった。ざらつきもあった。

 ユウの名前は、固く結ばれた紐のようだった。何度も誰かを支え、そのたびに摩耗し、それでも切れずに残ろうとする。強いのではない。強くあろうとして、何度もほつれた名前だった。

 ミオの名前は、冷えた水のようだった。静かで、透明で、触れると奥に深い流れがある。感情を表に出さないようにしてきたぶん、内側には言葉にならない熱が溜まっている。

 ソラの名前は、窓の外へ伸びる線だった。いつも遠くへ行きたがり、知らないものを見たがる。そのくせ、振り返れば必ず戻る場所を探している。

 トオルの名前は、石のようだった。角ばっていて、握ると痛い。けれどその石は、誰かを傷つけるためだけにあるのではない。崩れそうな場所に置けば、支えにもなる。

 レイの名前は、薄い紙を重ねた束だった。何枚も何枚も記憶を積み、消えていく文字を必死に押さえようとしている。忘れることを恐れながら、忘れたことまで覚えようとする名前だった。

 ナオの名前は、深い井戸に似ていた。底が見えない。水面にハルとサエとソラの名前が映っている。だが、そのさらに奥に、別の名前が沈んでいた。呼んではならない名前。まだ消えていない名前。ナオ自身が恐れている、本当の名前。

 コトの名前は、小さな火だった。サエから受け取った一画を抱き、消えないように両手で守っている。風が吹けば揺れる。それでも、消えない。消したくないと泣きながら燃えている。

 サエの名前は、その火の中にあった。

 完全な形ではない。

 それでも確かにあった。

 コトの手のひらに残った一画。絵本を読む声。豆を分ける指。眠っていいよと言った優しさ。コトを抱きしめた腕。呼んでくれてありがとうという最後の声。

 名前とは、文字ではない。

 葵は白い光の中で思った。

 名前とは、誰かが誰かを覚えている形だ。

 その形が、今、再び結ばれようとしている。

 地下室では、機械が轟音を立てていた。

 その音も、葵には遠く聞こえた。水の底から地上の雷を聞いているようだった。白い光が機械からあふれ、地下室の壁、床、天井を飲み込んでいる。割れた画面には、読める文字と読めない文字が混じりながら流れていた。

 名称再登録。

 保存名照合。

 核名称展開。

 記録結合。

 欠損補完。

 葵という名前が、そこに絡み取られていく。

 けれど、削除ではなかった。

 葵は最後にそう言った。

 削除じゃない。

 渡すの。

 その言葉だけは、白い光の中でも消えなかった。

「あおい!」

 声がした。

 ミオの声だ。

 葵はそちらへ向かおうとした。

 けれど、どちらがそちらなのかわからない。声は上下左右の区別なく響く。光の中に溶け、他の名前と混ざり、波のように葵を揺らす。

「あおい、返事して!」

 返事をしたかった。

 けれど、声がない。

 自分の名前はある。まだ、かろうじて。

 だが、それを口にする自分がない。

 葵は焦った。

 このままでは本当に消える。

 ハルとサエのように。

 いや、それよりも深く。

 彼らは名前の一部を残した。跡を残した。誰かの中に残った。

 自分は核だ。

 全員の名前を結び直すために使われている。

 なら、自分の名前は細かく分かれ、全員の中へ散っていく。ひとつひとつは残るかもしれない。けれど、それがもう一度「葵」という形に戻る保証はない。

 それでも、葵は見た。

 光の向こうに、サエがいる。

 白い跡ではない。

 薄いが、確かに人の形をしていた。コトを抱きしめた姿のまま、こちらを見ている。髪も、目も、細い指も、まだ白く霞んでいる。けれど、彼女は笑っていた。

「葵」

 サエが呼んだ。

 その声で、葵の中にひとつ線が戻った。

「サエ」

 声にならない声で呼び返す。

 サエは頷いた。

「ありがとう」

 葵は首を振ろうとした。

 礼を言われることではない。

 けれど、首もない。

 代わりに、強く思った。

 戻って。

 コトのところへ。

 サエは少し困ったように笑った。

「完全には無理みたい」

 その言葉は悲しいはずなのに、サエの声は穏やかだった。

「でも、コトが呼ぶたびに、私は少し戻れる」

 その隣に、ハルが立った。

「俺もな。まあ、俺の場合は誰かが笑ってくれたら戻るかもしれないけど」

 いつもの調子だった。

 葵は泣きたくなった。

 けれど、涙もなかった。

 ハルは白い光の中で頭をかいた。

「泣くなよ、と言いたいけど、今の葵、泣けるのか?」

 サエがハルを睨む。

「そういうこと言わない」

「いや、場を和ませようと」

「和んでない」

「ごめん」

 二人のやり取りが、あまりにもいつも通りで、葵の中に痛みが戻った。

 痛み。

 それは存在の証だった。

 ハルもサエも、完全には戻らない。

 それでも、消えきったわけではない。

 記憶だけでも、声だけでも、呼び戻せる瞬間がある。

 その事実が、葵のほどけかけた名前をかろうじてつなぎ止めた。

「葵」

 ハルが真面目な声で言った。

「戻れ」

 サエも言った。

「あなたは、まだ向こうにいる」

 向こう。

 地下室。

 白い光に包まれた場所。

 ミオが叫び、コトが泣き、ユウが立とうとし、トオルが壁を殴り、レイが何かを必死に覚えようとしていて、ソラが窓のない地下で空を探し、ナオが腕の痛みに耐えている場所。

 葵の戻る場所。

 その時、ナオの声がした。

「葵」

 白い光の中で、ナオの声だけが深く響いた。

「君の名前を、こっちに渡すな」

 意味がわからなかった。

 ナオの声は続いた。

「僕の腕に来ると、君は一人になる。僕は保存できる。でも、それは残すだけだ。戻す力じゃない」

 ナオの左腕に刻まれた名前。

 ハル。

 サエ。

 ソラ。

 そこに葵の名前も刻まれようとしているのか。

「葵」

 ナオは苦しそうだった。

「君の名前は、みんなで持て」

 葵はその言葉を聞いて、最後に自分が言ったことを思い出した。

 全員で覚えて。

 一人に預けたら、その人が壊れる。

 だから、みんなで持って。

 名前は、一人で持つには重すぎる。

 白い光が強くなる。

 葵という名前が、さらに細かくほどけた。

 その瞬間、地下室にいる全員の声が、同時に聞こえた。

「葵!」

 ミオ。

「葵!」

 ユウ。

「葵!」

 トオル。

「葵!」

 レイ。

「葵!」

 ソラ。

「あおい!」

 コト。

「葵!」

 ナオ。

 名前が呼ばれる。

 何度も。

 何度も。

 葵は、自分が戻る道を見つけた。

 それは一本の道ではなかった。無数の細い糸だった。ミオの涙から伸びる糸。ユウの掠れた声から伸びる糸。トオルの怒りから伸びる糸。レイの記憶から伸びる糸。ソラの震える呼吸から伸びる糸。コトの小さな手から伸びる糸。ナオの腕の痛みから伸びる糸。

 そのすべてが、葵という名前を引き戻そうとしている。

 葵はその糸に触れた。

 途端に、白い光が砕けた。

 地下室の機械が、悲鳴のような音を立てた。

 画面に文字が浮かぶ。

 再登録処理、完了。

 核名称、分散。

 対象名称、安定化。

 自己名称、欠損。

 最後の文字だけが、葵の目に焼きついた。

 自己名称、欠損。

 それが誰のことか、考える間もなく、世界が反転した。

 葵は床に倒れた。

 目を開けた時、最初に見えたのは地下室の天井だった。

 ひび割れたコンクリート。白化した配管。古い蛍光灯の跡。機械の光は消えている。部屋は薄暗く、懐中電灯の明かりだけが揺れていた。

 体がある。

 指がある。

 息ができる。

 葵はゆっくり手を持ち上げた。

 自分の手だ。

 白いチョークの粉も、血の跡もついている。

 戻った。

 そう思った。

 けれど、すぐに違和感が来た。

 何かがない。

 胸の奥に、あるはずのものがない。

 葵は口を開いた。

 自分の名前を言おうとした。

 声が出なかった。

 いや、声は出る。

 だが、言うべき名前が見つからない。

 頭の中に空白がある。

 そこに収まっていたはずの二文字が、ない。

「葵!」

 ミオが駆け寄ってきた。

 葵を抱き起こす。

「葵、聞こえる? 私、わかる?」

 葵はミオを見た。

 わかる。

 ミオだ。

 冷静で、いつも少し怒ったような顔をして、でも本当は誰よりも先に人の痛みに気づく少女。

「ミオ」

 葵は言えた。

 ミオの顔が歪む。

「よかった」

「ユウ」

 葵は視線を動かした。

 ユウが壁にもたれて座っている。顔色は悪いが、黒板に書かれていた時よりも存在の線がはっきりしていた。

「いる」

 ユウは短く答えた。

「トオル」

「いるよ」

 トオルは目を赤くしていた。

「勝手に消えようとしやがって」

「レイ」

「いる」

 レイは泣きながら、紙片を握っている。

「ソラ」

「いる」

 ソラは自分の名前を胸に当てていた。

「コト」

「あおい!」

 コトが飛びついてきた。

 葵はその小さな体を受け止めた。コトの手のひらには、サエの一画がまだ残っている。だが、それだけではなかった。

 その線の隣に、もうひとつ、薄い線が浮かんでいた。

 葵はそれを見て、胸が震えた。

 自分の名前の一部だ。

 そうわかった。

 名前は完全には戻っていない。

 でも、分散している。

 みんなの中に。

 コトの手にも。

「ナオ」

 葵は最後に呼んだ。

 ナオは少し離れた場所に座っていた。

 左腕を押さえている。袖はめくれていた。そこには、ハルとサエの名前が残っていた。ソラの名前は薄くなり、ほとんど消えかけている。だが、それは悪い消え方ではなかった。ソラ本人の中に戻ったから薄れたのだと、葵にはなぜかわかった。

 そして、ナオの腕には、葵の名前はなかった。

 ナオは疲れ切った顔で葵を見た。

「戻ったね」

「うん」

 葵は頷いた。

 けれど、胸の空白は消えない。

 ミオが気づいた。

「葵?」

 葵は自分の胸に手を当てた。

「私」

 言葉が詰まる。

「自分の名前が」

 そこまで言うと、全員が沈黙した。

 コトが不安そうに葵を見上げる。

「あおい?」

 その声に、葵の体が震えた。

 コトは言える。

 ミオも言える。

 みんなも言える。

 でも、葵自身が、自分の名前を自分の中に見つけられない。

 自分の名前だけが、内側から抜け落ちている。

 自己名称、欠損。

 機械の文字が思い出される。

 ミオが葵の頬に触れた。

「いい」

「何が」

「あなたが言えなくても、私が言う」

 ミオは涙を拭かなかった。

「葵」

 その名を呼ばれると、胸の空白に小さな灯がともった。

 ユウが続いた。

「葵」

 トオルが、ぶっきらぼうに言った。

「葵」

 レイが震える声で。

「葵」

 ソラが、深く息を吸って。

「葵」

 コトが、何度も。

「あおい。あおい。あおい」

 ナオが最後に言った。

「葵」

 呼ばれるたびに、葵は自分の輪郭を少し取り戻した。

 自分で持てなくても、呼ばれれば戻る。

 名前とは、自分一人の所有物ではなかった。

 誰かに呼ばれることで、何度でも形を取り戻すものなのだ。

 地下室から出ると、図書館は変わっていた。

 壁の白化は止まっていない。床も、棚も、窓も、まだ色を失っている。だが、閲覧室の黒板には名前が残っていた。

 葵。ユウ。ミオ。ソラ。トオル。レイ。ナオ。コト。

 八つの名前。

 どれも薄いが、読める。

 ユウの名前は戻っていた。トオルの名前も薄さを残しながら安定していた。ソラの名前は、朝より濃くなっている。コトの名前の隣には、小さな線が二つ、光の筋のように浮かんでいた。

 葵は黒板の前に立った。

 ハルの名前を書く。

 手が震えた。

 ハ。

 線は一度崩れかけた。

 けれど、葵は声を出した。

「ハル」

 その瞬間、文字が戻った。

 完全ではない。薄く、今にも消えそうだ。けれど、黒板の上に、ハルという名前が現れた。

 トオルが息を呑んだ。

「ハル」

 ユウも呼んだ。

「ハル」

 ミオが続く。

「ハル」

 コトが言った。

「ハル」

 すると、閲覧室の空気がふっと揺れた。

 床に残っていた白い跡が、わずかに光る。

 ハルの声が聞こえた気がした。

 おい、呼びすぎると照れるだろ。

 誰もが同時に顔を上げた。

 ソラが泣き笑いのような顔をした。

「今の」

「聞こえた」

 レイが言った。

 トオルは顔を逸らした。

「聞こえてない」

「嘘」

「うるさい」

 でも、その声は震えていた。

 葵は次に、サエの名前を書いた。

 サ。

 エ。

 今度は、コトが真っ先に呼んだ。

「サエ!」

 コトの手のひらの一画が光る。

 黒板のサエの名前が、ほんの少し濃くなった。

 サエの声が、柔らかく聞こえた。

 コト、泣かないで。

 コトは泣いた。

「泣く」

 彼女は手のひらを胸に押し当てた。

「泣くよ。サエがいないから、泣く」

 返事はなかった。

 けれど、コトの表情は少しだけ穏やかになった。

 サエは戻ってこない。

 ハルも戻ってこない。

 少なくとも、体を持って、同じように笑い、同じように眠る形では戻らない。

 それでも、二人は完全に消えたわけではなかった。

 声として。

 記憶として。

 呼べば応える何かとして。

 彼らは残った。

 その事実は、痛みを消さない。

 けれど、痛みに意味を与えた。

 朝になった。

 白い夜と白い朝の境目は、相変わらず曖昧だった。だが、その日の朝だけは違った。

 窓の外に、かすかな色があった。

 最初に気づいたのはソラだった。

「見て」

 彼の声で、全員が窓際へ集まる。

 町はまだ白い。

 商店街の看板も、道路標識も、建物の壁も、ほとんど色を失っている。けれど、遠くの空の端に、薄い青が滲んでいた。

 青。

 葵は、その色の名前を思い出した。

 空の色。

 ソラの名前の色。

 白化が止まったわけではない。

 町が元に戻ったわけでもない。

 それでも、白一色だった世界に、別の色が戻っている。

「外へ出よう」

 ソラが言った。

 ユウは彼を見る。

「今度は一人で行くなよ」

「行かない」

 ソラは頷いた。

「今度は、みんなで行く」

 図書館の入口を開けると、風が入ってきた。

 冷たい風だった。

 だが、昨日までの風とは違う。白い粉を運ぶだけの風ではなく、遠くから何かの匂いを運んでくる風だった。土の匂い。錆の匂い。枯れた草の匂い。生きている世界の匂い。

 子どもたちは外へ出た。

 葵は最後に振り返った。

 廃図書館。

 白い壁。

 二階の閲覧室。

 黒板のある場所。

 そこに、ハルとサエの名前が残っている。

 薄くても、確かに。

 ユウが先頭に立った。

 以前より少し頼りなく見える。だが、その背中はまだ前を向いていた。

 ミオは葵の隣にいる。片手で、葵の袖を掴んでいる。まるで少しでも離せば、また名前がほどけてしまうと思っているようだった。

 トオルはコトの歩幅に合わせて、わざとゆっくり歩いている。気づかれないようにしているつもりだろうが、全員に気づかれている。

 レイは町の変化を記憶しようとしている。どの看板にどれだけ色が戻ったか。どの道が昨日より見えるか。どの音が聞こえたか。彼女はたぶん、忘れることをもう恐れていない。忘れても、またみんなで思い出せると知ったから。

 ソラは空を見ている。

 ナオは少し後ろを歩いていた。

 葵は彼の隣に並んだ。

「腕、痛い?」

 ナオは袖の上から左腕に触れた。

「少し」

「ハルとサエの名前は?」

「ある」

「重い?」

 ナオは考えた。

「前よりは」

「前よりは?」

「一人で持ってる感じがしない」

 葵は頷いた。

「みんなで持つって、そういうことかも」

 ナオは空を見上げた。

「僕の本当の名前」

 葵は足を止めた。

「思い出しそう?」

「少し」

「怖い?」

「怖い」

 ナオは正直に答えた。

「でも、前よりは怖くない」

「どうして」

「もし思い出しても、たぶん一人じゃないから」

 葵は黙って頷いた。

 ナオの本当の名前は、まだ謎のままだ。

 それが何を連れてくるのかもわからない。

 白化が完全に止まったわけではない。地下の機械も、完全に壊れたのか、眠っただけなのかはわからない。外の世界に大人が残っているのか、別の避難所があるのか、名前を失った人々がどこにいるのかもわからない。

 何も終わってはいない。

 それでも、すべてが終わったような朝よりはずっといい。

 町の角を曲がった時、ナオが立ち止まった。

 道路脇に、白く消えかけた標識が倒れている。

 ソラが名前を失いかけた場所だった。

 ナオはそこへ近づき、しゃがんだ。

「触るなよ」

 トオルが言った。

「触らない」

 ナオは指先を標識の近くの地面に置いた。

 白い埃の上に、文字を書き始める。

 葵はそれを見て、息を止めた。

 ナオが書いたのは、葵の名前だった。

 あおい。

 ひらがなだった。

 漢字ではない。幼い子どもが最初に覚えるような、やわらかい文字。

 だが、書いたそばから白い埃が崩れていく。文字の端が風に散り、名前が消えようとする。

 葵の胸が空いた。

 自分ではその名前を掴めない。

 目の前に書かれているのに、自分の中からは遠い。

 ナオが振り向いた。

「呼んで」

 ミオがすぐに葵の手を握った。

「あおい」

 ユウが続く。

「葵」

 トオルが、照れくさそうに。

「葵」

 レイが、確かめるように。

「葵」

 ソラが、空へ向かって言うように。

「葵」

 コトが泣きながら叫んだ。

「あおい!」

 その瞬間、風が止まった。

 白い埃の上の文字が、消えるのをやめた。

 あおい。

 そこに、確かに残っている。

 葵は胸に手を当てた。

 空白の中に、ほんの少しだけ温度が戻る。

 自分で完全には持てない。

 それでも、呼ばれれば戻る。

 そのことが、今は救いだった。

 町の向こうで、看板の一部に色が戻った。

 何の店だったのかはわからない。文字はまだ読めない。けれど、白一色だった板の端に、赤とも橙ともつかない色が滲んでいる。

 コトがそれを指さした。

「色」

 ミオが頷いた。

「色だね」

「サエにも見える?」

 コトが手のひらを見た。

 サエの一画は、静かに光っていた。

「見えてると思う」

 葵は言った。

「ハルにも?」

「たぶん」

 その時、どこかで笑い声がした気がした。

 誰も何も言わなかった。

 言わなくても、同じものを聞いたとわかった。

 彼らは歩き出した。

 名前の戻りかけた町を。

 まだ白い道路を。

 何があるかわからない外の世界へ。

 葵は振り返らなかった。

 振り返れば、図書館に残った二つの跡を思い出してしまう。思い出すことは大切だ。けれど、思い出すためにも、生きて進まなければならない。

 彼女は隣を歩くミオの手を握り返した。

 ミオが少し驚いたようにこちらを見る。

「どうしたの」

 葵は答えようとして、少し考えた。

 自分の名前はまだ、自分の中に完全には戻っていない。

 けれど、言いたいことはあった。

「朝だね」

 ミオの目が潤んだ。

「うん」

「みんな、いるね」

「いる」

「ハルも」

「いる」

「サエも」

「いる」

 その答えは、嘘ではなかった。

 姿はない。

 でも、いる。

 呼べば、応える。

 記憶の中で。

 声の中で。

 名前の中で。

 少し前を歩いていたナオが、空を見上げた。

 白い空の端に、薄い青が広がっている。

 彼は立ち止まり、小さく息を吸った。

「葵」

 ナオが言った。

 葵は顔を上げた。

「朝だよ」

 その声は、白い世界に静かに広がった。

 葵の胸の中で、失われた名前が、ほんの少しだけ形を取り戻した。

 彼女はまだ、自分で自分の名を完全には呼べない。

 けれど、もう怖くはなかった。

 名前は一人で抱えるものではない。

 呼ばれ、渡され、分け合われ、時に失われ、また誰かの声で戻ってくる。

 それが、生きていた証なのだ。

 廃図書館の黒板には、その朝、風も光も消せない一行が残っていた。

 私たちは、互いの名を呼んだ。

 それだけが、生きていた証だった。

 了



 最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。


 本作は、「名前を呼ぶ」という、とても日常的で、とてもささやかな行為を、命綱のようなものとして描いた物語です。


 名前は、ただの記号ではありません。

 誰かが誰かを見つけるための声であり、忘れないための証であり、ときには、自分ひとりでは抱えきれない存在を、誰かと分け合うためのものなのだと思います。


 ハルが残した笑い声。

 サエがコトへ渡した名前の一画。

 ナオが抱え込んでいた消えた者たちの名。

 そして、葵が最後に差し出した自分自身の名前。


 失われたものは、完全には戻らないかもしれません。

 けれど、誰かが呼び続ける限り、そこにいたことまで消えてしまうわけではない。

 そんな希望を、この物語の最後に残したいと思いました。


 白く消えていく世界の中で、彼らは互いの名前を呼びました。

 それは、助けを求める声であり、別れを拒む声であり、それでも生きていくための声でもありました。


 もしこの物語の中で、ハル、サエ、葵、ナオ、あるいは誰か一人でも、心に残る名前があったなら、とても嬉しいです。


 読了、ありがとうございました。

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