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名前を失くした少年たち―指でなぞれば消える世界で、私たちは互いの名を呼ぶ。それだけが、生きていた証だった。  作者: 妙原奇天


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第3話 鈴の手

 鈴の音は、小さな光に似ていた。

 掌の上でかすかに震えるだけで、暗い廊下の空気が少し澄む。

 ミオは薬箱を片手に、もう片方の手で鈴のペンダントを胸元で押さえ、寝床の間を歩いていた。


 起き上がりきれない者の咳、古い毛布に染みついた消毒液の匂い、窓の外から時折入り込む潮の匂い。白罫区の朝は冷たく、そして遅い。呼びの儀式の時刻まで、まだ少しある。だがミオの一日は、皆より少し早く始まる。擦り傷の洗浄、額の熱の確認、そして“名の薄さ”の手当て。

 名前は、輪郭の縁取りに似ている――最近のミオはそう考えていた。触れれば立ち上がり、離れれば滲む。葵が糸で文字を紙に縫い留める間、ミオは皮膚に“名の形”をなぞる。手の温度と、鈴の音が合図になる。


 布の仕切りをめくると、コトが眠っていた。額に貼った布はぬるく、呼吸は浅い。唇の色がすこし薄い。

 ミオは鈴を軽く鳴らしてから、囁くように呼びかける。


 「コト。起きられる?」


 返事はない。眼球がわずかに揺れるだけだ。

 ミオは水筒の蓋を開け、氷のかけらと水を布に含ませて、額に置き直した。脈拍をみる。速い。

 鈴を親指と人差し指で挟む。その小さな重みを確かめて、指先をコトの掌に当てた。


 「……ごめんね、少し冷たいよ」


 コトの掌に、人差し指で文字の骨格を描く。幼い頃に読み書きを覚えたときの癖が、手の中に残っているはずだ。画の角、曲がり、払い。皮膚の上の見えない線を、呼吸に合わせてゆっくりなぞる。

 鈴を軽く揺らすと、金属どうしが触れ合って小さな音が生まれる。呼ばれた合図。目を閉じた子どもたちは、この音で安心する。誰かが自分を見ている、誰かが自分の名を触っている。そう思えるだけで、呼吸が整う。


 「ミオ?」


 背後から葵の声がした。

 振り返ると、名簿を抱えた葵が立っていた。指先には昨夜の針目の赤い跡。

 「どう?」

 「熱は上がってる。水分と冷やすのは続ける。呼吸は……まだ浅い。呼びは、あとで皆と合わせて」

 「糸は、準備できてる。頁の端に、幼名の画も縫えるようにしておいた」


 ミオはうなずき、もう一度コトの掌をやさしく押さえた。

 幼名。家族だけが呼んだ、丸い音の名前。昨夜、初めてそれで反応があった。けれど、反対する声もある。

 葵がそっと毛布をかけ直した。

 「サエが咳をしてる。先に診てくれる?」

 「わかった」


 鈴を胸元に戻し、ミオは廊下に出た。冷たい風が一気に頬を撫でる。窓の隙間から波の音が入り、棚の間をすり抜けていく。

 中央の空間では、サエがギターケースに手をかけながら小さく咳をしていた。首の辺りを押さえて、苦笑する。


 「ごめん。朝からうるさくて」

 「うるさくないよ。喉、見せて」


 ミオは懐中ライトを点け、サエの喉をのぞき込んだ。声帯のあたりに、細かい火傷のような、赤く点々とした所見がある。

 「これ……昨日の無音の圧のせい?」

 「たぶん」

 ドローンが喉を狙う。声を奪えば、呼びの連鎖は断たれる。ミオは唇を噛み、消毒用の綿棒を取り出して、優しく当てた。サエが目を細める。

 「しみる?」

 「ちょっとね。……でも、この痛みが残るなら、声も残る気がする」


 サエは冗談めかしたが、その目は笑っていなかった。

 「無理はしないで。今日は、拍で合わせて」

 「拍?」

 「音じゃない“呼び”。リズムで息を合わせる。あなたの声が出ないところは、皆で黙る。黙ること自体を、合図にするの」


 サエは目を丸くしたあと、ゆっくりとうなずいた。

 「ミオは、頭の中に譜面がある人だ」

 「看護係の手帳にも、少し。数字と穴の並びも使えるかもしれない。ハルが持ってきたパンチカード、見せてもらっていい?」


 サエの咳が落ち着くのを待っていると、トオルが帳簿を抱えて入ってきた。

 「点呼まであと十五分。昨日の“空白”の列、裏帳簿も煤けたまま。見えない」

 ミオは頷く。

 「見えないものは、触れるほうへ寄せる。今日から“触れる名札”を始めたい。糸で画を立体にして、肌に当てるの」

 「衛生は?」

 「塩水で消毒する。海の塩。ユウが持ってきた瓶」


 その名を口にした瞬間、ミオは胸の奥が少し温かくなるのを感じた。ユウは走って、持ち帰ってきた。塩と、数字の穴の束。生き延びるために必要な“手触り”の材料。

 トオルは帳簿の端に短くメモを入れた。

 「糸、布、小さな安全ピン。針は何本?」

 「三本。一本は鈍ってる。指サックは……ない」

 「縫うのは誰が?」

「私と葵。サエは拍。トオルは数字。ハルは穴」


 役割が並ぶ。そこに隙がないように見えるが、穴だらけだ。どこか一つ欠ければ、すぐにほどける。

 ミオは薬箱を閉じ、鈴を指先で弾いた。


 呼びの儀式。

 輪になって、ひとりずつ名を呼ぶ。

 サエのメロディは短く、低い。喉を守るために、音域を落としている。

 「ユウ」

 「はい」

 「葵」

 「いる」

 「トオル」

 「いる」

 「ハル」

 「ここ」


 順調に返事が重なり、目の前の空気が濃くなる。

 「コト」

 呼び声が、少し揺れた。

 「……コ」

 “ト”がこぼれ落ちた。舌が、そこに届かない。喉の奥に薄い膜が張られたようで、音が跳ね返る。


 ミオは鈴を握り、コトの枕元に膝をついた。

 「ことちゃん」

 幼名を呼ぶ。

 反対の視線が、背中に刺さる。レイだ。

 「本当の名から逃げるな」

 低い声。

 ミオは振り返らない。

 「生き延びさせるための嘘は、嘘じゃない」


 掌を取る。幼名の画をゆっくりとなぞる。丸い音の、丸い線。

 コトの瞼がわずかに動き、喉が小さく鳴った。

 葵が息をのむ。ユウが目を閉じる。

 ミオは幼名をもう一度呼んだ。

 指先が、皮膚の上でわずかに跳ね返される感触。

 触覚が、名を覚えている。


 だが、その喜びは長く続かなかった。

 昼すぎ、コトの熱がさらに上がった。指先が冷え、呼吸の間隔が不規則になる。

 「水……」

 ミオは小さく頷き、ストローで口の端に水を当てた。ごくん、と喉が動く。

 サエがそっとギターを構えかけて、やめた。

 「歌うと、喉が」

 「歌わなくていい。拍だけ。四つで一巡、二つを休む。休むところが“ト”」

 「休むのが、呼び?」

 「うん」


 ミオは糸と布を取り出した。

 布は古いシャツの袖。糸は葵がほぐしてわけてくれた細いもの。

 布に針を立て、縦画と横画を立体にする。画が指先にひっかかる程度の厚みで、ほつれないように端を返す。

 「痛っ」

 指先から小さく血がにじむ。

 ユウが塩の瓶を差し出した。

 「しみるよ」

 「知ってる」

 綿棒に塩水を沁み込ませ、指を拭う。熱い。だが、その熱ごと覚える。塩が名を残す。体で学ぶ。


 布に縫い上げた“名”を、コトの掌に当てた。固すぎないよう、やわらかい綿を間に挟む。ピンで軽く留める。

 「ことちゃん。ここにいるよ」

 鈴を鳴らす。

 机の縁を指で叩く。

 トン、トン、空白、トン。

 拍の中で、皆が揃って黙る瞬間が生まれる。

 黙ることが、呼ぶことになる。

 サエが、声が出ない代わりに、指先で床を叩く。葵も合わせる。ユウも、トオルも。

 図書館の床が、ひとつの太鼓みたいに響いた。


 「息、合わせて」

 ミオはコトの胸に手を当て、呼吸をなぞる。

 吸う、吐く、休む、吐く。

 “ト”に当たる拍では、誰も息を吸わない。

 沈黙が、合図になる。

 合図が、名の代わりになる。


 しばらくして、コトの呼吸がほんの少し整った。脈の速さがわずかに落ち、額の汗の粒が大きくなる。

 ミオは肩の力を抜き、鈴を額の横で軽く鳴らした。

 「いい子」


 その小さな安堵の中でも、レイの視線は冷たかった。

 「幼名で延命しても、明日には公称が消える。その時、彼女は本当に彼女か?」

 「……明日が来るなら、明日考える」

 「逃げている」

「守ってる」


 言葉がぶつかった。

 ミオはそれ以上言い返さなかった。

 守ることと、逃げることの境い目は、いつも薄い。

 ただ、今ここにいるコトの指先は、幼名の線を撫で返してくる。

 それが、答えに最も近い。


 午後、ハルがパンチカードを持ってきた。

 「見て、列の穴。数字は読めるけど、触ったほうが速い」

 ミオはカードの列に人差し指を置き、穴の並びを辿った。

 大穴、小穴、小さな空白。規則が掌に記録される。

 「触覚で譜面を作る。名を数字にして、穴にして、手触りにする。サエの声が途切れたとき、これで呼べる」

 「名を、数字に?」

 「ううん。数字を名に」


 夕方、風が強くなり、窓ガラスが鳴った。ドローンのノイズが遠くで揺れる。

 ミオは鈴を握り直した。金属の冷たさが、汗ばんだ掌に食い込む。

 「夜になる前に、もう一度合わせるよ。今度は“休符”をはっきりさせる」


 皆が頷く。

 合唱の準備は、静かに進んだ。机の引き出しから古い五線紙を見つけ、ミオは拍を四つ一組に分け、三つ目に斜線を引いた。そこは必ず黙る。黙るために、皆で息を揃える。

 「声が出ないのに、歌えるの?」

 サエの問いに、ミオは笑った。

 「歌は声だけじゃない。息と、手と、目で歌える」


 夜。

 窓の外が、墨のような色に沈む。

 塩の瓶を小皿に移し、綿棒をひたす。縫い針を拭い、指先を撫でる。

 ミオはコトの寝台の横に座り、鈴を額の横に置いた。

 「始めるね」


 サエがギターの弦をそっと撫で、音にならない空気の振動だけを作る。

 葵が糸の頁を開き、ハルはカードを両手で挟んで穴の列を追う。

 トオルは指で数字を示し、ユウは床の節目を指で叩く。

 トン、トン、休む、トン。

 沈黙が、部屋の中心に吸い込まれていく。

 ミオはコトの掌に布の名札を当て、幼名の曲線を呼吸で押し上げる。

 「ことちゃん」


 返事は、ない。

 けれど、胸がわずかに上下する。

 沈黙の三拍目で、みんなが同時に息を止めると、コトの睫毛が微かに震えた。

 ミオは涙が出そうになるのをこらえ、鈴を握った。

 「もう少し」


 拍が十巡したころ、コトの喉が小さく鳴った。

 それは、音というより、居場所の合図だった。

 ミオは目を閉じ、心の中でゆっくり数えた。

 名は、声だけではない。

 触れること。息を合わせること。黙ること。

 その全てが、呼ぶことだ。


 合唱が終わったあと、レイが静かに近づいてきた。

 「ミオ。幼名を使うなら、覚悟をして」

 「覚悟?」

 「明日、公称が消えたら。あなたが呼んでいるのは、誰になる?」

 ミオは言葉に詰まった。指先の布が、かすかに湿っている。

 「……わからない」

 「わからないまま、触れている。それは優しさだけど、刃でもある」


 レイの声は淡々としていた。責める響きは薄いのに、深く刺さった。

 ミオはうつむき、コトの掌に自分の手を重ねた。

 幼名の線を指でなぞる。

 その動きに合わせて、コトの指がかすかに動いた。

 空を泳ぐみたいに、柔らかい軌跡。

 “ことちゃん”。

 書いた。確かに、書いた。


 ミオは泣かなかった。

 泣く代わりに、鈴を強く握った。金属の輪が皮膚に食い込み、痛みが残る。

 その痛みは、名前の縁取りだ。

 指の腹に、ここにいるという線を刻む。


 そのとき、窓の外のノイズが急に強くなった。

 空気が押しつぶされるような圧。

 サエが喉を押さえ、息をのみ、ハルが耳をふさぐ。

 鈴を鳴らそうとして、ミオは気づいた。

 鈴の音が、消えている。


 手の中で確かに振れたのに、音が出ない。

 金属どうしが触れ合い、振動が生まれるはずの場所で、音が途切れている。

 ミオは何度か振った。沈黙だけが落ちた。

 窓ガラスが細かく震え、糸の頁がめくれかけて止まる。

 ユウが身を起こし、トオルが帳簿を開いた。どこかの行が、墨で塗られるみたいに灰色ににじむ。


 「鈴が……聞こえない」

 自分の声が掠れ、遠い。

 ミオは鈴を耳に当てた。金属の感触だけがある。音は、ない。

 レイが目を細める。

 「音の奪い方が変わった。発音だけじゃない。呼びの印そのものに、干渉してる」

 「じゃあ、どうすれば」

 「譜面を作り直す。言えない音素の地図を、もっと細かく。休符を増やし、沈黙そのものを記号にする」


 葵が頁を閉じ、針を握り直した。

 「縫いも見直す。糸の節の間隔を、休符に合わせる」

 「数字の配列も、休符を含めて再計算する」

 トオルが短く言い、ハルがカードをさっと数えた。

 ユウは窓の外を見た。闇の中で、小さな光点が浮かんでは消える。

 ミオはコトの掌に、自分の手を重ね直した。

 幼名の線を、もう一度なぞる。

 鈴が鳴らないなら、手で鳴らす。

 沈黙が降りてきても、触覚の中で音は消えない。


 レイがもう一度、低く言った。

「ミオ。明日になったら、答えを出して」

 「……うん」

 「幼名を、続けるのか。やめるのか。どちらにしても、皆に説明を」


 ミオは頷いた。

 窓の外のノイズは、少しずつ遠ざかる。

 戻ってきた静けさの中で、彼女は鈴をそっと机に置いた。

 音は、まだ戻らない。

 でも、掌の下の指は、たしかにそこにいる。


 触れること。

 呼ぶこと。

 黙ること。

 その全部で、わたしたちは名をつないでいる。

 ひとつでも奪われたら、別の回路を作る。

 明日は、譜面を作り直す。休符を増やす。沈黙の地図を、もっと緻密に。

 鈴が鳴らないなら、沈黙そのものを、鈴にする。


 ミオは目を閉じ、幼名を心の中でゆっくり呼んだ。

 それは音にならず、息だけが喉を通り過ぎる。

 それでも、指先をなぞる線は、確かさを増した。

 夜は深く、白罫区の天井の染みは、海の形に似ている。

 その海の端で、小さな指がまた動いた。


 ――鈴が消えた。

 明日、歌い直す。黙り直す。呼び直す。

 そのための譜面は、まだ白い。

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