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名前を失くした少年たち ――呼ばれなければ、存在できない世界で  作者: 二条理|アコンプリス


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第一章 名前が消える朝

 世界から、名前が消えはじめたのは、いつだったのだろう。

 葵は、ときどきそのことを考える。

 けれど、答えはいつも見つからなかった。大人たちがまだいた頃なのか、学校の校門に掲げられていた銅板から文字が剥がれ落ちた日なのか、それとも、町内会の掲示板に貼られていた行方不明者の紙から、顔写真よりも先に名前だけが白く抜けた朝なのか。

 記憶はある。断片なら、いくらでもあった。

 母が自分を呼ぶ声。父が新聞を畳む音。教室の黒板に書かれた日直の名前。下駄箱の上に並んだ名札。図書館の貸出カード。墓地の石に刻まれた、知らない誰かの姓。

 だが、どれも輪郭がぼやけている。

 思い出そうとすると、白い霧のようなものが頭の奥に満ちる。顔は浮かぶ。声も、匂いも、手触りもある。それなのに、肝心の名前だけがない。

 世界は、人間から名前を奪うことで、少しずつ軽くなっているようだった。

 その現象を、かつて誰かが「白化」と呼んだ。

 けれど、その呼び名も、もうどこにも書かれていない。

 紙に残された文字は、指でなぞると消えた。壁に書いた文字も、乾いた絵の具も、錆びた標識の刻印も、時間が経てば白く薄れた。人の名前は、とくに弱かった。書かれたそばから崩れ、読まれないまま放っておけば、翌朝には跡形もなくなった。

 だから葵は、毎朝、黒板に名前を書く。

 それが一日の始まりだった。

 廃図書館の二階閲覧室には、まだ黒板が残っている。以前は読書会や地域講座に使われていた部屋らしく、壁際には古い椅子が積み上げられ、窓際には破れたカーテンが垂れ下がっていた。カーテンはもう色を失っている。赤だったのか、青だったのか、葵にはわからない。布地は日に焼けた骨のように白く、風が吹くたび、弱った鳥の羽みたいに震えた。

 窓の外には町が見える。

 とはいえ、町と呼べるほどのものは残っていない。建物は立っている。道路もある。電柱も、信号機も、商店街のアーケードもある。けれど、どれも名前を持たない。看板は真っ白で、道路標識も、駅名も、店先の表札も、何も書かれていない。

 名前のない町は、死んでいるのに崩れない死体に似ていた。

 葵は黒板の前に立ち、短くなったチョークを握った。

 最初に、自分の名前を書く。

 葵。

 白いチョークの粉が指先についた。線はかすれたが、まだ読める。

 次に、ユウ。

 ミオ。

 ハル。

 サエ。

 ソラ。

 トオル。

 レイ。

 ナオ。

 コト。

 十の名前が並ぶと、黒板は少しだけ息を吹き返したように見えた。

 葵は一歩下がり、声に出して読んだ。

「葵。ユウ。ミオ。ハル。サエ。ソラ。トオル。レイ。ナオ。コト」

 読み終えた瞬間、背後で布団のこすれる音がした。

「……今日も全員いる?」

 声を出したのはミオだった。長い髪を肩のところで無造作に結び、毛布を羽織ったまま、床に座っている。目はまだ眠そうだったが、その視線だけは黒板の名前を正確になぞっていた。

「いる」

 葵は答えた。

「たぶん」

「たぶん、はやめて」

 ミオは少し眉を寄せた。

「朝にその言い方をされると、心臓に悪い」

「じゃあ、いる。全員」

 葵が言い直すと、ミオは小さく頷いた。

 部屋の隅では、コトが丸くなって眠っていた。最年少の子で、年齢は六つか七つくらいだと思う。本人に聞いてもはっきりしない。誕生日を覚えていないから、誰も正確にはわからなかった。

 コトの隣でサエが毛布をかけ直している。サエはいつも少し顔色が悪い。けれど、誰かの世話を焼く時だけ、頬に薄い赤みが差した。

 窓際ではソラが外を見ていた。朝になると必ずそうする。町の端、白い霧の向こうに何かが見えると言うのだ。学校かもしれない。駅かもしれない。家かもしれない。毎日違うことを言うので、トオルは信用していない。

 そのトオルは本棚にもたれて座り、昨日拾ってきた缶詰のラベルを爪で剥がしていた。ラベルにはもう文字がない。中身が何なのかは開けてみなければわからない。

 レイは黒板の名前をじっと見つめている。彼女は記憶力がいい。誰がどの棚からどの本を取ったか、昨日の夕方に誰が咳をしたか、三日前の夕食に缶詰を何個開けたかまで覚えている。だが、消えた名前だけは覚えられない。どれだけ必死に頭に刻み込んでも、白化はその場所だけを選んで削っていく。

 ユウは入口の近くに立っていた。背が高く、十人の中では一番年上に見える。実際の年齢は十六か十七くらいだろう。年長者という理由だけで、いつの間にか彼がこの場所の決まりを作るようになった。けれど、ユウ自身はそのことをあまり好んでいないようだった。

 ナオは、いつものように黙っていた。

 部屋の奥、百科事典の棚の前。膝を抱え、壁に背を預けて座っている。目だけがこちらを見ている。名前を呼ばれた時も、返事をしない。ただ、ほんの少しだけ睫毛が揺れる。それが、ナオの「いる」という合図だった。

 最後に、ハルが起き上がった。

「おはようございます、名前のある皆さん」

 わざとらしく深々と頭を下げる。寝癖が派手についていて、髪の一部が鳥の尾みたいに跳ねていた。

「朝からうるさい」

 トオルが言った。

「生存確認だよ。声が出るってことは、まだ消えてない証拠だろ」

「お前の声は残らなくても困らない」

「ひどいな。俺の声がなくなったら、この図書館の明るさが三割減るぞ」

「静かになって助かる」

「トオルはほんと、朝から性格がいいよな」

「褒めてないだろ」

 ハルは笑った。

 その笑い声で、閲覧室の空気が少し軽くなる。葵はその瞬間が嫌いではなかった。白い世界の中で、ハルの笑い声だけは色を持っている気がした。

 彼はいつもそうだった。食料が少ない時も、外の霧が濃い時も、誰かの名前が薄くなっているのに気づいた時も、まず冗談を言った。その冗談が面白いかどうかは別として、少なくとも沈黙よりはましだった。

「ハル」

 葵は黒板を見ながら、もう一度呼んだ。

「はいはい。ここにいますよ」

 ハルが片手を上げる。

 その時だった。

 黒板の名前が、ひとつだけ揺らいだ。

 葵は瞬きをした。

 チョークの粉が落ちたのかと思った。古い黒板だから、書いた文字がかすれることは珍しくない。湿気の多い朝には線がにじむし、風で粉が落ちることもある。

 けれど、それとは違った。

 ハル。

 その二文字だけが、内側からほどけるように薄くなっていた。

 葵は黒板に近づいた。

「どうした?」

 ユウが気づく。

 葵は答えなかった。短くなったチョークを握り直し、ハルの名前の上からもう一度書いた。

 ハ。

 ル。

 確かに書けた。

 だが、チョークが黒板から離れた瞬間、文字の端が白く濁った。粉が水に溶けるように、線が崩れていく。

「葵?」

 ミオの声が硬くなる。

 葵は無言で、もう一度書いた。

 今度は強く。黒板に傷がつくほど力を込めた。チョークが折れ、指先に粉が食い込んだ。それでも書いた。

 ハル。

 書けたはずだった。

 しかし、黒板はその名前を拒むように、ゆっくりと白く吐き出した。

 閲覧室が静まり返った。

 誰も動かなかった。

 最初に口を開いたのはハルだった。

「……え、何。俺、朝から主役?」

 冗談めかした声だった。だが、語尾がわずかに震えていた。

 葵は振り向けなかった。

 黒板の上で、ハルの名前が消えていく。完全には消えない。けれど、他の九つの名前に比べて、明らかに薄い。誰かがそこだけ息を吹きかけ、存在を乾かしているようだった。

「もう一回」

 ユウが言った。

「別のもので書け」

 葵は頷き、机の引き出しから鉛筆を取り出した。黒板には書けない。だから紙に書く。古い貸出カードの裏に、ハル、と書いた。

 紙の上の黒鉛が、ひと呼吸遅れて滲んだ。

 墨を水に落としたように、輪郭が崩れる。そして、紙の白さに吸われるように消えた。

 ミオが息を呑む音が聞こえた。

「嘘でしょ」

 レイが立ち上がった。

「昨日の夜はあった。私、見た。寝る前に全員分、確認した。ハルの名前も、ちゃんと黒板にあった」

「俺も見た」

 ソラが窓際から離れる。

「朝の見回りの時、まだあったよ」

「いつからだ」

 トオルが低く言った。

「いつから薄くなってた」

「知らない」

 葵は答えた。

「今、気づいた」

「記録係だろ」

 トオルの声には苛立ちが混じっていた。

「名前を見る係だろ。なんで気づかないんだよ」

「トオル」

 ユウが制した。

「責めても戻らない」

「戻らないから聞いてるんだよ」

「やめろ」

 ユウの声が一段低くなる。

 トオルは口を閉じた。だが、その目は黒板に貼りついたままだった。

 コトが目を覚ました。

 大人たちが消えてから、コトは大きな声に敏感になった。誰かが言い争うと、すぐに泣きそうな顔になる。今も毛布の中から顔だけを出し、不安そうに周囲を見ていた。

「どうしたの」

 サエがすぐに寄り添った。

「何でもないよ」

「うそ」

「本当」

「ハルが、どうかしたの?」

 その問いに、誰もすぐには答えられなかった。

 ハルが笑った。

「いや、俺の名前がちょっと反抗期みたいでさ。黒板に居座るのが嫌になったらしい」

 コトは意味がわからないという顔をした。

「ハル、消えるの?」

 誰も笑わなかった。

 ハルの顔から、ゆっくりと冗談の色が引いていった。

「……消えないよ」

 彼は言った。

「俺、しぶといから」

 葵はその声を聞きながら、指先についた黒鉛を見ていた。粉は皮膚の溝に入り込み、黒く残っている。さっき書いた名前の跡だ。紙からは消えたのに、指には残っている。

 それがひどく不公平に思えた。

 名前は残らない。汚れだけが残る。

 午前中、彼らはできることをすべて試した。

 黒板に書く。紙に書く。壁に書く。床に指で書く。埃の上に書く。古い本の余白に書く。名札を作る。手の甲に書く。布に縫いつけようとする。

 どれも駄目だった。

 ハルの名前だけが、定着しない。

 それでも、ハル本人は消えていなかった。少なくとも、昼までは。

 彼はいつも通り動き、いつも通り喋った。倉庫から缶詰を運び、コトのために水を汲み、ソラと口論し、トオルに余計なことを言って怒られた。

 だが、少しずつ変化は現れた。

 最初に消えたのは、ハルの靴だった。

 午後、食料棚の整理を終えたハルが、足元を見て妙な顔をした。

「あれ」

「どうした」

 ユウが聞く。

「靴、片方ない」

 見ると、ハルは右足だけ裸足だった。左足には古い運動靴を履いている。右足には靴下だけが残っていた。

「脱いだんじゃないの」

 ミオが言った。

「いや、履いてた。絶対履いてた。さっき下の倉庫に行った時も履いてた」

「探そう」

 レイがすぐに立ち上がった。

 彼らは一階の倉庫、階段、閲覧室、廊下、児童書コーナー、返却カウンターの下まで探した。靴は見つからなかった。

 かわりに、ハルの寝床から缶バッジが消えていた。

 缶バッジは、彼が商店街の土産物屋から拾ってきたものだ。表面の絵はとっくに白化していたが、ハルは気に入っていた。丸くて軽くて、投げるとよく跳ねるからだと言っていた。

 昨日の夜まで、確かに毛布の端につけてあった。

 それが消えている。

「盗ったやつ、怒らないから出せよ」

 ハルはそう言った。

 誰も名乗り出なかった。

 怒らない、と言いながら、ハルの顔は青ざめていた。

 夕方には、彼の毛布の端が薄くなった。

 布そのものが透明になるのではない。見ていると、そこにあったはずのものを目が認識できなくなる。布の織り目がぼやけ、輪郭が床に溶け、気づくと何もなかったことになる。

 ハルは何度も笑おうとした。

「物が減ると、片づけが楽だな」

 誰も返事をしなかった。

 その沈黙のせいで、ハルはますます笑わなければならなくなったようだった。

 葵はそれが苦しかった。

 冗談を言うたびに、彼が少しずつ遠くなる。ハルの言葉はまだ聞こえるのに、その言葉が誰に属しているのか、世界のほうが忘れようとしている。

 日が沈む頃、ユウが全員を二階閲覧室に集めた。

 窓の外は白い夜だった。かつては夜になると暗くなったらしい。葵も、暗い夜の記憶を少しだけ持っている。けれど白化が進んでから、夜は黒くならなくなった。月明かりでも街灯でもない。空全体が薄い紙のように光っている。その光が町を平らにし、影を奪う。

 閲覧室の真ん中に、ハルを座らせた。

 囲むように、九人が座る。

 コトはサエの膝にしがみついていた。ソラは何度も窓の外を見る。トオルは腕を組み、床を睨んでいる。レイは膝の上に置いた紙に、全員の名前を何度も書いていた。ミオは葵の隣に座り、何も言わない。ユウは入口近くに立って、全員を見渡していた。

 ナオだけは少し離れた場所にいた。百科事典の棚の前。薄暗い顔で、ハルを見ている。

「朝まで、ハルの名前を呼ぶ」

 ユウが言った。

「交代で?」

 ソラが聞いた。

「全員でだ」

「全員でずっと?」

「そうだ」

 トオルが舌打ちした。

「寝たら終わりか」

「寝ない」

「子どもに言うことじゃないな」

「子どもしかいない」

 ユウの言葉に、誰も反論しなかった。

 葵はハルを見た。

 ハルは膝を抱え、所在なさそうに笑っていた。

「いや、そこまでしなくても」

「する」

 ユウが即答した。

「でも、明日みんな寝不足になるだろ。俺のせいで全滅とか、笑えないぞ」

「笑わせようとするな」

 ミオが言った。

 その声は、思っていたよりも強かった。

「今は、笑わなくていい」

 ハルは口を開きかけ、結局何も言わなかった。

 葵は息を吸った。

「ハル」

 最初に呼んだ。

 ハルが顔を上げる。

「ハル」

 ミオが続く。

「ハル」

 ユウ。

「ハル」

 サエ。

「ハル」

 ソラ。

「ハル」

 トオル。

「ハル」

 レイ。

「ハル」

 コト。

 少し遅れて、ナオが唇を動かした。

「……ハル」

 その声は小さかった。だが、確かに聞こえた。

 ハルは困ったように笑った。

「なんか、照れるな」

 誰も笑わない。

 名前を呼ぶ。

 それだけの夜が始まった。

 最初は、儀式のようだった。

 十人が輪になり、一人の名前を順番に呼ぶ。呼ばれたハルは、最初こそ返事をしていたが、やがて黙って聞くようになった。自分の名前を何度も聞かされることは、彼にとって不思議な苦痛でもあるようだった。

 ハル。

 ハル。

 ハル。

 名前は短い。

 たった二音しかない。

 それなのに、夜が深まるにつれ、その二音は重くなっていった。呼ぶたびに、喉の奥から何かを削り取られるような気がした。声がかすれる。口の中が乾く。眠気がまぶたに砂を積む。

 それでも、葵は呼び続けた。

 ハル。

 ハル。

 ハル。

 ハルは、ときどき目を閉じた。

 そのたび、全員の声が少し大きくなった。

「寝るなよ」

 トオルが言った。

「寝てない」

 ハルが目を開ける。

「目、閉じてただけだ」

「それを寝るって言うんだ」

「厳しいな」

「消えられると困る」

「心配してくれてる?」

「迷惑だって言ってる」

「はいはい」

 そんなやり取りでさえ、少し前なら笑えたはずだった。

 だが今は、誰も笑わなかった。

 真夜中を過ぎた頃、コトが泣き出した。

 声を上げて泣いたわけではない。目をこすり、唇を震わせ、必死に眠気と戦っていた。サエが肩を抱く。

「少し休ませた方が」

 サエが言うと、トオルがすぐに反応した。

「だめだろ。全員で呼ぶって決めた」

「でも、コトはまだ小さい」

「小さいからって、ハルが消えていいのか」

「そういう言い方しないで」

 ミオが低く言った。

「じゃあどう言えばいいんだよ」

 トオルの声が荒くなる。

「現実の話をしてるんだろ。誰かが呼ばなかったら、名前が薄くなる。そういうことなんだろ」

「まだ決まったわけじゃない」

「じゃあ何でハルの名前だけ消えかけてる」

 ミオは答えられなかった。

 コトが小さくしゃくり上げた。

「ごめんなさい」

 サエがコトを抱きしめる。

「謝らなくていい」

「ごめんなさい。眠い」

「いいの。大丈夫」

「だめだよ」

 トオルが言った。

「寝たらだめだ」

 ユウがトオルの肩を掴んだ。

「もういい」

「よくないだろ」

「俺が呼ぶ」

「一人分減る」

「その分、俺が呼ぶ」

「そんなので足りるのかよ」

「わからない」

 ユウは言った。

「でも、責めても声は増えない」

 沈黙が落ちた。

 葵はハルを見た。

 ハルはコトの方を見ていた。恐怖ではなく、申し訳なさそうな顔だった。自分のせいで小さな子が責められている。そう思っている顔だった。

「コト」

 ハルが言った。

「寝ていいよ」

 コトが目を見開く。

「だめ」

「いいよ。俺が許可する」

「でも」

「眠い時は寝る。これは人類の基本だから」

「ハルが」

「消えない」

 ハルは笑った。

「俺、朝になったらたぶん腹減ったって言ってるよ」

 その言葉が嘘だと、全員が知っていた。

 それでも、コトはもう限界だった。サエの腕の中で、何度かハルの名前を呼ぼうとした。けれど声にならない。唇だけが動く。

 やがて、小さな体から力が抜けた。

 コトは眠った。

 その瞬間、閲覧室の空気が変わった。

 目に見える変化ではない。だが、葵にはわかった。輪のどこかに小さな穴が空いた。そこから、ハルという名前がこぼれていく。

 葵は声を強めた。

「ハル」

 ミオも続いた。

「ハル」

「ハル」

「ハル」

「ハル」

 声が重なる。

 ハルの姿はまだそこにある。膝を抱え、困ったように笑い、眠ったコトを見ている。

 だが、少し遠い。

 手を伸ばせば届く距離にいるのに、透明な壁の向こうにいるようだった。

 葵は呼び続けた。

 ハル。

 ハル。

 ハル。

 どれくらい時間が経ったのかわからない。

 夜は薄く、長く、終わらなかった。

 白い光が窓から差し込み、黒板の文字をぼんやり照らしている。葵は何度も意識を手放しそうになった。そのたび、ミオが肘でつついた。葵もミオをつついた。ユウは立ったまま呼び続けていた。トオルは歯を食いしばり、声が割れていた。レイは泣いているのに、涙を拭こうとしなかった。サエは眠ったコトを抱えながら、何度も何度もハルの名前を呼んだ。

 ナオの声は、最後まで小さかった。

 けれど、一度も途切れなかった。

 やがて、窓の外がわずかに明るくなった。

 白い夜と白い朝の境目は曖昧だ。それでも、空気が少し冷え、遠くで鳥に似た音がした。鳥がまだいるのか、それとも壊れた信号機の音なのかはわからない。

 朝が来た。

 葵は目を開けた。

 最初に見えたのは、黒板だった。

 葵。ユウ。ミオ。サエ。ソラ。トオル。レイ。ナオ。コト。

 九つの名前。

 ハルの名前は、なかった。

 葵は息を止めた。

 次に、輪の中心を見た。

 ハルが座っていた場所には、誰もいなかった。

 床の上に、人の形をした白い跡だけが残っていた。

 それは灰ではなかった。埃でもない。触れれば消えてしまいそうな、薄い白さだった。膝を抱えた子どもの形。そこに、たしかに誰かがいたという輪郭。

 ミオが口元を押さえた。

 レイが小さく悲鳴を上げた。

 サエはコトを抱いたまま、声を失っていた。

 ユウは一歩近づき、そこで止まった。手を伸ばせば触れられる距離だった。だが、触れなかった。触れたら最後の跡まで壊してしまうと、誰もがわかっていた。

 トオルが床に拳を叩きつけた。

「なんでだよ」

 誰も答えない。

「呼んだだろ。ずっと呼んだだろ」

 その声は怒りよりも、恐怖に近かった。

「なんで足りないんだよ」

 葵は喉を押さえた。

 痛かった。夜通し声を出したせいで、声帯が焼けるようだった。けれど、それ以上に痛い場所があった。

 頭の奥だ。

 何かが抜け落ちようとしている。

 ハルの笑い声。

 寝癖。

 缶バッジ。

 右足の靴。

 くだらない冗談。

 俺の声がなくなったら、この図書館の明るさが三割減るぞ。

 忘れたくない。

 葵は必死に思った。

 忘れたくない。

 忘れたくない。

 忘れたくない。

「ハル」

 声に出した。

 その名前は、まだ言えた。

 けれど、言った瞬間、周囲の何かが揺れた。ミオが顔を上げる。レイが瞬きをする。ソラが首をかしげる。

「……今」

 ソラが言った。

「誰のこと、呼んだ?」

 葵はソラを見た。

「ハル」

 もう一度言った。

「ハルだよ。今、ここにいた」

 ソラは困ったように眉を寄せた。

「わかってる。わかってるんだけど」

「何」

「どんな顔だったっけ」

 閲覧室の空気が凍った。

 葵はミオを見た。ミオは唇を噛んでいる。レイは紙に何かを書こうとしていたが、手が止まっていた。ユウは床の白い跡を見つめたまま、動かない。

 トオルが言った。

「笑ってた」

「どんなふうに」

 ソラが聞く。

「知らない」

「知らないって」

「知らないんだよ」

 トオルの声が震えた。

「覚えてるのに、思い出せないんだよ」

 サエがコトを抱く腕に力を込めた。

 コトはまだ眠っていた。小さな寝息を立てている。その寝顔だけが、世界の残酷さを知らないように穏やかだった。

 葵は床に膝をついた。

 白い跡の前で、指を伸ばす。

「触るな」

 ユウが言った。

「わかってる」

 葵は指を止めた。

 あと数センチの距離。

 それ以上近づけない。

 ハルがいた。確かにいた。昨日までここで笑っていた。葵の中にはまだ残っている。けれど、それは彼女一人の中だけに閉じ込められようとしていた。

 このままでは、ハルは二度消える。

 一度目は世界から。

 二度目は、みんなの記憶から。

 葵は立ち上がり、黒板へ向かった。

 指先は震えていた。チョークを握る。白い粉が爪の間に入り込む。

 黒板の空いた場所に、彼女は書こうとした。

 ハル。

 だが、書けなかった。

 一画目が、黒板の上で崩れる。

 葵はもう一度書いた。

 また崩れた。

 何度も書いた。

 何度書いても、文字は定着しなかった。

 それでも葵はやめなかった。チョークが短くなり、爪が黒板に当たった。嫌な音がした。誰かが名前を呼んだ気がした。自分の名前か、ハルの名前か、わからなかった。

「葵」

 ミオが背後から言った。

「もう」

「まだ」

「葵」

「まだ覚えてる」

 葵は振り向かなかった。

「私だけでも覚えてる」

 黒板に、白い粉が積もっていく。書けない名前の残骸だった。

 その時、黒板の端に、文字が浮かんだ。

 葵が書いたものではない。

 白いチョークでも、黒鉛でも、絵の具でもない。黒板そのものの表面が剥がれ、下から古い傷のような線が現れていく。

 ユウが息を呑んだ。

 ミオが葵の肩を掴んだ。

 全員が黒板を見た。

 そこには、昨日までなかった文字が浮かんでいた。

 次は、忘れた者から消える。

 誰も声を出さなかった。

 白い朝が、廃図書館の窓から差し込んでいた。

 黒板には九人の名前が残っている。

 葵。ユウ。ミオ。サエ。ソラ。トオル。レイ。ナオ。コト。

 そして、書けなかったひとつの名前の跡。

 葵は、乾いた喉で小さく呟いた。

「ハル」

 その声だけが、かろうじて、まだ世界に残っていた。



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