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名前を失くした少年たち―指でなぞれば消える世界で、私たちは互いの名を呼ぶ。それだけが、生きていた証だった。  作者: 妙原奇天


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第6話 紙を縫う

 サイレンの朝が過ぎた。

 風だけが残り、港の空気は塩と鉄の匂いでざらついている。

 葵は図書館の机に針を並べた。包帯を巻いた指先で一本ずつ向きを揃え、光の角度を確かめる。細い糸の影が紙の上に落ち、それがまるで名前の骨のように見えた。


 昨夜、ノイズの壁が来たとき、何本かの縫い目がほどけかけた。糸で留めた名は、思ったよりも脆い。寝返り一つで切れてしまうような、呼吸の隙間で解けてしまうような儚さだった。

 葵はページをめくり、指で凹凸を確かめる。まだ残っている名。少し薄れた名。もう輪郭が曖昧な名。

 針を通し直しながら、葵はその一つ一つに短い息を吹きかけた。まるで傷口を縫うように。


 サエが背後でハミングを始める。低く穏やかな音が空気を撫で、針のリズムを刻む合図になる。ミオが糸の端を押さえ、葵の指先に合わせて呼吸を揃える。

 ユウは見張り台に立ち、空を見ている。ドローンの影を探すためだ。トオルは帳簿に記録をつけ、ナオが数字サインでテンポを送る。

 図書館の中はしんとして、波音の代わりに風が鳴った。古い窓の隙間から海の匂いが入り、糸の端がふるふると揺れる。

 朝の光の中で、紙の白が少しだけ青みを帯びた。


     *


 昼前、ユウが駆け戻ってきた。

 「検問が出た」

 息を切らしながら言う。

 行政局の白いテントが路地に張られ、無言の職員たちが人々の荷を調べている。焦げた紙をかざして透かしを見る。

 紙に異常な執着。ノート、帳簿、印刷物。どれもすぐに没収されていく。

 彼らの目的は明らかだった。

 名を記した紙を焼き切る。記録を戻すための橋を壊す。


 葵の胸が冷たくなった。

 もし名簿を奪われたら、この〈棲み場〉は一夜で崩れる。

 呼びも縫いも、すべてが意味を失う。


 「来る」

 ユウが短く言う。

 葵は立ち上がり、机の上の名簿を抱えた。心臓の鼓動が針の音と重なる。

 サエのハミングが止まり、図書館の空気が一瞬で静まった。

 「隠そう」

 ミオが言う。

 「駄目。隠すだけじゃ、また探される」

 葵は答えた。

 彼女の頭の中には、もう一つの光景が浮かんでいた。名簿をそのままの形で残すのではなく、名簿の中に“鍵”を作る。誰かが触れて、呼ばなければ開かないように。


     *


 古い児童書の表紙を剥がす。

 絵の具がはがれ、段ボールの地肌が露出する。葵は針を取り、糸を通した。

 そして、自分の名の一画をほどいて取り出す。血の気の失せたような線。

 それを新しい表紙の裏に縫い込む。

 名簿を開く者が「葵」という名を指で撫でなければ、ページが開かない仕組み。

 カバーそのものを“鍵”に変える。


 さらに、主要メンバーの名を分冊し、それぞれを薄い冊子に分けて持たせることにした。誰かが捕まっても、全滅しないように。

 分かれても、糸で繋がっている。それが葵の考えた新しい“縫い”。


 「やめろ」

 ユウが手を掴んだ。

 「自分の名を削るなんて」

 葵は首を振った。

 「私の名は、みんなの名の下地でいい」

 「そんなこと言うな」

 「いいの。名は残すものでしょ? 守るより、支えるほうが向いてる」


 針を深く刺す。布が軋む音がする。

 指先に鋭い痛み。血がにじみ、糸が赤く染まった。

 ミオがすぐに駆け寄り、塩水で消毒した。

 ひりつきが走る。痛みで目が覚める。

 それでも針は止まらない。

 赤い一針が混ざったページは、偶然にも、後で名簿を守る印になる。

 血の跡が、紙の繊維に食い込んで乾く。まるで命のしるしのように。


     *


 午後、トオルが持ってきた記録ノートに、小さなメモが貼られていた。

 〈検問の順序 名前の濃い家から〉

 その意味を理解するのに、時間はかからなかった。

 昨夜の合唱の波形をどこかで拾われたのだ。

 呼び声の濃さ。つまり、愛情や記憶の強さ。

 それを数値にして、座標に変換している。


 「呼べば呼ぶほど、狙われるってことか」

 ユウが笑いもせずに言った。

 「皮肉だな。愛が濃いほど、危険なんて」


 ハルが端末の前で顔を上げる。

 「合唱のテンポを偽装する」

 ナオは手を動かし、指サインを組み替えた。

 「無声合唱に戻す。目で見る呼び」

 レイは祈りの姿勢を解いて、静かに言う。

 「祈りの文を変える。正しい名を散らす」


 それぞれが自分の方法で、“名”の保存を考えていた。

 誰も正しい答えを持っていない。

 正しさをあえて分散することで、単一の名を狙い撃ちされにくくする。

 そんな歪な希望の形だった。


 葵は糸を取りながら、ページの一番下に二本の空白行を縫い足した。

 呼ばれていない名が入ってくる余白。

 まだ出会っていない誰かに席を空けるような、そんな針目だった。


     *


 夕方、扉が開いた。

 白い制服の職員が二人、無言で入ってきた。

 靴音だけが硬く響く。

 その目はガラス玉みたいに光を反射して、何も映していなかった。


 机の上の冊子に手が伸びる。

 ユウが一歩前に出ようとした瞬間、葵は目で制した。

 ここで暴れれば、名が散る。

 「落ち着いて」

 声にならない声で、唇を動かす。


 葵はゆっくりと机の下から偽の名簿を取り出した。

 中身は白紙。けれど、針の跡だけが残っている。

 縫いの文様は、意味を知る者にしか読めない。

 職員の一人が無言でそれを受け取り、ページを捲る。

 指先が紙の凹凸をなぞる。

 だが、そこには文字がない。糸の線だけ。

 「没収」

 短い声が落ちた。


 彼らは本物を探すように、棚を見渡す。

 奥の段に、薄冊子がいくつも並んでいる。

 そのうちの一冊には、本物の“名”がある。

 心臓が高鳴り、喉が乾く。

 葵は視線を動かさず、指先を重ねた。

 サエのハミングが小さく流れる。

 ミオの指が葵の手に触れ、拍を数える。

 そのわずかな時間が、永遠のように長かった。


 職員の一人が踵を返す。もう一人も続く。

 白い背中が扉の向こうに消える。

 足音が遠ざかり、静寂が戻った。


 力が抜けて、葵はその場に座り込んだ。

 ユウが駆け寄り、肩を支える。

 「大丈夫か」

 葵はうなずいた。

 でも、胸の奥に重いものが残っていた。

 偽名簿を失ったことで、“縫い跡のパターン”が行政に渡ったかもしれない。

 彼らは糸の文様を解読しようとするだろう。

 それは、この小さな世界の“言語”だった。


     *


 夜、みんなが眠ったあとも、葵だけは机に残った。

 カバーに縫い込んだ自分の名の欠画が、指に引っかかる。

呼ばれるたびに、その部分だけ風が抜けるように軽い。

 針の跡が一つ、抜け落ちたような感覚。


 葵は針を手に取った。

 もう一度縫い直そうとしたが、糸が指から滑った。

 包帯の下の傷がうずき、力が入らない。

 呼吸が浅くなり、視界が霞む。

 椅子の背にもたれ、目を閉じた。


 頬に冷たい風が当たる。

 窓の隙間から夜の空気が入り、ページの端がめくれた。

 葵の名の欠画が、風に解けて一針抜ける。

 赤い糸が机から落ち、床に落ちる。

 細く、蛇のように伸びて、隙間に滑り込んだ。


 探そうとしたが、手が動かなかった。

 名を失う感覚は、痛みよりも空虚に近い。

 呼ばれても応えられない。

 遠くで波の音がする。

 その向こうから、ソラの声がかすかに届いた。


 ――海へ来い。


 その言葉が、耳の奥で何度も反響する。

 葵はうっすらと目を開けた。

 海。

 ソラはいつも、潮風の中で何かを拾っていた。

 “海は名を運ぶ”と彼は言っていた。

 波が記憶を繋ぐ。潮が言葉を保存する。

 そんな荒唐無稽な話を、葵は信じたことがなかった。


 でも今は、信じてもいいと思った。

 自分の名の欠けた一針が、もし海に流れたなら、

 きっとソラが拾ってくれる。


 葵は目を閉じ、唇の内側で静かに呟いた。

 「……まだ、縫える」


 海風がページをめくり、紙の上をなぞった。

 糸の残骸が微かに揺れ、灯りの下で赤く光った。

 その光は、誰も知らない次の朝へのしるしのようだった。

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