第十五章 博士と翻訳者と夜の約束
政府庁舎での大騒ぎから一日。
直樹はホテルの部屋でベッドに沈み込み、天井をぼんやりと眺めていた。
机の上には「ジャカルタ総合プロジェクト」と書かれた分厚い資料の控え。
見るだけで胃が痛む代物だ。
「……帰りたかったんだよなぁ」
誰にともなくつぶやいた声は、すぐに枕に吸い込まれていった。
――
コンコン、とノックの音。
ドアを開けると、アユが食事の載ったトレーを持って立っていた。
「博士、顔色が悪いです。少しは食べないと」
彼女は無駄のない仕草でテーブルに皿を並べていく。
直樹は起き上がり、ため息をついた。
「俺、本当は……帰るつもりだったんだ。
総務部で書類整理してただけの人間が、こんな大役……無理に決まってる」
アユは黙って直樹を見つめていたが、やがて口を開いた。
「博士が来てから、村の人たちは笑うようになりました。
政府の人も、環境の未来を真剣に考え始めた。
そして私も……博士が来て、少し変わりました」
直樹は思わず噴き出した。
「俺なんかで変わるわけないだろ。胃薬飲んでる姿しか見せてないのに」
「でも、変わりました」
アユの瞳は真剣で、からかう色は一切なかった。
直樹は視線を逸らし、窓の外の夜景に目を向けた。
ジャカルタの街明かりが、海ににじんで揺れていた。
「……俺、逃げてもいいかな」
小さく呟いた言葉に、アユは首を横に振った。
「逃げてもいい。でも……逃げないで欲しい」
その声は柔らかく、けれどどこか切実だった。
直樹は返事に詰まり、ただうなずくことしかできなかった。
窓の外で、遠くに花火が上がった。
音は届かず、光だけが夜空を彩る。
二人の間にはまだ距離があったが、それを縮めるのに言葉はいらなかった。




