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名前を失くした少年たち―指でなぞれば消える世界で、私たちは互いの名を呼ぶ。それだけが、生きていた証だった。  作者: 妙原奇天


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第1話 白罫区の名簿

 雨音が、屋根の穴を叩いていた。

 ぽつり、ぽつり。等間隔の音が、まるで誰かの名前を読んでいるように聞こえる。


 葵は古びた机に腰を下ろし、白い罫線の紙を一枚ひき抜いた。

 鉛筆の芯を削ると、細い灰色の粉が机に落ちる。その粉も、いずれ名前のように消えるのだと思うと、胸が少し痛んだ。


 「ユウ、ミオ、ハル、サエ、ソラ、トオル、レイ、ナオ――」


 葵は一行ずつ、名前を記していく。

 文字の端に針で小さく穴を開け、紙を破かないように慎重に縫い留めていく。針が紙を貫くたび、手のひらに微かな痛みが走った。それが、彼らがまだ“ここにいる”という証拠のように思えた。


 この廃図書館は、沿岸特区〈白罫区〉の外れにある。

 すでに行政は撤退し、建物の看板には黒いスプレーで「棲み場」とだけ書かれている。

 葵たち九人は、ここを拠点に暮らしていた。


 開架の棚は空っぽで、貸出カードの罫線だけが無数に並ぶ。

 古い紙の匂いと潮の香りが混ざるこの場所で、葵は毎朝、名簿を書く。それが日課であり、祈りでもあった。


 外では波が砕け、風が割れた窓から吹き込む。

 天井の雨漏りの跡は、誰かの涙のように広がっていた。


 「……今日も、書けた」


 葵は鉛筆を置き、指先に残ったインクと血のにおいを嗅いだ。

 指先が少し赤いのは、昨夜の“縫い留め”のせいだ。糸で文字を縫う作業は、思っていたよりも痛かった。けれど、痛みを伴わなければ、名前はすぐに薄れてしまうのだ。


 背後で布をめくる音がした。

 振り返ると、ミオが寝袋から顔を出していた。


 「また朝から書いてるの? 葵、手……」

 「平気。昨日より、ちゃんと縫えたから」

 「でも、そんなに強く刺したら、血が……」

 「血が残るとね、文字が消えにくいの。乾いたら、塩が紙を守るのよ」


 ミオは黙った。

 その沈黙の奥には、理解と恐怖が混ざっていた。

 この町では、“名前”がすべてだった。

 名を呼ばれなければ、存在は薄れ、やがて誰の記憶からも消えてしまう。


 「そろそろ、呼びの時間だよ」

 ミオの声に、葵はうなずいた。


 朝の点呼。

 図書館の中央に集まり、全員が輪になって立つ。

 最年少のコトが、眠そうに目をこすっている。


 サエが短いメロディを口ずさむ。

 合図だ。

 呼びの儀式が始まる。


 「ユウ!」

 「はい!」

 「ミオ!」

 「ここ!」

 「ハル!」

 「いる!」


 呼ばれるたびに、それぞれの声が輪郭を取り戻していく。

 返事が遅れた者は、声が薄く、影がぼやける。

 そのたび皆が一斉に名を重ねて呼び、声の濃度を戻す。


 「コト!」

 「……」

 「コト!」

 「コト!」

 「コト!」


 何度も名前を呼ぶ。

 そのたびに、眠たげな顔が少しずつ色を取り戻していく。

 やがてコトが、照れくさそうに笑って「はい」と返した。

 その瞬間、葵の胸の奥にも小さな光が灯った気がした。


 それが、彼らの日常だった。

 名前を呼び、返事をして、生きていることを確かめ合う。

 ただそれだけで、今日をつなぐことができた。


 だが、その平穏は、長くは続かなかった。


 昼過ぎ、外からユウが駆け込んできた。

 「港のほうで、事故だ。足場が崩れて……リクが……」


 葵の手が止まった。

 リク。隣のバラックでよく顔を合わせていた少年だ。

 配給の列で冗談を言っては、皆を笑わせていた。


 「……死んだの?」

 ユウは無言でうなずいた。


 その夜、葵たちはバラックに向かった。

 粗末な通夜だった。

 木箱の上に白い布がかけられ、周囲には紙片が貼られている。

 大人たちは、リクの名を墨で書いて壁に並べていた。

 だが、その文字は、乾く前にじわりと滲み、翌朝には灰色に退色していた。


 そして朝。

 誰かが「リク」と呼ぼうとした。

 だが、口を開いた瞬間、喉が空回りした。

 舌が動いても、音が出ない。

 唇の形だけが宙に残り、空気がすり抜けていく。


 「……言えないの?」


 ミオが青ざめた声でつぶやいた。

 ハルは手元のノートをめくり、リクの名前を探す。

 そこには、鉛筆で書いた“リク”の文字が、うっすらと消えかけていた。


 葵は震える指で、その上をなぞった。

 だが、触れた瞬間、文字が粉のように剥がれ落ちた。


 「やめて!」

 ミオが叫ぶ。

 だが、葵は止まらない。

 強くなぞれば、戻るかもしれないと思った。

 しかし、なぞった部分はますます薄くなり、ついには紙が破れた。


 静寂が降りた。

 “死んだ人の名前は、発音できなくなる”。

 そして紙からも消える。

 その恐怖が、みんなの顔を一瞬で曇らせた。


 夜。

 サエはギターを抱え、リクの名を歌詞にした。

 けれど、彼の名を口にする部分だけ、音が抜け落ちる。

 旋律が不自然に途切れ、空白だけが響く。

 不協和音が夜気に滲んだ。


 トオルは帳簿に“リク”の別称を赤で記した。

 “リクりん”。

 幼い頃のあだ名だ。

 奇妙なことに、その赤い文字だけは残った。


 「……公の名は消えても、愛称なら残るのかも」

 ミオがつぶやいた。


 けれど、レイは首を振った。

 「本名を捨てたら、“彼”じゃなくなる。私たちは本当の彼を失う」


 その夜、風の音の中に、かすかなノイズが混ざった。

 ジジ……という低い振動。

 ハルが外をのぞくと、夜空に小さな光点が漂っていた。

 ドローンだ。

 行政局の巡回機。

 葵たちは息を潜めた。

 天井をなぞるように光が動き、やがて離れていった。


 「また監視してるのね」

 ミオが小声で言う。

 ハルは古い端末を取り出し、データを見せた。

 「白罫区のデータベースには、毎晩三時に自動修正のログが残ってた。生存価値指標っていう項目で、従順度とか健康値をもとに“整形”されてたみたいだ。今は遮断されてるはずなのに、何かがまだ動いてる」


 葵は、さきほど聞こえたノイズを思い出した。

 “名を薄める音”。

 もしかすると、それがドローンから流されているのかもしれない。


 「知らないほうが名を守れる」

 レイの言葉に、誰も反論できなかった。

 知ることは、消えることと隣り合わせだった。


 翌朝。

 コトの返事がなかった。


 寝床をのぞくと、顔が赤く、息が浅い。

 「コト!」

 返事はない。

 「コト!」

 口が開くが、音が出ない。

 葵の喉の奥が冷たくなった。

 “ト”の音が、出ない。


 ミオがそっとコトの手を握った。

 「コト、ねえ、起きて。……“ことちゃん”」


 その幼い愛称を呼んだ瞬間、コトの瞼がわずかに震えた。

 サエはその名を歌に混ぜ、トオルは帳簿に赤字で“ことちゃん”と追記した。

 小さな声が輪を作り、空気がわずかに揺れた。


 「愛称は、公称よりも強い……?」

 ミオの呟きに、レイが低く返した。

 「でも、逃げてるだけ。呼び方を変えても、彼女の“本当”は守れない」


 みんなの間に、静かな亀裂が走った。

 葵はその中心で立ちすくんだ。

 どちらが正しいのか、わからない。

 ただ、コトの頬を見つめながら、葵は手のひらを見た。

 血の跡が薄くなっている。

 紙の文字のように、彼女自身の“名”も薄れていくような感覚があった。


 その夜、葵はひとりで作業机に戻った。

 鉛筆では足りない。

 紙では留まらない。


 古い手芸箱を開け、針と糸を取り出す。

 ページの端に小穴を開け、文字の骨格を縫う。

 糸の感触が指に食い込み、細い血がにじむ。

 だが、その痛みの中で、葵は確信した。

 これなら、名を“固定”できる。


 ミオが背後で見守っていた。

 「痛くないの?」

 「痛い。でも、痛いほうが消えない」

 「どうしてそんな……」

 「名は、私たちの体だから」


 やがて、皆が手伝い始めた。

 サエは糸のテンポに合わせて息を整え、トオルは縫い図を帳簿に写した。

 小さな明かりの下、九人の影が揺れながら、ひとつの作業に集中した。

 最初に縫われたのは、ユウの名。

 次に、コトの幼名。


 翌朝、糸文字は鉛筆よりも濃く残っていた。

 葵は胸の奥で、小さく息を吐いた。

 成功だ。

 けれど、指先の血が乾いたとき、ページには赤い斑点が広がっていた。

 血の塩気が、偶然にも文字の退色を遅らせている――

 そのことに気づいたのは、ソラが潮風を運んできた瞬間だった。


 夜、再びドローンが窓を照らした。

 ユウが棒を掴んで追い払おうとしたが、光線が彼の腕に焼き付いた。

 QR状の焼痕。

 “照合されない者”の印。


 葵はユウの名を縫い直し、自分の名の一画を切り取って重ねた。

 ユウの名は濃くなったが、葵の名の一部が薄れた。

 彼女はそのことを誰にも言わず、名簿のカバー裏に残りの一画を縫い込んだ。

 ――いつか私は、完全に読めなくなる。

 そんな予感を胸の奥にしまい込みながら。


 ハルが地下の資料室で地図を見つけたのは、その夜だった。

 古びた紙の端に赤ペンで“人口管理試験地区”と記されていた。

 白罫区は、“消去処理の効果検証”区域。

 説明文には「音声干渉による記名の退色」という言葉が走り書きされていた。


 「これ、見せていいの?」

 ハルが問う。

 葵は短く答えた。

 「今夜はまだ言わない。……希望が壊れちゃうから」


 明け方。

 点呼の時間。

 皆で名を呼び合う。

 糸文字の効果で、返事は軽やかに返ってきた。

 けれど、途中で違和感が走った。


 誰かの名が、抜けている。

 しかし、誰がいないのか、誰も思い出せない。


 顔を見回す。

 空席を見つめる。

 そこには、最初から“誰もいなかった”ような静けさがあった。


 葵の手元の糸がほどけていた。

 慌てて押さえると、ぬるりと指先をすべった。

 その糸の先に、小さな一画が絡まっている。

 ――“ト”。


 葵は凍りついた。

 ページの下で、コトの手が冷たくなっていた。

 ミオが声を震わせて名を呼ぶ。

 けれど、音が出ない。

 「言えない……」


 空気が軋む。

 誰もが、喉の奥で言葉を失った。

 世界のどこかで、また誰かの“名”が削除されたのだ。


 葵はただ、糸の端を握りしめた。

 “名を縫う”ことが、祈りであり、呪いでもあると悟りながら。

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