蠢く種子1
「ただいま」
滅多に使うことのない言葉は、少しだけ弾んだ調子だった。
メアリにしては珍しい感情の開き方。
ただ、根が引きこもりである彼女が、二カ月ぶりに自分の屋敷、それも自分の執務室に帰って来たとなれば、気分が浮き立つのも当然のことだ。
さらにメアリの気分を上向かせるのは、その執務室で待っているのが、自分と最も付き合いの長い身内であり、最も信頼する部下である。
こんなに彼女と離れていた記憶はない。
その期間、率直に言えば、メアリお嬢様は寂しかった。
ちょっと。
いや結構。
いやかなり。
故に、カミラが留守を預かっている執務室のドアを開けた時、メアリは自分でも思った以上に華やいだ声をかけてしまった。
カミラも、自分に会えなくて寂しがっているはずだ。
恐らく。
いや絶対。
いやとても。
だから、メアリお嬢様は、カミラの喜んだ顔と声を期待した。
ところが、メアリの挨拶が消えた執務室は、無音に包まれた。
これはどうしたことか。メアリは疑問に思うより先に、見て察した。
「あら、カミラったら……干からびているわ」
普段はメアリが使う椅子に座っているお嬢様随一の腹心は、天井を仰ぐように背をもたれたまま、さっぱり動かない。
というより、動ける状態には見えなかった。
メアリが口にした通り、干からびているのだ。
その肌や髪から水分が抜けて渇き、アンナが警戒しつつ賞賛するほどの美女っぷりは、枯死という現象に拭い去られてしまっている。
「もう、しょうがないわね、カミラったら。せっかく私がお土産を持って帰って来てあげたのに、こんな悲しい出迎えをするなんて」
メアリお嬢様は、困った顔になって首を振る。
その後ろから、メアリが壁になって状況が見えていなかった少女がそろりと顔を覗かせる。
警戒心の強い小動物を思わせるそれは、デジデリア・スヴェーリアのものだ。セスの友人である彼女は、メアリの魔手にさらわれて、無事、地獄に近い場所にいる。
ウェールズ家に染まっていない、たっぷりの純粋さを残したデジデリアの目が、椅子で朽ち果てている美女のなれの果てを見つけ、当然驚いた。
「ひっ!? し、死んでる!?」
〝なんで〟と〝なにが〟が足先から頭部までを占有し、恐怖としてデジデリアの顔に浮かび上がる。
ここは貴族家当主のお膝元、その最深部と言っていいような場所で、死体が発見されるなんて、それも異常な死体が発見されるなんて、普通はありえない。
それなのになんでこんなこと、なにが起こっているのか。
なんて恐ろしい場所に自分は来てしまったのか。
その恐ろしい場所の、恐ろしい主であるところのメアリは、平静な声にかすかな愉快さを含ませ、デジデリアの言葉を訂正した。
「あれでも死んでいないから、心配しないで頂戴」
「へえ!? で、ですが、あの、死んでいるようにしか、見えませんけど……?」
「単にお酒が飲めなくて、ちょっと不貞腐れているだけよ」
メアリが手振りで指示を出すと、とてとてと白い侍女が前に出て来る。
その手には、お酒の瓶がしっかりと保持されている。カミラに飲ませてあげようと、優しいメアリお嬢様が入手したお土産の一つだ。
「それをカミラに飲ませてあげなさい」
ジャンヌは、主人の命令に頷いた。
カミラの異様な有様にも物怖じせず、酒瓶のフタを開けながら近づき、うんしょと掛け声と共に背伸びをする。
そこから、メアリの筆頭侍女は忠実に命令を実行した。
酒瓶を逆さにして、カミラの口の中に中身を落としたのだ。
デジデリアが小さく声をあげたのは、無造作に扱われた酒瓶の中身が、王都ではコレクターが欲しがる銘酒であることがわかってしまったから。
財務畑の人間であるデジデリアが知っている程度には、財産的な価値がある。
間違っても、あのように雑に扱うべきものではない。
そして、そんな銘酒が流し込まれた先も、そのことにはすぐに気づいたようだ。
「がぼごぼがば!?」
蘇生音は酒に溺れていた。
しわしわだった枯れ死体が、びくんと跳ねたかと思ったら、乾いた手がジャンヌの手から酒瓶を奪い取って垂れ流しを止めさせる。
「こんな良い酒を雑に飲ませるのだけはやめてくんない!?」
銘酒を無駄にされちゃ死んでなんかいられねえ、とばかりの勢いで、さっきまで死体だった酒好きが吠えた。
「っとにもう! こんなところでなに遊んでんだとか、なに死んでんだって蹴っ飛ばされた方がましだよ、これじゃあ! ああ、喉から返って来る香りでさえ美味い! こんな上等な酒を何口分も味わわないで飲んじまうなんて! 悲劇だ、悲劇!」
口の端から垂れた銘酒を慌てて拭い、拭った手を舐めてもったいないと涙目になる。
涙目になるくらいの水分が、その全身に戻っていた。あっという間のことだ。
「ほら、死んでいないでしょう?」
メアリは、自分の背中に隠れて脅えているデジデリアに頷いてみせる。
だから恐くない、とでも言いたげな優しい声もつけて。
それに対し、デジデリアは常識的な反応を返した。
「ひえぇ……っ」
ウェールズ家の非常識っぷりに、思い切り脅え、思い切り引いたのである。
予想していた反応と違うわ、とメアリは首を傾げて不思議がる。シチューを作ろうとしたのに、真っ黒な炭を生み出ししまったかのような顔だ。
ジャンヌはそんな主人を一旦置いて、カミラのために執務室にしまってあるグラスを取りに動く。
それが、公爵家での修行を経たジャンヌの考える、侍女っぽいムーブだからだ。
カミラは成長した侍女がグラスを届けるより早く、瓶に直接口をつけて飲み、土産の味わいのよさに気分をよくし、その分だけ無粋な飲まされ方をしたことに絶望するなど忙しい。
メアリの屋敷に、ウェールズ家の日常が帰って来たことを知らせる光景だ。
遠くへ行ってしまった主人を、待つばかりだった屋敷付きの侍女達が、堪えかねてそっと口元を抑える。
やっぱこの主人達はおもしれえわ、と笑いの衝動に頬が今にも破裂しそうなほど膨れさせながら。
ひとしきり、皆が満足するまで、ウェールズ家の日常は展開された。
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「それで? あたしへの土産はこの酒だけか?」
ジャンヌから渡されたグラスに手酌をしながら、カミラが尋ねる。
「もっとあるわよ、お酒。あなたに一瓶だけプレゼントしても、一日ももたないじゃない」
「久しぶりの酒だから一時間で終わりそうだぞ。まあ、酒は嬉しいし大事だし超嬉しいし超大事だけど……それ以外は?」
カミラが、グラスの酒から目を離して、ちらりとデジデリアを見る。
「この子は違うわよ。カミラへのお土産ではないわ。わたしのだから」
メアリがそう宣言しながらデジデリアの肩を抱くと、抱かれた方は肉食獣の爪で抑えつけられた小動物のように身をこわばらせる。
良い反応だ。カミラは頷く。
メアリが気に入るのも無理はない。捕らえたネズミで遊ぶ、ネコのようなところがメアリにはある。
ほとんど第一印象だが、デジデリアはメアリが玩具にするのにぴったりに見える。
「まあ、その子がメアリのものなのはわかったけど? それじゃ、あたしが頼んでた人材は?」
「中央で探しても、カミラの補佐を任せられるほどの人物は中々いなくてね。仕方がないから、わたしのものを貸してあげるわ」
メアリは、仕方なさそうにデジデリアの肩を叩いて示す。
結局、カミラが最初に考えた通り、デジデリアもお土産だったのだ。
最初からそう言えばいいものを、とカミラは肩をすくめる。
ひょっとしたら、久しぶりに会ったから、悪戯をして色々と反応を見たいのかもしれない。そう思いつくと、にやにやしてしまう。
「なに? ずいぶんと機嫌がよさそうに笑うわね?」
「いや、久しぶりに見るメアリは可愛いなと思って」
「当然でしょう。その手の褒め言葉は、常にわたしと共にあるのよ」
褒め言葉は、間髪入れずに受け入れられた。自信の塊であるメアリは、確かに美しく、可愛く見えた。
ただし、お土産扱いされたデジデリアは、ウェールズ家に蔓延する毒っ気にやられる寸前である。
「あの……わた、私のお仕事は、こちらの、カミラ、さんの……?」
そうよ、とメアリが肩を抱いたまま頷く。
「わたしが王都で中央関係の折衝をしている間、西部の統括をカミラに任せていたのよ。それがかなり大変だって言うから、デリアにはその補佐から始めてもらうわ」
「酒精が体の中からなくなるくらい大変だったぜぇ……」
酒を飲む暇もなかった、とカミラは言いたいらしい。
先程いきなり干からびていたのは、大量の仕事を押しつけられたことに対する、ちょっとした抗議である。
寄生している魔法植物を使っての死んだふりは、メアリ配下ならよく見る遊びだ。心臓の音がしない、くらいは皆できる。
「仕方ないでしょう。ウェールズ家当主が出張らないと、片付かない用件が中央に山ほどあったのだもの。これでも、アンナを先に派遣して事前交渉していたから、離れる期間は最小限にしたのよ?」
「それにしたって、目を配らなきゃいけない範囲が広すぎだよ。バロミの爺様やルイとか、とにかく使えそうな奴に片っ端から仕事を押しつけたけど、西部の三分の二の面倒を見るにはとにかく人手が足りない」
そうでしょうね、とメアリは薄く笑う。
中央に行く前、セスと組んで、盛大にやったおかげだ。
メアリに反抗的な領主に難癖をつけて追い出し、その領地を抑えた。難癖をつけやすかっただけあり、どれも能力の低い領主だ。
低能に比例して領地の被害は大きく、ウェールズ家の負担はさらに増した。
それがそのまま、カミラの忙しさに繋がったというわけだ。
「わかっているわ。苦労をかけたわね、カミラ。あなた以外には任せられない仕事だった。見事に果たしてくれたわね」
真っ直ぐに労われて、カミラは愚痴を止めて唇を尖らせた。
メアリに支配者として振る舞われると、それ以上何も言えないではないか。
「安心しなさい。中央での人材集めは上手くいったわ。あなたもまた、前みたいにお酒を飲めるようになるわ」
「まあ、飢饉でできた穴を埋めたら、あたしの出番が減るのはわかるけど……」
ふうん、とカミラは興味を吐息に混ぜて漏らす。
メアリの言いようでは、デジデリアは相当に優秀な人材であるようだ。
西部の三分の二を影響下に置いたウェールズ家は、巨大化している。
飢饉の影響から西部全域が抜け出したとしても、先代のウェールズ家と比べて、その腕に抱く範囲が倍になったのだ。
もちろん、その全域に一から十まで口を出すことはないが、それでも雑多な調整は迫られる。
それほど巨大化した当代のウェールズ家であっても、またカミラが酒浸りになる余裕を作れるとなると、今紹介された人物が「補佐」する領域はかなり広範に及ぶ。
どこまでできるかな?
カミラの脳が、好奇心に酔う。
強い支配者を造ることを命題とした結社は、様々な実験体に高い能力を植え付けた。
その実験結果のうちでも、最高峰に位置するのがカミラだ。
最高傑作であるメアリから第一世代の魔法植物を分け与えられ、メアリの能力を代行できるカミラは、大嫌いな文官の真似事も最高水準でこなせる。
そのカミラに――結社最高の頭脳と呼ばれた彼女の研究成果に、天然物の才能がどこまで迫るのか、迫るどころか越せるのか。
これは面白い実験になる。
「よし。デジデリアって言ったな。デリアでいいか?」
「は、はい。お、お好きに呼んで、いただいても、はい」
「そうか、そうか。あたしはカミラだ。見ての通り、堅苦しいのは嫌いでね、こっちも好きに呼んでくれ」
デジデリアは、必死に頷いた。
目の前の美女の笑顔は、好物に噛みつくネコのような喜びに満ちている。
「そうだな、補佐の仕事はどこから始めたものか。ああ、しばらくはメアリも西部にいられるんだろう?」
問いかけられ、メアリは肯定した。
「ええ。しばらく中央に行く必要はないわ。中央から連れて来た人材の配置を決めて、その様子を見る間くらいは――」
「よしよし。それなら、デリアの研修の余裕は十分に取れるな。うん、まずは知識水準の確認からかな? なにも慌てる必要はない。そうだな、そうしよう」
メアリの台詞を途中で断ち切って、自分の思考に熱中するカミラに、他でもないメアリが愉快そうに笑う。
今入れた瓶一つ分の酒では、カミラの好奇心を抑えるにはまるで足らなかったのだろう。しばらく禁酒をしていたのだ。
酒に溺れる前、結社で最高最悪と恐れられた頭脳を取り戻した彼女は、熱狂を露わにしている。
メアリにとって、懐かしい光景だ。
親の顔よりもずっと慣れ親しんだ、最も身近にあった笑顔の形である。
大変お待たせいたしました。
2026/4/30の書籍第一巻の発売に向けて、更新再開いたします。
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