病鳥の止まり木3
紳士であれ――ノア・クリストファーが、子に言い聞かせた言葉だ。
セスは女の子なのだけど、と幼い娘が訴えても、それは変わらなかった。
父ノアにとって、紳士とは性別によって使い分ける類の言葉ではなかったらしい。
では、紳士とは何か。
礼儀を守る者なのか、作法に通じる者なのか、人格に優れる者なのか。
そのいずれでもなかった。
「魔法の鏡だ。本当の化け物になってしまわないよう、自分が人であることを忘れないよう、常に自分の姿を見直すための鏡だよ」
父にそう教わったことを、セスはよく覚えていた。
父の背後に飾られた、先祖伝来の姿見と共に。
あれは確か、十歳の頃だったろう。滅多に入れない執務室に招かれ、ソファに座って向かい合って父と話をした時のことだ。
大人扱いをされていると感じて、セスは教わった紳士的な振る舞いを精一杯心掛けていたが、興奮は隠しきれていなかった。
だが、それも父の口から恐ろし気な存在が語られる前までだ。
「化け物、ですか?」
「そうだ。物語にもあるだろう。英雄が化け物と戦ううち、自分が戦う化け物と同じ存在になってしまう話が。それと同じことだよ」
恐い言葉に、セスの声も小さくなる。
「父上も、化け物になるのですか?」
「なってしまわないよう、魔法の鏡を使っているのだよ。自分はまだ人間だ、化け物になっていない。そう確認することで、化け物にならないようにできる」
そうですか、と答えたセスの声は、安堵したにしては硬かった。
父を見る目に、緊張が混ざっている。目の前の見慣れた大人が、本当に自分と同じ存在かどうか、考えたこともない不安が胸の奥から溢れてくる。
「お前も気をつけるのだよ、セス。政とは魔性の領域、その空気を吸っていると自分が人であることを簡単に忘れてしまうのだから」
「はい」
幼い顔を強張らせて、セスは頷いた。
「ほらセス、それだ。紳士たる者、表情は常に穏やかに……緊張を見せてはいけないよ」
「は、はい。これで、どうでしょうか」
「まだまだ表情が硬い。ほら、こちらへおいで。こういう時、鏡を見ながら練習すると良い」
先祖伝来の鏡の前、父に肩を抱かれながら自分と向き合う。
父の言う通り、鏡の中の自分は、確かに引きつった顔をしている。これでは、誰も笑みを浮かべているとは思わないだろう。
自分の肩を抱く父が、本当に化け物ではないのか。脅えて、それを隠そうとしている顔だ。
「そうだな。一度、全身に思い切り力を入れてご覧。全身を緊張させてから、力を抜くんだ。そうすれば、顔の力みも抜けるだろう」
父の助言に従って、その日は表情の作り方を学んだ。
決して声は荒げないが、できるまで何度もやらせるノア・クリストファーの教育は、厳しいと言えた。
少なくとも、兄や周囲の声はそうだった。しつこすぎるとか、できることとできないことがある、とか。
しかし、セス自身は、さほど苦にした記憶はない。
大貴族を負って立つ父の意気込みより、化け物になる、という空想の方が少女には恐ろしかった。
セス・クリストファーは、そうした空想をはっきりと思い浮かべる頭脳を持ち、空想に脅える臆病な性質だった。
その恐怖を原動力に、セスは成長していく。
化け物にならないように、紳士であるように。
成熟は、兄カインと比べてセスの方が早かったように思う。
男女の性差、個人の資質、あるいは父の言葉をどれほど真剣に受け止めたかが、関係していただろう。
政とは魔性の領域――年を長じるごとに、父の言葉の意味がわかるようになってきた。
ある日、セスの新人使用人が一人辞めてしまった。
それと入れ替わった使用人も、すぐに辞めてしまう。三人目も辞めると言い出した時、セスもこれはおかしいと調べた。
結果、誰かはわからないが、新人使用人をつけ回して脅しをかける輩がいることを突き止めた。当然、セスは父に訴えた。
これはクリストファー公爵家への攻撃である。父からの追及を期待したが……。
「使用人への脅迫程度なら事を荒げる必要はない。辞めるというなら、少しばかり手当を多く出してやろう」
使用人にも優しいと評判の父の対応に、愕然とした。実質、見捨てているではないか。
案の定、次の使用人も辞めてしまった。今度は暴行を加えられたらしく、辞めていく使用人の頬は痛々しく腫れていた。
なぜかは知らないが、父も当てにならない。
そうセスは決断して、自分の伝手を使って相手を探り始めた。セスの伝手とは、ほとんどが公爵家家中の人間だ。父も娘の動向には気づいているはずだが、止められはしなかった。
その理由がわかったのは、使用人を脅していた相手が何者かわかった時だった。
兄カインが、人を使って妹の使用人を脅していたのだ。
「兄上、一体どういうことですか!」
「何の事かわからんな」
兄の部屋に怒鳴りこむと、兄は何もかも知っている態度で惚けた。
「わかっているでしょう! 私の使用人のことです!」
「いや、全く」
「そんな嘘だとわかる態度で!」
本当に知らなければ、ノックもせずにドアを開け放った妹に、こんな落ち着き払った態度を取れるはずがない。
「ゴロツキは、あなたの使用人の名前を雇い主としてあげましたよ!」
「おいおい、ゴロツキのことを信用して兄を疑っているのか。しかも、俺の使用人の名前? 俺がやった証拠にならないだろう。薄情な上に軽率な妹だ。紳士の鑑であるノア・クリストファーの娘とは思えないぞ」
罠にかかった獲物にかじりつく獣のような顔で、カインが笑う。
この瞬間、セスは全てを悟った。
やはり、兄カインが、妹セスの使用人を狙って脅していたのだ。セスの犬歯が軋みをあげて噛みしめられる。
何故そうなってしまったのか。セスの方が父ノアに似て紳士的だと、使用人や家臣が話し出したことがきっかけだろう。
クリストファー公爵家の嫡子はカインで、順当に行けば兄が爵位を継ぎ、半ば世襲となっている王国宰相も継ぐことになるはずだ。
しかし、妹の方が優秀だとなれば話は違う。
優秀な弟妹を持つ嫡子が、突然の不幸に倒れるという話は、貴族の間ではよくあることだ。カインはそれを警戒し、セスに対しての態度を敵へのそれに変えたのだ。
これはクリストファー公爵家に対する攻撃ではなく、身内の争い。後継者争いだったのだ。
どうして使用人を標的にしたのかもすぐにわかる。これはまだ警告に過ぎない。
嫡子は自分で、お前はその予備、それを弁えろという警告。
本当に戦う前に、戦う気があるのかという問い合わせに過ぎない。
カインも、使用人が相手であるうちは、父は動かないと確信があったのだろう。
どうして父は動かないのか。セスは当惑すると同時に、答えがわかる。
相手が使用人だからだ。使用人は平民から雇い入れる。どうなったところで、公爵家ならばいくらでも替えが効く。
だから、この程度でノア・クリストファーは動かない。
大事にせず、家中の出来事として処理している。ノアにとって、使用人が暴行される程度は争いのうちに入らないのだ。
紳士と名の通った貴族にして、この考え方。
セスとて使用人と自分が違う立場であることは理解している。しかし、それは貴族ならば平民を傷つけて良い、という話ではない。
ない、はずなのだ。
貴族と平民といえど、同じ赤い血を流す同族同士、まるで虫の羽をむしるかの如く傷つけて心が痛まない人間なんているはずがない――化け物でもない限り。
そうか、これが化け物か。
兄は化け物になり、父はとっくに化け物だったのだ。
紳士は魔法の鏡などではなく、醜い本当の姿を隠すための偽装のことだった。
化け物の巣窟に、自分は暮らしていたのだ。父から貰ったコンパクトミラーを開き、ちらりと確認する。
鏡の中、自分の表情は、人間らしく引きつっている。
ああ、自分は人間だ。貴族として弱みといえる自分の表情に、安堵してしまう。
自分は人間で、化け物ではない。
化け物の笑みを浮かべる兄カインに、セスは顔を上げてはっきりと告げる。
「私は、ノア・クリストファーのような紳士にはなれません」
公爵家の後継争いにおける敗北宣言をすることに、躊躇いはなかった。
化け物になってまで追い求めるようなものとは思えないし、思いたくもない。
兄は、そんな妹に満足げに笑う。化け物の表情を、心底おぞましいと思った。
それ以来、セスにとっての紳士の意味は変わった。
紳士とは、化け物から身を守るための偽装であり、化け物になっていないことを確認するための鏡となった。
父曰く、紳士とは、場に相応しい表情を選び、相手に適した態度を取り、状況に合わせた振る舞いを示す。
セスにとって、場も相手も状況も、クリストファー公爵家の第二子である、ということに概ね集約された。
嫡子である兄に問題があった時の予備であり、多忙な王国宰相の補佐、公爵家の令嬢――自らは強く主張することはせず、王宮に集まる膨大な書類を把握し、大身の貴族に集まる視線に隙を見せない。
あくまで兄の予備であろうと派閥は中立の者を最小限、書類を相手に日々を執務室で過ごし、ミスを犯さぬように立ち回りを最低限に。
必死にそう振る舞えば振る舞うほど、周囲からの評価は、流石ノア・クリストファーの子である、と高まった。
兄カインは、セスとの一件で味を覚えたのか、高圧的な態度で威嚇することが増えていくのとは真逆なことに。




