お兄ちゃんが敵の大将になってしまいました。
ふさぎ込むことが多くなり、伏せっていた朝氏の寝室。
そこへ近侍が止めるのも聞かず、藤井宗秀がずかずかと上がり込む。
朝氏は慌てて体を起こした。
「亜相の書状は読んだか」
前置きもない宗秀の問いに、朝氏は無言でうなずいた。
亜相とは大納言の唐名で親房のことを指す。
親房は関東中の武将に書状を送り、南朝へ帰順するよう働きかけ、恭順の意を示す者へ念書を求めた。
朝氏は生け捕りにされた際、南朝帰属を条件に解放されている。彼が念書を書くのは当然だと。
宗秀は苛立っていた。
南朝へは何度も下野国司の任官を要請しながら、親房が序列を盾に承諾しなかったからだ。(もっとも本当に序列を重んじる人間ならば、南朝になど属してないはずだが)長く傍系にあった藤井では小山一門の領袖として不足、と見られたのだろう。このまま後ろ盾として朝氏を支えるよう命じられ、彼に起請文を書かせるのも宗秀の任務とされた。
彼の心中は朝氏にも読めた。
――先月までは他国の武将同様日和っていたのに。
国司の件はともかく、小山宗家から奪った領地の安堵は南朝によるものだ。
それをしてなお不満げな宗秀の手元を見た。
起請文。
宗広から釈放された際にも書かされた。
心にもない誓約書。
宗広の死で解放されたと思っていたのに。
宗秀が、親房が、彼の亡霊のように現れて朝氏を苦しめる。
南朝に下るということ。
出世のため、保身のため、あるいは忠義のため。
これまで武家方として戦ってきた過去を捨てるほどの。
理由のある人はいい。
けれど、朝氏には理由がない。自分を偽る理由でさえ。
――何のために?
朝氏は目眩を覚える。
宗秀は、そんな少年領主を床から引き摺るようにして文机の前に座らせた。
背中を支えながら彼の手に筆を握らせ、紙面に向かわせる。
否やは言わせねと。
見かねた野崎が、
「殿は気分が優れぬようすです。また日を改めてお越し頂ければ、その際にお渡しします故・・・・・・」
制しかけるのを、
「生憎と、今日は手ぶらで帰るつもりはないのだ」
きっと睨みつける。
後日ともなれば、必ず大後家の尼が口を挟む。大後家のいない今が好機なのだ。
朝氏はぼんやりした頭で、宗秀の為すがまま筆を動かした。
まるで傀儡のように。
目的を達した宗秀は、朝氏がしたためた書状にふうふうと息をかけながら上機嫌で部屋を後にした。
「相変わらず、お行儀の悪い」
野崎がぽつりと言う。
――これは毒だ。
朝氏は気分が悪いと人払いさせ、再び床に伏せった。
結城宗広は死ぬ前に、血族へ毒を注ぎ込んだのだ。
だが、宗広こそ毒に中てられた人間ではなかったか。
人を酔わせる権力の甘い毒。
毒に蝕まれた藤井も、己れを待ち受ける運命を知らない。
それを知り得る朝氏は、あまりにも無力だった。
「藤井など、小山に入れなければ良かった」
野崎から一部始終を聞いた大後家の尼は吐き捨てるように言った。
彼女にふさわしくない激情。
確かに朝氏への国司補任は後醍醐によるものだった。しかし、この下野では国守も守護職も小山宗家の世襲が慣例だった。武将の妻として、母として、祖母として、何の今さら宮方などに。朝氏が生け捕られた際の約束など、宗広が死んでいくらでもうやむやにできたものを。
大後家は己れの意思を貫く。
南朝投降などなかったように、幕府を立て、鎌倉府に寄り添い、今まで通り朝氏の補佐役として下野の治政に心を砕いた。
暦応二年(一三三九)八月、後醍醐天皇が吉野で没した。
死に臨み、譲位した後村上天皇へ、朝敵討伐と京都奪還を託した。彼の執念とともに生み出された南朝は、彼の死とともに幕を下ろすべきであった。しかし、この吉野朝廷は反足利の核として、あたかも梁山泊のように漂泊の武将たちを取り込み、残存するのである。
常陸小田城では、親房が南朝の正統性を証明すると称し、神皇正統記の著述に着手している。また東国経営にも辣腕を振るい、後醍醐が崩じる以前から、南朝方の東国武将に対する官位・領地の与奪権を掌握していた。
その彼にとって、小山宗家の北朝への傾倒は許されざる行為である。報復として、奥州菊田庄内の朝氏の領地を召し上げ、宗広の嫡子にして白河結城氏の当主親朝に預けた。
翌暦応三年(一三四○)正月のことである。
所領没収の沙汰は、藤井宗秀を通じて鷲城へ届けられる。
これを受けた大後家は、
「菊田の領地は、我らの父祖が奥州征伐の功により、頼朝公から直々に授けられたものです。それを何の権限で私たちから取り上げようというのです」
いっそ相手にせず笑い飛ばしてしまいたい。大後家は、そう思って表情をつくりかけたがうまくいかなかった。かたわらの朝氏は、祖母の怒りと困惑を察し、己れの過ちを一入申し訳なく思うのだった。
下野小山と菊田庄、そして白河の距離と南朝の勢力を考えれば、親朝は早々に菊田へ代官を入れ、小山の手の者を追い出すだろう。
家臣らにも動揺が走る。
武家の棟梁とされた尊氏は京に幕府を定めた。その留守に未だ不安定な東国を、親房が南朝の権威と権力をもって治めようというのだ。
先祖代々の土地が他人の便宜により召し上げられる。それは、生活の基盤となる土地に根を張るようにして生きてきた彼らに、生存の危機を覚えさせた。
当主たる朝氏はまだ年少で、南朝方の藤井に証文を書かされながら、祖母は幕府に帰順している。
このまま状況を日和っていて良いのか。南北どちらかにつき、態度を明確にすべきではないか。
ではどちらへ?
足並みの乱れる城内をさらに掻き乱す人物が訪れた。
少年城主の叔父、秀政の帰東だった。
秀政は、一族の誰よりも南朝の中枢にあった人物だ。後醍醐天皇の武者所に務め、吉野へはともに没落した。彼の地にはすでに妻子がいる。
彼の出現は吉野朝廷と親房の差し金であった。小山一族は昔日の栄光に翳りがあるとはいえ、未だ東国では一二を争う名門である。何としてでも南朝へ引き留めねばならなかった。この一年の迷走は、当主が子どもで正しく後見する者がいなかったためである。補佐役として秀政以上の適任者はないだろうと。
秀政は叔父の立場で、懸命に朝氏を説いた。
「今はまだ宮方が劣勢のように思われるかもしれないが、全国各地で打倒朝敵の気運が高まっている。この機に乗ずれば、小山も・・・・・・」
内容は、結城宗広がかつて述べたことと変わらなかったが、何より父の弟である彼の存在に、よほど気を許しそうになる。
秀政の顔をじっと見る。
亡き父の面影を探す自分に気付く。
その横合いへ、大後家が口を挟む。
「あなたは何もわかってないのです。先祖の朝政公が誰と戦ったのか。勝利の末、何を得たのか。武士が人として扱われず、公家らにいいように使われていた時代に戻したいのですか」
承久三年(一二二一)、後白河法皇の孫、後鳥羽上皇は、三代将軍実朝暗殺による御家人の動揺につけ込み、幕府に兵を差し向けた。このときばかりは、府内で反目し合う勢力も互いに力を合わせ、御家人らは一致団結して朝廷と戦い、勝利を得た。
今はあの時代の再現なのだと、目先の欲に囚われて、武家の世を覆してはならぬのだと。
大後家は力説する。
だが、秀政は滔々たる母の演説に肩をすくめた。
「そのような昔話を持ち出されましても」
昔の人間の、さらに昔の物語りと。
大後家は、息子を見据えた。
「朝廷が南北に別れてから、京を武家方、吉野を宮方と呼び習わしています。これは何を意味しているのか、わからぬのですか。本当の敵は誰なのか、そなたにはわからぬのですか」
母の真剣な眼差しを、秀政は笑って取り合わなかった。
今日はこれまでと見定め、席を立つ。
「必ず、常犬丸を説得しますよ。あぁ、今はもう元服して、四郎殿、でしたね」
母と甥に微笑みかける。
顔を背ける大後家。
その祖母の横顔を見てうつむく朝氏。
去り際。
秀政が目の端で、二人のようすを鋭く捕らえていたことに、彼らは気付かなかった。
「――叔父上はどちらに?」
秀政がいなくなると、部屋には重い沈黙が残った。
「さぁ、おおかた藤井のいる祇園城にでも行ったのでしょう」
祖母の横顔は、朝氏がこれまでに見たこともないほど老けていた。
息子の造反に相当の痛手を受け、一度に年を取ったかのようだ。
祇園城は小山氏宮方の牙城となり、すでに一族の結束は無きに等しかった。
――これも私が未熟だからだ。
当主として周囲の期待に応えられぬ自分を責めた。
重苦しい空気が城内を支配したまま、幾日か過ぎた。
その晩も朝氏は、眠れずに何度も床の中で寝返りを打った。
とめどなく湧き上がる思念が、睡りを妨げるのだ。
闇の中、暗さに馴れた瞳でぼんやりと天井を見上げる。
「――常犬丸、いや、四郎殿」
聞き覚えのある声が寝室の外から届く。と、思う間もなく障子が開けられ、秀政が月の光ごと現れる。
「眠れないようすですな。随分と悩まれているようだ」
叔父の出現に驚きかけた朝氏だが、すぐに思い至る。先代の弟たる秀政に、城中へ手引きする家人は事欠かないだろうと。
叔父の表情は陰になってよく見えない。ただ、白目だけがやけに光を放っていた。
「苦しいのは、ここが四郎殿の居場所ではないからですよ」
静かに語りかける声に誘われるようにして、身体を起こす。
「お祖母さまの期待に添えられぬことは、辛いことですか」
朝氏はこくりとうなずく。
「逃げ出したいと思ったことはありますか」
うなずく。
「でも、どうすればいいかわからない」
うなずく。
うなずきながら朝氏は不思議に思う。
叔父に問われるまま、素直に応えてしまう自分を。
だが、
「・・・・・・祇園城の私のところへいらっしゃい」
その一言で、朝氏の身体が強張る。
「どうやら藤井が苦手のようですね。大丈夫、藤井はあなたから遠ざけますから」
秀政はふふっと笑った。
「今夜の私の目的がわかりますね。藤井は細作にでも掠わせようなどと言ってましたが、私はそんな無理強いをしたくなかった。・・・・・・四郎殿の意思で選んで欲しいと」
すっと、差し出された秀政の手。
この手を握れば解放されるのだ。
秀政や宗秀にとって、自分は南朝小山の御輿の飾りに過ぎない。
形だけの、傀儡としての、小山家当主。
けれど。
むしろそういったものに自分はなりたかった。
「あなたは兄の代わりをなさろうとしたが、それは無理だったのです。いったい、あなたは何歳ですか。ここの人たちはそれを忘れている。――もう、大人の振りをしなくていいのです。あなたはまだ、子どもなのですから」
もう苦しまずに済む。この人に全てを委ねてしまえば。
――楽になりたいんだ。
朝氏は秀政の手を取った。
力強い壮年の男の手。この手に任せることが、本来のように思える。
立ち上がり、秀政に寄り添ってわかった。
自分がなぜ、この男の言いなりになってしまうのかが。
秀政は、亡き父と同じ匂いがした。
城内が騒然とするなか、今犬丸は朝を迎えた。
「兄上さまが宮方にかどかわされました」
そう、家の者は言ったが、当日のうちに祇園城より使者が訪れる。
兄は覚悟あって出奔したのだ。
――なんで? ぼくにもだまって。
今犬丸は、兄に裏切られたように感じた。
使者は南朝恭順を勧める書状を携えていた。
もはや祇園城は、下野国守兼守護の小山朝氏を頂点にした、南朝連合の一大拠点となったのだ。
実動の中心には、叔父秀政と藤井宗秀がいる。
「・・・・・・あの子は、私に恨みでもあったのか」
息子のあるまじき行為に、大後家の尼はその場に崩れ、今犬丸と野崎がかけ寄った。
常犬丸と呼ばれていたころから兄朝氏を支えていた祖母。
けれど本当は、朝氏の存在こそが祖母の支えだったと、今犬丸は知った。
天皇一家の皇位争いが、下野の幼い兄弟たちへ楔を打つ。
暦応二年(一三三九)、小山兄弟合戦の始まりである。
東国での兄弟間、嫡庶流間での分裂離反は小山氏に限ったことではない。幕府も放置することはできず、すでに昨年より、尊氏は執事の一族である高師冬を鎌倉府に送り、関東の安定化を図ろうとした。しかし、それを常陸の北畠親房は、宮方への切り崩しの策謀と捉え、干渉は執拗さを増した。
南北双方の働きかけにより、小山の内紛はいっそう深刻なものとなる。
山々の景色も春めくなか、兄弟の祖母大後家の尼が逝った。
朝氏が祇園城へ去ってより、床に付くことが多くなっていたが、こんなに早くと皆が驚いた。
生前、大後家は今犬丸に朝氏への心配事をくり返した。
「あの子はどうやら母親に似たのだろうね。以前は気付かなかったけれど。すっかり気弱で病弱になってしまって、向こうでちゃんとやっていけるか私は心配でなりません」
気弱で病弱になったのは祖母の方だ。心の支えだった大切な兄を奪われ。
――ぼくでは、兄上の代わりにはなれないの?
悲しくなる今犬丸の瞳を読んでか、祖母は言う。
「悪く思わないでおくれ。私とて、もっとそなたのためにできることがあると思っていました。本当に、そなた一人をこの城に残すことを心苦しく思います」
主を失った鷲城の将来に失望し、祇園城に走る郎等が出始めた。城は日ごとに人少なになっていく。
「お祖母さま、そんなことを言うのはやめてください」
今犬丸の言葉に返事はなかった。代わりに野崎の方を向いて、
――この子を頼みましたよ。
と、静かにうなずくだけだった。
大後家はまもなく身罷り、肉親のいなくなった城に、今犬丸は一人ぽつりと残された。
――この邸が、こんなに広く見えるなんて。
周囲を見渡し、途方にくれた。
祖母の死の知らせに、出家した母から手紙をたずさえた使者が訪れた。
これを野崎から伝えられ、今犬丸の顔がぱっと明るくなった。
子どもの薄情さで、
――母さまは、城に戻ってきてくれるんだね。
喜びさえ湧き上がった。
祖母を頼りにする一方、彼女の存在によって母は城に戻るのを憚ったと考えていた今犬丸は喜んだ。
しかし、渡された手紙の内容は、祖母の死の弔辞から始まり、小山家の内紛を嘆き、朝氏・今犬丸自身がこの状況を治めることを願うというものだった。
――これだけ?
今犬丸は、自分の目を疑い、食い入るように何度も読み返した。だが彼の期待した『会いに行きます』、『城に帰ります』といった文字はなかった。
使者は、落胆する今犬丸に言い添える。
「これからは手紙のやりとりも控えられたいと」
あまりのことに呆然とする今犬丸は、使者が帰ったことにも気付かなかった。
「――兄君のもとへも、同じ言伝が届いているかと存じます。母君はどちらかの内通者になる、その疑いを恐れてのことでしょう」
傍らにいた野崎が言った。
母は祖母と違って気丈なところがない。けれど二人の母親として、小山家の内紛を取り除こうという発想すらできないのか。
――兄上と二人でどうにかしろって?
兄の周りにはさまざまな大人たちがいて、壁となって兄弟の間を阻んでいる。
それを取りのけて、分裂した小山家を復せよと母は言うのか。
そんなことはできるわけない。
――だって、ぼくは子どもなのに。
途方もない荷を負わす母の言葉に失望し、肩を落とした。
その彼の前へ野崎がすっと進み出る。
私がここにおりますよ、と。
「・・・・・・野崎は兄上のところに行かなくていいの?」
朝氏の主立った郎等は祇園城に去った。野崎は兄の幼いころからの養育係で第一の側近だったはず。
「私は大後家さまから約束されました。今犬丸さまを守るようにと。そして、先代(秀朝)からも小山家を守るようにと。先代が生きていらしたら、宮方に付くとは思われません」
武家としてどちらを選ぶべきか、それが答えだと。
「ぼくは、父上や兄上の代わりにはなれないと思うよ」
「お二人の代わりになる必要はありません。私が、あなたさまを当主たるにふさわしい器に致します」
平伏する野崎に、今犬丸はいっそうの孤独を感じた。
しかし、間もなく彼は野崎の覚悟を見直すこととなる。
初夏、祇園城のようすに変化が起き始めた。
朝氏や秀政にとって尊属であり、郎等たちの女主人であった、大後家の死がきっかけだった。
祖母が自分の死期を悟ったとき、それをひどく悔やんだのは、祇園城方が攻撃の歯止めを失うことを予測しえたからだ。
小山の二つの主城、祇園城と鷲城、同族同士のにらみ合い。
野崎はすでに合戦を見越して配下の者へ軍勢催促状を廻し、鎌倉へも救援依頼の書状を送っていた。
「どうなの? 兄上は鷲城を攻めると思う?」
「それより、曲輪の方でしょう」
祇園城の南、鷲城の東に位置する小山氏の住居。国衙と守護所の機能は、すでに祇園城へ移っていたが、無主の城を放置することは、地理的に危険だった。
曲輪には、予て朝氏方の小部隊が占拠していたが、鷲城攻撃の足がかりとなる城を本隊がくる前に奪還する必要があった。
先制攻撃。
「味方の士気に関わります。大将としての御出陣を願います」
野崎はさらにつけ加えた。
「兄君は九歳のときに、箱根の合戦で小山勢を率いていましたよ」
今犬丸はこの年、十二歳。
対抗心を煽るようなことを言う。
――嫌な男だ。
だが、彼の口吻に誇らしげな気色が漂っていることに気付く。
幼くして戦場に立ったかつての主君を、未だに気負うような。
――どうせ、ぼくは兄上のおまけなんだ。
内心すねる今犬丸であった。
出陣の日、今犬丸は童形のまま水干の上に無理矢理胴丸を着けさせられ、
「大変お似合いです。しかし加冠は急いだ方がよろしいですね。」
野崎は矛盾したことを言う。
――兄上は九つで、もっと似合っていたと思うけど。
常犬丸の初陣を思い出して、しょぼたれた。
さて、攻撃対象の曲輪である。平城で、その名の通り小山氏の住居。住み心地を第一に考えて造られ、軍事目的のため増改築された祇園城・鷲城とは異なり、防衛能力は低い。堀も浅く塀の高さもおざなりで、国の中心らしく周囲には市街が形勢されている。
町内の人々は、進軍する今犬丸の軍勢を目にすると、巻き込まれるのを恐れて逃げまどった。
曲輪内の朝氏方も町民の騒ぎに気付き、小勢では戦っても不利とみたか邸を放棄する。軍勢が曲輪を囲み終えるころには、残存の兵は数騎ほど。彼らを討つなり生け捕るなりして戦闘は終結した。
野崎は勝ち鬨を上げさせる。
「考えたものだね」
今犬丸は子どもながらに感心した。
武将の栄誉として、今犬丸の初陣は何としてでも勝利で飾りたい。
絶対に勝つ戦さとして、曲輪の奪還戦が選択されたのだ。
「だけど、どうするの? こんなに簡単に奪えた城だもの。逆に守るのは大変じゃないの?」
今犬丸としては、単に野崎の揚げ足を取ろうとしての発言であるが、果たして、曲輪は攻めるに易し、守るに難し。戦時にあってお荷物となる城であった。
「殿は賢いですね」
野崎は今犬丸を成人として扱おうとしているのか、最近呼び方を『殿』と改めているが、それ以外は、全く子ども扱いである。
「曲輪は燃やしてしまいます」
「ええっ」
「この世にはあって困る存在、というものがあるのですよ。ならば、いっそ存在を消してしまうのが良策かと」
今犬丸は耳を疑ったが、固執すれば戦力を消耗し、放置すれば敵の拠点となる曲輪であった。
なるほど、野崎の言うことは正しい。けれど、この曲輪は兄弟の思い出の家なのだ。二人が仲睦ましく一番楽しかったころの。その名のとおり子犬のようにじゃれ合っていた記憶が染みついている。
今犬丸は胸が締め付けられそうになった。
しかし、そんな甘ったるい感傷を挟む余地はないのだ。
「わかったよ。野崎の思うとおりにしてくれ」
野崎は主に一礼すると、てきぱきと放火の指示を出す。
「大丈夫かしら。町家に焼けうつったりしない?」
「それは町人たちが考えるべきことです」
文字通り、降りかかる火の粉は己れらで払えと。
――曲輪だけでなく街まで失うことになったらどうしよう。
ぐずぐずと涙ぐむ今犬丸に、野崎は仕方なく言葉を加えた。
「屋敷と町人たちの家は間隔が空いています。類焼する可能性は低いかと」
――それだって、燃やされるところなんて見てられないよ。
今犬丸は、火をかけられる前に、曲輪を背にした。
燃え盛る炎や、木材のはじける音、
煙と煤に追い立てられるようにして。
けれど、途中、思い直して後ろを振り返る。
屋敷からは濛々と黒煙が噴き上がっていた。
「殿?」
怪訝な顔で野崎が見上げる。
「本当はね。もっと間近で、もっと正面から観るべきものなんだろうけど」
武将として。戦いの責任者として。
――だけど今は、ここから見守ることで許してほしい。
崩れ落ちる曲輪を遠くに、今犬丸は涙をこらえた。