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名前を失くした少年たち ――呼ばれなければ、存在できない世界で  作者: 二条理|アコンプリス


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第二章 呼ばれなかった子

 ハルという名前を、最初に忘れかけたのはソラだった。

 朝の光が廃図書館の閲覧室に薄く差し込み、黒板に残された九つの名前を白く浮かび上がらせていた。床には、まだ人の形をした跡がある。誰もそこへ近づこうとしなかった。近づけば、その輪郭まで壊してしまう。そんな確信が、言葉にされないまま全員の中にあった。

 葵は黒板の前に立っていた。

 チョークを握る右手が、まだ震えている。

 葵。ユウ。ミオ。サエ。ソラ。トオル。レイ。ナオ。コト。

 九つの名前。

 ひとつ、足りない。

 それが誰の名前だったかを、葵は知っている。

 知っているのに、黒板へ書けない。

 ハル。

 そう声に出すと、喉の奥が切れるように痛んだ。夜通し名前を呼び続けたせいだけではない。その名前を口にするたび、世界そのものが葵の舌を押さえつけようとする。発音するな。残すな。思い出すな。そう命令されているようだった。

 けれど、葵は逆らった。

「ハル」

 もう一度、言った。

 閲覧室の隅で、ソラが顔を上げる。

「それ、誰だっけ」

 その一言で、室内の空気が変わった。

 ユウがソラを見た。ミオが唇を引き結んだ。トオルは床に座り込んだまま、ぎろりと視線だけを向けた。レイは自分の膝の上に置いた紙を見下ろしている。そこには全員の名前が書かれていたが、ハルの名前だけは何度書いても白く抜け落ち、紙の繊維だけがささくれ立っていた。

「今、何て言った」

 トオルの声は低かった。

 ソラは怯えたように瞬きをした。

「いや……わかってる。たぶん、わかってるんだ。でも、顔が出てこない」

「ふざけんな」

「ふざけてない」

「昨日まで一緒にいただろ」

「だから、わかってるって言ってるだろ」

 ソラは両手で頭を押さえた。

「声は、少し覚えてる。笑ってた気がする。よくしゃべってた気がする。でも、顔が、ぼやける」

 葵は胸の奥が冷えていくのを感じた。

 ハルは消えた。

 でも、それだけでは終わらない。

 消えた人間の記憶まで、世界は奪っていく。

 それは、死よりもひどいことのように思えた。

 死んだ者の名前を呼ぶ人がいる限り、その人はどこかに残る。昔、大人がそう言っていた気がする。誰が言ったのかは思い出せない。母だったのか、先生だったのか、近所の誰かだったのか。もう、その人の名前もない。

 名前が消える世界では、死者は二度死ぬ。

 一度目は、体が消えた時。

 二度目は、呼ぶ者がいなくなった時。

「みんな、覚えてることを言って」

 葵は言った。

 声はかすれていたが、自分でも意外なほどはっきり響いた。

「今ならまだ、残せるかもしれない」

「残すって、どうやって」

 ミオが聞いた。

「言葉で。紙はだめでも、声なら少しは残る。みんなの中に」

「俺は覚えてる」

 トオルが乱暴に言った。

「忘れてない」

「じゃあ言って」

「何を」

「ハルのこと」

 トオルは口を開いた。

 すぐに閉じた。

 眉間に深い皺が寄る。言葉を探しているのではない。どこかにあるはずの記憶を掴もうとして、指先が空を切っている。そんな顔だった。

「……うるさかった」

 やっと出た言葉は、それだけだった。

「いつも余計なことばっかり言ってた。こっちが黙れって言っても黙らなくて、でも」

 トオルは唇を噛んだ。

「でも?」

 葵が促す。

「でも、何を言ってたのか思い出せない」

 レイが紙を握りしめた。

「私は覚えてる。昨日の朝、缶詰のラベルを見て、中身が桃だったら祝いだって言ってた。でも開けたら豆で、がっかりしてた」

「そうだ」

 ミオが頷いた。

「それから、コトに豆を多めにあげてた。自分は嫌いだからって言いながら」

 サエが小さく息を呑んだ。

「嘘。本当は、嫌いじゃなかった」

「え?」

「ハルは豆、嫌いじゃなかった。前に言ってた。味がしっかりしてるから、当たりの方だって」

 コトはまだ目をこすっていた。

 夜中に眠ってしまったことを、彼女自身はどこまで理解しているのだろう。顔は青白く、膝の上で小さな手を握りしめている。サエの袖をつかみ、決して離そうとしなかった。

「コト」

 葵はしゃがみ込んだ。

「ハルのこと、覚えてる?」

 コトは唇を震わせた。

「覚えてる」

「どんな子だった?」

「……笑う子」

「うん」

「わたしに、缶のふたで、こまを作ってくれた」

「うん」

「それから」

 コトは言葉を探した。

「それから、昨日、寝ていいって言った」

 その場にいた全員が、同時に沈黙した。

 眠っていいと言ったのはハルだった。

 眠ってしまったのはコトだった。

 そして、朝になってハルはいなくなった。

 その事実だけが、氷の欠片のように床に落ちていた。誰も拾いたくない。けれど、誰の目にも見えている。

 トオルが立ち上がった。

「だから、足りなかったんだ」

 ユウがすぐに言った。

「やめろ」

「やめろって何だよ。みんな思ってるだろ」

「思ってない」

「嘘つけ」

 トオルはコトを見た。

 その視線を受けて、コトの体がびくりと震えた。サエがかばうように前へ出る。

「トオル」

「一人分、声が途切れた。だから消えたんだろ」

「そうとは限らない」

 ミオが言った。

「じゃあ何なんだよ」

「わからない」

「わからないで済むのかよ」

 トオルの声が大きくなる。

「次も同じことが起きたら? また誰かが寝て、また誰かが消えたら? 今度は誰が責任取るんだ」

「責任なんて言葉、コトに向けないで」

 サエの声は震えていたが、はっきりしていた。

「コトは眠ってしまっただけ。悪意なんてなかった」

「悪意がなきゃ消えてもいいのか」

「そういう話じゃない」

「そういう話だろ」

 ユウが間に入った。

「今は責め合う時じゃない。まず決まりを作る」

「決まり?」

「生きるための決まりだ」

 ユウは黒板の前へ行った。

 葵が握っていたチョークをそっと受け取り、黒板の下の空いた場所に線を引く。ハルの名前を書こうとして崩れた白い粉が、まだそこに残っていた。ユウはそれを避けるようにして、ゆっくり文字を書いた。

 一、朝と夜に全員の名前を呼ぶ。

 二、名前を書いた紙を持ち歩く。

 三、誰か一人を孤立させない。

 四、外へ出ない。

 五、名前を忘れたら、すぐに言う。

 黒板に並んだ文字は、今のところ消えなかった。

 それが慰めになるのか、ならないのか、葵にはわからなかった。

「守れるのか、こんなの」

 トオルが言った。

「守る」

 ユウは短く答えた。

「寝るなって決めても寝る。忘れるなって決めても忘れる。外へ出るなって言っても、食べ物がなくなったら出るしかない。決まりだけでどうにかなるなら、ハルは消えてない」

 ハル。

 トオルがその名を口にした瞬間、コトが小さく泣き出した。

 サエが彼女を抱きしめる。

「名前を言えるうちは、言った方がいい」

 レイがぽつりと言った。

 全員が彼女を見た。

「忘れるのが怖いから、言わないようにしたくなる。でも、それだと余計に早く消える気がする」

「根拠は」

 トオルが聞く。

「ない」

 レイは首を振った。

「でも、昨日の夜、みんなで呼んだ時、少しだけ残ってた。朝まで完全には消えなかった。声には意味があると思う」

 ナオが、部屋の奥でわずかに動いた。

 葵はその動きを見逃さなかった。

 ナオはいつも黙っている。必要以上に話さない。食料の分配にも口を出さず、見張りの順番にも文句を言わない。だが、彼は何かを知っている。葵には、ずっとそんな気がしていた。

 昨日の夜もそうだ。

 ナオは最後までハルの名前を呼んでいた。小さな声だったが、一度も途切れなかった。そして、ハルが消えた朝、彼だけは驚いた顔をしなかった。悲しんでいないわけではない。むしろ、目の奥には深い疲れのようなものがあった。

 だが、予想外ではなかった。

 そんな顔だった。

「ナオ」

 葵は呼んだ。

 ナオの肩がわずかに揺れた。

「昨日のこと、覚えてる?」

 ナオは黙ったまま、葵を見た。

「ハルのこと」

 その名前を聞いた時、ナオの目が一瞬だけ細くなった。

 彼は答えない。

 トオルが苛立ったように舌打ちした。

「こういう時くらい何か言えよ」

「トオル」

「だってそうだろ。ずっと黙ってるだけじゃわからない。お前は覚えてるのか、忘れてるのか、どっちなんだよ」

 ナオはしばらく沈黙した。

 やがて、小さく言った。

「覚えてる」

「何を」

「笑い方」

 それだけだった。

 葵はナオを見つめた。

 笑い方。

 その一言だけで、葵の中にハルが少し戻ってきた気がした。大げさに肩を揺らして、相手に突っ込まれるのを待つような笑い方。自分が怖くても、先に誰かを笑わせようとする癖。声の奥に混じる、ほんの少しの寂しさ。

 覚えている。

 葵も、まだ覚えている。

「今日から、名前を何度も確認する」

 ユウが言った。

「朝、昼、夕方、夜。できれば、それ以外にも」

「回数を増やしたら残るのか」

 ソラが聞く。

「わからない。でも、やらないよりましだ」

「名前を書いた紙って、消えるんじゃないの」

 ミオが言った。

「消えてもいい。消えたら気づける。薄くなったら、すぐ対処できる」

「対処って?」

 ユウは答えなかった。

 対処法など、誰も知らない。

 それでも、決まりがあるだけで人は少し動ける。葵はそれを知っていた。朝に名前を書く。夜に名前を呼ぶ。食料を分ける。見張りを立てる。そんな小さな決まりが、この図書館をかろうじて生活の場にしていた。

 決まりがなければ、ここはただの廃墟だ。

 葵は黒板の九つの名前を見上げた。

 そこに自分の名前があることが、不思議だった。

 葵。

 その二文字も、いつか書けなくなるのだろうか。

 そう思った瞬間、背中に冷たいものが走った。

 昼までに、全員が小さな紙片を持つことになった。

 古い図書カードを切り、一人ひとりの名前を書いた。紙の上に書かれた名前は、時間が経つと薄くなる。それを防ぐため、葵は一時間ごとに上書きした。

 葵。ユウ。ミオ。サエ。ソラ。トオル。レイ。ナオ。コト。

 何度も、何度も。

 ハルの名前だけは書けない。

 書こうとすると、紙が拒む。鉛筆の芯が滑り、線が崩れ、最後には白い傷だけが残る。

 それでも、葵は一枚だけ、ハルのための紙片を作った。

 何も書かれていない紙だった。

 中央に、書けなかった名前の跡がある。目を凝らせば、そこだけ紙の繊維が乱れている。葵はその紙を自分の胸ポケットに入れた。

 ミオはそれを見ていたが、何も言わなかった。

 昼食は、豆の缶詰だった。

 誰もほとんど喋らなかった。金属の匙が缶の縁に当たる音だけが、閲覧室に響いた。

 コトは食べようとしなかった。

 サエが匙を口元へ運んでも、首を振る。

「食べないと倒れるよ」

「いらない」

「少しだけ」

「ハルのぶん」

 その言葉に、サエの手が止まった。

「わたし、食べちゃだめ」

「どうして」

「わたしが寝たから」

 サエは匙を置いた。

「コト」

「わたしが呼ばなかったから、ハルがいなくなった」

「違う」

「でも、トオルが」

「トオルは怖かっただけ」

 少し離れた場所で、トオルの肩が動いた。

 聞こえている。

 けれど、彼は振り向かなかった。

「怖いと、人は誰かのせいにしたくなるの」

 サエは静かに言った。

「そうしないと、自分も消えるかもしれないってことに耐えられないから」

「サエも怖い?」

「怖いよ」

「ハルのこと、怒ってる?」

「怒ってない」

「わたしのことは?」

「怒ってない」

 コトの目から、大きな涙が落ちた。

「でも、わたし、自分が怒ってる」

 サエはコトを抱きしめた。

 葵はそれを見て、胸が詰まった。

 コトは小さい。けれど、小さいから痛みを感じないわけではない。むしろ、言葉を持たないぶん、痛みはそのまま体の中に残る。

 ハルが消えたことを、誰かの責任にしたがっているのはトオルだけではない。

 コト自身も、自分を責めている。

 そしておそらく、全員が別々の形で自分を責めている。

 葵は、ハルの名前を書けなかったこと。

 ユウは、守れなかったこと。

 ミオは、眠りかけた葵をつつきながら、自分も何度か意識を失いそうになったこと。

 レイは、記憶力がいいのに忘れかけていること。

 ソラは、朝になって顔を思い出せなかったこと。

 トオルは、恐怖をコトに向けたこと。

 ナオは、何かを知っているのに話さないこと。

 誰もが、自分の中に小さな罪を抱えていた。

 だからこそ、この図書館は静かだった。

 午後、ユウは食料の確認を始めた。

 地下倉庫に残っている缶詰は三十七個。水のペットボトルは二十一本。雨水を溜めたタンクが一つ。乾パンの缶が四つ。薬箱には包帯と消毒液が少し。サエの咳止めは、あと三回分しかない。

「外へ出ないって決めたばかりなのに、すぐ足りなくなるな」

 ソラが言った。

「必要なら出る」

 ユウは答えた。

「でも、一人では出ない」

「どこへ行く?」

「近くのスーパー跡。前にまだ奥の倉庫を見てない」

「看板も棚札も消えてる。何があるかわからない」

「だから複数で行く」

「俺も行く」

 ソラが即座に言った。

「だめだ」

「なんで」

「お前は外を見ると遠くへ行きたがる」

「行きたがるだけで、行ってない」

「昨日も駅の方へ行きたいって言った」

「あれは、駅名が少し残ってるように見えたから」

「残ってたのか」

 ソラは目を伏せた。

「見間違いだった」

 ユウはそれ以上言わなかった。

 外の話になると、ソラの目は変わる。閉じ込められていることに、一番耐えられないのは彼だった。白化した町の向こうに、まだ何かが残っている。そう信じなければ、生きていられないのかもしれない。

 葵はその気持ちもわかった。

 図書館は安全だ。少なくとも、今のところは。

 けれど安全な場所は、時に檻にもなる。

 夕方、名前の確認が行われた。

 全員が黒板の前に並ぶ。ユウが一人ずつ名前を呼び、呼ばれた者が返事をする。

「葵」

「いる」

「ユウ」

「いる」

「ミオ」

「いる」

「サエ」

「いる」

「ソラ」

「いる」

「トオル」

「いる」

「レイ」

「いる」

「ナオ」

 少し間があった。

「……いる」

「コト」

「いる」

 九人。

 返事はそろった。

 葵は自分の紙片を確認した。名前は少し薄くなっていたが、まだ読める。ミオの紙も、ユウの紙も同じだった。時間とともに薄くなるが、呼び直せば、書き直せば保てる。

 そのことがわかっただけでも、大きい。

 葵はそう思おうとした。

 けれど、サエの紙を見た時、息が止まった。

 サエ。

 その二文字が、他の誰よりも薄い。

 最初は光の加減かと思った。窓から差す白い夕暮れのせいで、紙の線が見えにくくなっているだけかもしれない。葵は紙を受け取り、角度を変えた。

 やはり薄い。

 朝よりも、昼よりも、明らかに薄くなっている。

「サエ」

 葵は呼んだ。

 サエはコトの髪を撫でていた手を止める。

「何?」

「紙、見せて」

「さっき見せたよ」

「もう一度」

 サエは少し迷ったように見えた。

 その一瞬で、葵は気づいた。

 サエは知っている。

 自分の名前が薄くなっていることを。

「サエ」

 ミオも気づいて近づいてきた。

「顔色が悪い」

「いつもだよ」

「いつもより悪い」

「寝不足だから」

「それだけじゃない」

 サエは笑おうとした。

 うまく笑えていなかった。

 ユウが紙を見た。

「いつからだ」

「わからない」

 サエは答えた。

 その声は小さかった。

「たぶん、昼くらい」

「どうして言わなかった」

「まだ大丈夫だと思った」

 トオルが立ち上がった。

「大丈夫なわけないだろ」

 怒鳴るような声だったが、コトへ向けた時とは違った。そこには明らかな焦りがあった。

「薄くなったら言えって決めたばかりだろ」

「ごめん」

「謝ってる場合かよ」

「トオル」

 ユウが制したが、トオルは止まらなかった。

「今度はサエかよ。何なんだよ。誰かが何かしてるのか? それとも順番なのか? 昨日はハルで、今日はサエ? 明日は誰だよ」

「やめて」

 ミオが言った。

「言葉にすると、本当にそうなる気がする」

「言わなくてもなるだろ」

 トオルは黒板を指さした。

「見ろよ。あれは何だ。忘れた者から消えるって、そう書いてある。じゃあ誰かがサエを忘れかけてるんじゃないのか」

 コトがサエの服をつかんだ。

「わたし、忘れてない」

「コトの話じゃ」

「わたし、サエのこと忘れてない」

 コトは泣きそうな顔で繰り返した。

「忘れない。絶対、忘れない」

 サエは膝をつき、コトの手を包んだ。

「うん。知ってる」

「じゃあ、消えない?」

「うん」

 サエは嘘をついた。

 その嘘が、葵にはわかった。

 夜が来た。

 正確には、白い光が少し冷たくなっただけだ。それでも彼らは夜と呼んだ。そう呼ばなければ、一日が終わらない。朝も夜もない世界で生きるには、人間の側が区切りを作るしかない。

 夕食のあと、全員でサエの名前を呼ぶことになった。

 けれど、ハルの時とは少し違っていた。

 ハルの時は、突然だった。恐怖も悲しみも、追いつかないまま声を出すしかなかった。だが今は、みんな知っている。名前が薄くなるとどうなるのか。朝、何が残るのか。記憶がどんなふうに欠けるのか。

 だからこそ、誰もが慎重だった。

 サエ。

 サエ。

 サエ。

 声が輪になって、閲覧室に満ちる。

 サエはコトを膝に乗せて座っていた。顔色は悪い。けれど、ハルのように冗談を言うことはなかった。ただ静かに、自分の名前が呼ばれるのを聞いている。

 葵は呼びながら、サエの紙片を見ていた。

 薄い。

 呼んでも、濃くならない。

 むしろ、少しずつ線が痩せているように見える。

 どうして。

 葵は喉の奥で問いを噛み殺した。

 どうして、ハルの時と同じことをしているのに、同じように薄くなるのか。

 いや、違う。

 ハルの時とは何かが違う。

 何か、見落としている。

 深夜近く、コトがまた眠りかけた。

 トオルが反射的に顔を上げる。けれど今度は何も言わなかった。言いかけた言葉を飲み込んだのが、葵にはわかった。

 サエがコトの耳元で囁いた。

「眠っていいよ」

 コトは首を振った。

「だめ」

「大丈夫」

「だめ。わたし、呼ぶ」

 小さな声で、コトは言った。

「サエ」

 サエの目が揺れた。

「サエ」

 コトは必死に呼ぶ。

「サエ。サエ。サエ」

 その声を聞いた時、葵は奇妙なものを見た。

 コトの手の甲に貼られた紙片。

 そこに書かれた名前が、一瞬だけ濃くなったのだ。

 コト。

 朝よりも、はっきりしている。

 サエの名前が薄くなっている一方で、コトの名前は濃くなっている。

 葵は息を止めた。

 偶然ではない。

 サエがそれに気づいていないはずがない。

 葵は声を出し続けながら、サエを見た。

 サエはこちらを見返した。

 その目は、静かだった。

 恐怖はある。悲しみもある。けれど、それだけではない。

 決めた者の目だった。

 夜明け前、葵はサエを廊下へ連れ出した。

 ミオが視線で問いかけてきたが、葵は首を横に振った。今は二人で話したかった。

 廊下は冷えていた。

 壁には、かつて地域の催し物のポスターが貼られていた跡がある。文字も写真も白く消え、四角い紙の残骸だけが残っている。誰かが楽しみにしていた行事。誰かが作った案内。誰かの名前。それらはすべて、もう読めない。

 サエは壁にもたれた。

 立っているだけで苦しそうだった。

「いつから?」

 葵は聞いた。

 サエはすぐには答えなかった。

「何が?」

「コトの名前が濃くなってる」

 サエの睫毛が揺れた。

「気づいたんだ」

「サエの名前は薄くなってる」

「うん」

「どういうこと」

 サエは廊下の先を見た。

 そこには児童書コーナーへ続く階段がある。手すりの色は剥げ、壁の案内板は真っ白だった。以前はそこに「おはなしのへや」と書かれていたらしい。葵はその文字を覚えていない。ただ、そんな場所だった気がするだけだ。

「昨日の夜」

 サエは言った。

「コトが寝ちゃったでしょう」

 葵は黙って頷いた。

「トオルが責めそうになって、ハルが寝ていいって言って、それで、コトは眠った」

「うん」

「でも、私は怖かった」

 サエは両手を握りしめた。

「コトがハルの名前を呼べなかったことを、世界が覚えてしまう気がした。コトの中に、呼ばなかったっていう穴ができる気がした。だから、ずっとコトの分まで呼んだ」

「ハルの名前を?」

「うん。でも、それだけじゃない」

 サエは胸元に手を当てた。

「コトの名前も呼んだ」

「コトの名前?」

「うん。ハルを呼びながら、コトのことも呼んだ。コトがここにいるって、コトは悪くないって、コトは消えちゃだめだって、ずっと思ってた」

 葵は眉を寄せた。

「それで?」

「途中から、変な感じがしたの」

「変な感じ?」

「自分の名前が、少しずつほどけていく感じ」

 廊下の空気が、急に冷たくなった気がした。

「サエ」

「たぶん、名前って分けられるんだと思う」

 サエは静かに言った。

「呼ばれて残るだけじゃなくて、誰かに渡すこともできる。私の名前の一部が、コトの名前に混ざったんだと思う」

「そんなの」

 葵は言葉を失った。

「そんなの、わからない」

「うん。私もわからない」

「だったら」

「でも、コトの名前、濃くなったでしょう」

 葵は返せなかった。

 見た。

 確かに見た。

 サエの名前が薄くなり、コトの名前が濃くなっているのを。

「どうして言わなかったの」

「言ったら、止められると思った」

「止めるよ」

「うん」

「今からでもやめて」

 葵は詰め寄った。

「サエの名前を呼ぶ。みんなで呼べば、戻るかもしれない」

「戻らないと思う」

「どうして決めつけるの」

「決めつけてるんじゃない」

 サエは微笑んだ。

 それは、弱くて、困ったような笑みだった。

「わかるの。自分の名前だから」

 葵の胸が痛んだ。

 自分の名前だからわかる。

 その言葉には、他人が入り込めない重さがあった。

「コトは小さい」

 サエは言った。

「自分のせいだって思ったら、きっと耐えられない。あの子はまだ、自分を責める言葉ばかり覚えちゃいけない」

「だからって、サエが消えていい理由にはならない」

「消えたいわけじゃないよ」

 サエの声が、初めて震えた。

「私だって怖い。ハルみたいに、朝になったらいなくなるのは怖い。みんなが私の顔を忘れるのも怖い。コトが私のことを思い出せなくなるのも、すごく怖い」

「だったら」

「でも」

 サエは葵を見た。

「コトが消える方が、もっと怖い」

 葵は何も言えなかった。

 廊下の奥で、風が鳴った。

 窓の割れ目から入り込んだ冷たい空気が、白く剥げたポスターを震わせる。紙はかさりと音を立てた。そこに書かれていたはずの文字は、もうない。

 それでも紙だけは残っている。

 名前が消えても、何かの形だけが残ることがある。

 ハルの白い跡のように。

 サエは小さく息を吐いた。

「葵」

「何」

「お願いがある」

「嫌」

「まだ言ってない」

「聞きたくない」

「聞いて」

 葵は目を伏せた。

「私が消えそうになったら、コトを責めないで」

「消えそうにならない」

「葵」

「ならない」

 サエは少し困ったように笑った。

「頑固だね」

「サエほどじゃない」

「そうかな」

「そうだよ」

 二人はしばらく黙っていた。

 閲覧室から、名前を呼ぶ声が聞こえてくる。

 サエ。

 サエ。

 サエ。

 その声の中に、コトの声も混じっている。

 小さく、眠たく、それでも必死な声。

 サエはその声を聞いて、目を閉じた。

「私、消えるために渡したんじゃないよ」

 ぽつりと言った。

「生きてほしくて、渡したの」

 葵は拳を握りしめた。

 泣きそうだった。

 でも、泣いたらサエが遠くへ行ってしまう気がした。涙は、別れを認める行為のように思えた。

 だから、泣かなかった。

「戻ろう」

 葵は言った。

「みんなが待ってる」

 サエは頷いた。

 閲覧室へ戻ると、全員がこちらを見た。

 ミオはすぐに葵の顔を見て、何かを察したようだった。ユウも同じだった。トオルだけが苛立ったように言った。

「何話してたんだよ」

「あとで」

 葵は短く答えた。

「今は、サエを呼ぶ」

 サエはコトの隣に座った。

 コトが眠そうな目で彼女を見上げる。

「サエ」

「うん」

「いる?」

「いるよ」

「消えない?」

「今は、いる」

 コトは不満そうに眉を寄せた。

「ずっと、いるって言って」

 サエは一瞬だけ黙った。

 それから、コトの髪を撫でた。

「ずっと、呼んでくれたらね」

「呼ぶ」

「うん」

「サエ」

「うん」

「サエ」

「うん」

「サエ」

 その声は、夜の白さの中で細く震えていた。

 葵も声を重ねた。

「サエ」

 ミオが続く。

「サエ」

 ユウ。

「サエ」

 ソラ。

「サエ」

 トオル。

「サエ」

 レイ。

「サエ」

 ナオ。

「……サエ」

 呼ぶたびに、サエの名前は薄くなる。

 葵には、もうわかっていた。

 呼ばれていないから消えるのではない。

 忘れられたから消えるのでもない。

 少なくとも、サエの場合は違う。

 彼女は誰かのために、自分の名前を差し出している。

 その事実を、今ここで全員に告げるべきなのか。葵には判断できなかった。言えば、サエは止められるかもしれない。だが、止めた瞬間、コトの名前に何が起きるのかもわからない。

 名前は命なのか。

 記憶なのか。

 それとも、誰かを呼ぶための力なのか。

 わからない。

 わからないまま、彼らは声を出し続けるしかなかった。

 夜が深くなる。

 サエの顔はますます白くなる。

 コトは泣きながら名前を呼び続ける。

 トオルは何度も何度も、まるで謝罪するようにサエの名前を呼ぶ。

 ユウの声はかすれ、ミオは唇から血をにじませ、レイは自分の掌にサエの名前を書こうとして失敗し、ソラは窓の外を見ることをやめた。

 ナオだけが、じっとサエを見ていた。

 その目には、昨日の朝と同じ深い疲れがあった。

 知っている。

 葵は思った。

 やっぱり、ナオは何かを知っている。

 夜明けが近づいた頃、サエが葵の袖を引いた。

 ほんのわずかな力だった。

 葵は耳を寄せた。

「葵」

「うん」

「私、コトに名前を分けたの」

 声は、ほとんど息だった。

「だから、たぶん次は私だよ」

 葵は返事をしなかった。

 返事をしたら、その言葉を認めることになる。

 サエは静かに笑った。

「でも、まだいる」

 葵はうなずいた。

「うん」

「呼んで」

 葵は唇を噛み、声を絞り出した。

「サエ」

 サエは目を閉じた。

 閲覧室に、たくさんの声が重なる。

 サエ。

 サエ。

 サエ。

 サエ。

 その夜、子どもたちは初めて知った。

 名前は、呼ばれるためだけにあるのではない。

 誰かを呼ぶためにも、誰かを守るためにも、存在している。

 けれど、そのことを知るには、あまりにも代償が大きすぎた。



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