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名前を失くした少年たち―指でなぞれば消える世界で、私たちは互いの名を呼ぶ。それだけが、生きていた証だった。  作者: 妙原奇天


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第2話 堤防ランナー

 夜明けが、海の端でひび割れていた。

 水平線の向こうから吹く風は冷たく、塩を含んで喉を刺す。

 ユウは堤防を走っていた。靴底がひび割れたコンクリートを叩き、乾いた音を響かせる。潮の匂いが強く、息を吸うたびに肺が痛む。


 走るのは、習慣だ。

 走りながら、仲間の名前を呼ぶ。

 呼ばない時間が長くなると、その人の顔が曖昧になる。

 だから、走る間はずっと、心の中で名前を唱える。


 「葵、ミオ、ハル、サエ、ソラ、トオル、レイ、ナオ……」


 声に出さず、喉の奥で転がす。

 音にならない呼びかけ。それでも、彼の中では確かに響いている。

 名前を呼ぶたびに、頭の中に小さな火が灯る。

 それが消えないうちに、次の名を呼ぶ。

 それを繰り返していると、まるで世界がまだ続いているような錯覚に包まれる。


 堤防の外側、荒れた外海には監視ブイが並んでいた。

 内海側の干潟では、錆びた自転車が半ば沈んでいる。

 風が吹くたび、海面がざらりと逆立ち、光の粒が散った。


 ユウは振り返らない。

 背後には、あの“ノイズ”がある。

 ドローンの羽音と、金属の軋むような微音。

 それを聞けば、自分が監視されているとわかる。

 けれど、立ち止まったら負けだ。

 名前を呼び続けることが、自分の“盾”になる。

 走り続ける限り、名は途切れない。


 息が荒くなり、喉が焼けたように痛む。

 それでも走る。走っていれば、恐怖が追いつけない。

 昨日、コトが“空白”になった。

 誰もその名を呼べなくなったあの朝から、ユウは眠れなかった。

 だから、走っている。

 思考を、足音で押し流すように。


 堤防の端を過ぎたあたりで、空気がわずかに揺れた。

 ユウは足を止めた。

 風の音とは違う。もっと人工的な“圧”が頬を撫でる。

 背後で光が滲む。

 ドローンだ。


 黒い球体が、朝焼けの中に浮かんでいる。

 高度を落とし、ユウの歩幅に合わせて滑るように移動してくる。

 警告サイレンは鳴らさない。ただ、無音の威圧だけを放っている。

 音がないのに、鼓膜が震える。

 それが恐ろしい。


 ユウは廃倉庫へ駆け込み、鉄扉の陰に身を隠した。

 心臓の鼓動が喉の奥で鳴る。

 外の光が壁を舐め、床にかすかな影を落とす。

 その瞬間、ユウは思った。

 ――自分は、本当に“ユウ”と呼ばれるに値するのか。


 その名は、仲間がくれたものだ。

 自分自身で選んだわけじゃない。

 誰かの記憶から削がれた名を、たまたま借りただけかもしれない。

 葵が名簿に縫い留めた“ユウ”という文字は、果たして自分を指しているのか。


 鉄の扉の外、光が近づく。

 呼吸を殺す。

 だが、次の瞬間、扉の隙間から光が差し込み、ユウの腕に触れた。

 熱い。

 焼けるような痛み。

 皮膚が焦げる匂いが立ちのぼり、QR状の痕が浮かび上がる。


 歯を食いしばり、ユウは外に飛び出した。

 光の方向を見ずに走る。

腕が焼ける痛みを無視して、風を切る。

 照射された痕は、照合しても登録されない“空白のタグ”。

 それは、存在を否定された印。

 だが、そんなものに屈するわけにはいかない。


 彼は走る。

 潮風の中を。

 廃市場まで。


 瓦礫と錆の匂いが漂う市場の奥で、ユウは食料を探した。

 棚の上には、ホコリをかぶった缶詰。

 ラベルには黒い線が引かれ、製造元の名前が消されている。

 ユウは指先で線をなぞった。

 「名を消すために、名を印刷している」

 その矛盾が、可笑しくて、悲しかった。


 隅の箱から、古い針と麻糸、そしてパンチカードの束を見つけた。

 穴だらけのカードには、かすかに数字の跡が残っている。

 それを抱えて外に出ようとしたとき、声がした。


 「痛むだろう」


 堤防の下に、老人が座っていた。

 ボロボロのコートを着て、潮水の瓶を手にしている。

 ユウの腕を見て、老人は瓶を差し出した。

 「塩は文字を守る。これを持っていけ」


 信じる理由はなかった。

 だが、瓶の中の海水は、どこか懐かしい色をしていた。

 ユウは無言で受け取り、糸とカード束を濡らさないように抱え直した。

 「ありがとう」と言おうとしたが、声が出なかった。

 喉がざらつき、言葉が音にならない。


 帰路、再びノイズが襲った。

 背後から吹き抜けるような無声の圧。

 ドローンがつけてきている。

 喉の奥に金属片を押し込まれたような感覚。

 声を出そうとしても、濁った息しか出ない。


 「葵……ミオ……」


 名前を呼ぼうとしても、音が絡まる。

 空気が喉の奥で跳ね返る。

 恐怖に押し潰されそうになる。

 ユウは最後の力で、自分の名だけを呼んだ。


 「ユウ!」


 痛みが喉を裂いた。

 声が出たのかさえ、わからない。

 けれど、次の瞬間、ドローンの音が遠ざかった。

 代わりに、世界の音が戻ってくる。波、風、呼吸。

 それだけで、生きていると感じた。


 堤防を越え、白罫区の境界線が見えた。

 白いスプレーで引かれた線。

 越境防止の立て札には、何も書かれていない。

 “無文字の警告”。

 足元の舗装から、微弱な電流が伝わってくる。

 越えれば、記録の側に戻れるかもしれない――

 そう思った瞬間、胸の奥が熱くなった。


 だが、ユウは知っていた。

 戻るということは、誰かを押し出すことだ。

 自分が登録される代わりに、誰かの名が消えるかもしれない。

 ユウはポケットから紙片を取り出した。

 葵が縫い留めてくれた、自分の名の写し。

 糸の感触が指先に伝わる。

 “ここにいる”という証。

 それを撫でると、越境の衝動がゆっくりと鎮まった。


 堤防を戻る途中、風が強まった。

 空が灰色に濁り、ドローンの影が海上を横切る。

 ユウは瓶を胸に抱き、走った。

 帰らなければ。

 誰かに名前を呼ばれなければ、自分が薄れてしまう。


 図書館に戻ると、葵たちが待っていた。

 葵、ミオ、サエ、トオル。

 彼らの顔を見るだけで、世界が少しだけ明るくなる気がした。


 「遅かったじゃない」

 葵が言う。

 ユウは肩で息をしながら、塩の瓶とパンチカード束を差し出した。

 「これ……役に立つかも」


 袖を引き下げようとしたが、葵の目がそれを止めた。

 「見せて」

 抵抗する間もなく、袖がめくられる。

 焼けた痕が露わになった。QRの模様。

 サエが息を呑む。

 ミオは手を伸ばしかけて、止めた。


 葵は黙って糸箱を開けた。

 そして、自分の名簿のページから、ひと画を切り取った。

 糸を針に通し、ユウの名の文字に重ねる。

 「何してるんだ」

 「分けてるの。あなたの名に、私の名を」


 糸が重なる瞬間、喉の奥で詰まっていたものがほどけるような感覚があった。

 サエが低くハミングを始め、ミオがユウの喉に手を添える。

 トオルはカード束の端に数字で“ユウ”と記す。

 四人の動きが重なり、静かな調和が生まれた。


 ユウの胸の奥で、何かが戻ってくる。

 言葉の輪郭。

 名前の温度。

 誰かに呼ばれることの重み。

 それが、胸の痛みと一緒に息へと変わった。


 「……ありがとう」

 小さく声に出すと、葵が微笑んだ。

 その微笑みが、何よりの報酬だった。

 だが、ユウは気づく。

 葵の指先から、糸の端が一筋、薄れている。

 彼女は、自分の一部を削って、ユウを繋ぎとめたのだ。

 そのことが、何よりも怖かった。

 守られている負い目が、胸の奥に沈んでいく。


 夕暮れ。

 点呼の時間が来た。

 全員が輪になって、名前を呼び合う。

 呼びの声が重なり、糸のページが揺れる。

 だが、一つだけ、返事がない。


 空席が一つ。

 前話で消えた“空白”のまま、そこだけ風が通り抜ける。

 誰の席だったのか、誰も言えない。

 葵は名簿を開いた。

 糸を確かめる。

 だが、そこには穴だけが残っていた。

 糸は存在しなかったかのように、紙の繊維がえぐれている。


 トオルが帳簿をめくる。

 該当行は、墨で煤けて判読できない。

 サエが喉を押さえ、声にならない音で“誰か”の名を呼ぼうとする。

 唇の形だけが残る。

 音が出ない。


 「言えない音を、数えよう」

 トオルが呟いた。

 ハルが頷く。

 「譜面にできるかもしれない。言えない音を“休符”として書くんだ」


 それが、彼らの次の希望になった。

 言葉が消えるなら、音で残せばいい。

 名を呼べないなら、沈黙そのものを記録に変えればいい。


 窓の外で、海が赤く染まりはじめる。

 夕陽が糸の文字を照らし、血のように輝いた。

 ユウは静かに拳を握った。

 次に消えるのが誰であっても、もう目を背けない。

 その決意だけが、彼を前に進ませた。

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