病鳥の止まり木1
ダドリー・リッチモンドの敗北。
その報せは、王国に衝撃を与えた。
武名高き西部の雄リッチモンド家が、自ら挑みかかった戦にも関わらず、当主ダドリーを含む主力騎士団が壊滅という大敗北。
しかも相手は、ウェールズ辺境伯家の十代の令嬢だ。いかに悪名高きウェールズ家といえども、父親の死後に跡目を継いだだけの少女が――正確にいえば、その就任を認める意見すら少なかった少女が、よもやダドリー・リッチモンドを打ち破るとは。
王国中央の諸侯は驚愕した。
彼等の多くは、たかだか十代の少女、メアリ・ウェールズが西部の実権を手中に収める可能性を露ほども考えていなかった。
「さて、わざわざ集まって貰ったのは他でもない。諸君の予想通り、西部のことだ。事前に聞いていたものとは、随分と状況が異なるようだね」
クリストファー公爵にして王国宰相、ノア・クリストファーの声はあくまで穏やかだった。
王国西部について、事前の計画が総崩れしたことを受けて開かれた緊急会議の席でこの落ち着きよう、国随一の紳士という風評に相応しいと言える。
ただ、列席者のうち、穏やかさをそのまま受け取った者は一人もいなかった。
冷や汗を浮かべる者、硬い唾を飲む者、緊張に表情を失くす者、普段は公爵にならって紳士を気取る貴族達が、夜の森に放り出された小僧のように黙りこんでいる。
当然だ。
彼等のほとんどは、メアリ・ウェールズをウェールズ家当主の座から追い落とし、ダドリーかフィッツロイを辺境伯にして王国西部を治めることを献策していたのだ。
その半生を病床に臥せっていた小娘など物の役に立たぬと声高に叫び、ダドリーの武勇、フィッツロイの能弁こそ、今後王国西部に必要であると訴えていた。
そのために、メアリから西部統括官の継承を打診されても返答しなかったばかりか、ウェールズ辺境伯の継承を王国が承認した旨すら送っていない。
ところが、である。
「メアリ・ウェールズがダドリー・リッチモンドを相手に完勝したとは、実に驚きだ」
ノアがそう言って視線を向けたのは、武勇を頼みにダドリー・リッチモンドを推していた者達だ。
「それも、六十倍の戦力差を覆してなどと……戦史に記したら誇張を疑われそうな劇的な勝利だとは思わないか?」
「そ、それについては、飢饉の発生があり、その影響が甚だしいものだったかと……」
「うむ、確かに」
ノアは、ダドリー派の貴族の言に、鷹揚に頷いた。
「しかし、飢饉に甚だしい影響を受けながら軍を進めたというのは、私のような軍事素人には中々決断できない。その辺り、王国西部を統べるに足るほどの軍才を持ったダドリー殿には、どのように素晴らしい考えがあったのか。誰か教えて貰えるかな」
ダドリー派の貴族は、問いかけに引きつった笑みだけ浮かべた。
素晴らしい考えなどわかるわけがない。恐らく、この世の軍才全てを集めてもわからないだろう。
ただ、当時のダドリーの考えならば、想像がつく。
あの時のダドリーは、中央の支援者から大きくて派手な成果を上げるよう催促されていたのだ。引きつって笑う貴族自身、クリストファー公爵に大見得を切った手前、恥をかかせるなと叱責を送った。
ダドリーは、火で追い立てられる獣の心地だったろう。
あの男は、目の前に罠があると気づいても、前に進むしか出来なかったのだ。
ノアは、ダドリー派から声がないことを確認して、視線を正面に戻した。
「いずれにせよ、メアリ・ウェールズは軍事の手腕を示した。どんな事情があったとしても、誰の目からもリッチモンド家に勝った人物と映るだろう。そこで問題なのだが」
ノアは、こつりと机を指で叩いた。
「メアリ・ウェールズに対し、今まで私達が示していた態度は、どう甘く見ても友好的ではなかっただろう。今や王国西部を手中にしてもおかしくない高名を相手に、だ」
「ですが、それは悪名ですよ」
メアリを評価する宰相の言葉に反応したのは、フィッツロイ派の若い貴族だった。
「それがどうかしたのかね」
「それが、などと……父上」
フィッツロイ派の若い貴族――ノアの息子であるカインが、信じられないという顔をする。
「民を虐殺し、聖職者を迫害し、悪逆非道の限りを尽くす女です。そのような者に国王陛下の領地と民を委ねるなど、臣下として止めるのは至極当然のことと心得ます」
「それは誰が言ったのかな?」
「誰もが言っていることです」
得意げに話す息子に、ノアは小さく溜息を漏らした。
それは、誰も言っていない、と同じ意味だ。その言葉を使うことが悪いとは言わないが、今この場で使ったことは好意的には評価できない。
確かに、巷間に広がる悪名などない方が良い。だが、有能な人物であれば、一時の噂など容易く覆すものだ。
必要があれば、王国宰相にしてクリストファー公爵の名を使って、ひっくり返したって良い。
「では、私ノア・クリストファーのメアリ殿への評価を口にしようか」
噂を口にしたカインを見据えて、有象無象ではない、王国宰相の人物評を口にする。
「メアリ・ウェールズは、若くして才学非凡にして剛毅果断な為政者だ。西部を襲う飢饉を予見し、即座に周知徹底を図った。いざ飢饉が発生した際には、友好領への支援の莫大であること他の追随を許さず、諸侯領から出た野盗は早々に鎮圧、被害の最小化に成功している。この有事にあって彼女が現れたことは、宰相として幸運であったと考えている」
絶賛である。
この場の誰も、ノアからこれほど褒められたことはない。息子のカインであっても。
「父上、それは流石にどうかと思われます。今の王国西部の混乱を見て、どうしてそのような評価が出て来るのか」
「お前にはわからないか?」
ノアが、息子に対するには鋭すぎる視線を向ける。
それは、何故わからない、と叱声が聞こえるような眼差しだった。
王国宰相からこんな目をされれば、普通は引き下がる。だが、カインはノアの息子としての気分が抑えきれなかった。
「わかりませんとも! メアリの異常性は明らかです! 父親の葬儀もせずに領民を殺し回ったという噂も立っているではありませんか! 家長を蔑ろにするなど、国の家長たる国王陛下にもどのような態度に出るか!」
「カインはそう言っているが……」
ノアは、息子の大声に片手を上げて抑えて、視線をまた別な貴族グループに向けた。
ダドリーを支持するでもなく、フィッツロイを支持するでもなく、かといってメアリを支持していたわけでもない中立のグループ。
その中でも、カインより若い貴族にノアの目が向けられる。
「セス、お前はどうだね」
「自分はメアリ殿にお目にかかったことはなく、市井の噂も存じ上げません。ですので、ウェールズ本家から提出された各文書からの判断となりますが」
それは女性の声だった。いや、少女の声だった、と言うべきか。
メアリが聞けば、目を細めて耳を澄ませそうな、実の硬い果実を想像させる若い声だ。
「実に細やかな人物である、そう思われます」
少女は、そこで一度手元のコンパクトミラーを開いた。
鏡の中に映った自分を見て、再び顔をあげる。これは、少女の癖だった。
「今回の飢饉に当たり、事前の連絡や忠告は西部全体に渡って漏れなく送られており、王宮にも伝えられていました。またウェールズ辺境伯領から供出された支援の膨大なこと、それほどの余力があったことはもちろん、管理・運送の手間を想像すれば、感嘆の思いです」
「うむ。セスは私と同じ物を調べたようだね」
どこの誰が言ったか知れない噂――十中八九、メアリの敵対者による悪意誇張が混ざっているに違いない噂――ではなく、公的に王国に残り続ける文書から見えて来るメアリ・ウェールズの姿である。
かの人物は、自分が周囲からどう見られているか知っていたからこそ、これほど細かく王宮に報告を送って来たに違いない。
ダドリーやフィッツロイも、中々の力作を送って来てはいたが、質量ともにメアリのそれには及ばない。
やはり、渦中で辣腕を振るっている者と、渦中で手をこまねいている者、外から様子見をしている者とでは、中身が違う。
だから、ノアはメアリに対するこれまでの自分の態度を振り返らなければならないのだ。
「現在の王国西部の状況を見るに、西部統括官を任せるに相応しい手腕を示しているのは、メアリ・ウェールズ一人のように私には見える」
メアリ・ウェールズを西部統括官とするならば、王国宰相としてこれまでの態度を詫びる必要がある。
ましてや、王国西部の荒れに荒れた状態を考えれば、低頭して立て直しに尽力して貰う必要があろう。
ノアの言葉に、ダドリー派の貴族は俯き、中立派は静かに頷く。
この二つのグループには、反論する材料がなかった。
ダドリー派には旗頭とするべき人物はおらず、中立派には宰相も認めるメアリの手腕を疑問視する必要がない。
「父上、そうとは限りません」
だから、フィッツロイ派のカインだけが立ち上がったのは、当然のことだった。
「確かに、メアリ・ウェールズにも見るべきものはあるかもしれません。しかし、悪名が広がっていることも事実であり、リッチモンド家と激突したことにより、西部中央の諸侯から厭われる人物でしょう」
その点については、ノアも認めるところがある。メアリ・ウェールズは、西部で恐れられる対象でもある。
「その点、フィッツロイ殿ならば、そのような心配は不要です。王都寄りの西部には、元よりフィッツロイ殿を支持する諸侯も多い。西部中央諸侯とメアリが対立した今、そちらもフィッツロイ殿を歓迎する可能性は高いのです」
「確かに、その可能性はあるな」
フィッツロイは、今回の飢饉で大きな加点はないが、減点もない。
そもそもろくに動いていなかったのだ。王都の貴族に働きかけ、自分の地盤がある王都寄りの地方にいくらかの援助を引き出したくらいか。
「フィッツロイ殿は第二王子殿下との友誼もあります。王国東部で隣国と衝突している現状、第二王子殿下と関係が深く、また社交を得手とするフィッツロイ殿が立場を得ることは、隣国との関係に一石を投じられるかと」
第二王子の母親は、その隣国の王女である。
確かに、何かの効果が期待できないわけではない。何が期待できるのか、と問われれば明白に答えられないが……布石を置いておく価値はある。
「良かろう。どの道、私は東部に出張っている陛下の後備えとして中央で忙殺される。西部については、カイン――」
フィッツロイ派の貴族達の表情に、勝利の色が浮かぶ。
「それと、セス」
だが、その勝利の色はすぐに褪せた。
「二人に任せる」
これは、メアリかフィッツロイのどちらかを西部統括官にするか、二人で結論を出せということだ。
自動的に、セスがメアリの担当となる。
これまで、フィッツロイを自派閥の一員とするために苦労して来たカインとしては、面白くない。妹は何もしていないのに、自分の対抗馬であるメアリを手に入れたように見えるからだ。
自然、カインがセスに向けた目つきは肉親だとは思えない感情がこめられている。
セスの方もそれに気づいたが、目視しようとはしなかった。
ただ、コンパクトミラーに視線を落とす。鏡の中の少女は、迷惑そうに眉をひそめていた。
貴族家で避けては通れない問題、後継者問題まで絡んで来た今回の一件に、ノアは釘を刺す。
「言うまでもないが、今の西部は飢饉の混乱の直後であり、東部では戦争の最中だ。無用な騒動を起こすことは絶対に罷りならん」
それは、紳士の風評を持つ宰相としては、異例なほど強い言葉だった。




