お兄ちゃんの帰還
朝氏は鷲城に帰還した。
途中、藤井の兵が屯する祇園城を振り返った。
一緒に放逐された野崎は何も言わなかったが、考えることは同じだろう。
――藤井の裏切りはいつからだったか。
奥州菊田庄に住む小山氏は、藤井からの出であった。小山一族の切り崩しは分家の分家から始まっていたのだ。
庶流とはいえ、藤井の祖時朝は小山四郎を名乗りながら、嫡流を外された経緯がある。両者の溝は深く、小山宗家は以来二代にわたり『五郎』が家督を継いでいたが、大後家の夫貞朝の代に、彼を時朝の子として『小四郎』を名乗らせ、融和を計ろうとした。しかし、その程度の懐柔策で積年の蟠りは解けなかったらしい。
先祖の遺恨は子孫に引き継がれ、そこへ庶流にも係わらず宗家を凌駕した結城宗広が誘いの手を伸ばす。彼の後ろには皇位簒奪者たる後醍醐が鎮座する。藤井が過分な望みを抱いたとしても不思議ではない。
事実上、小山一門の力関係は逆転した。朝氏の上に藤井宗秀がおり、その上に結城宗広が君臨しているのだ。
――これから先、小山はどうなってしまうんだろう。
朝氏の悲痛な思いとは裏腹に、鷲城の人々は彼の帰還を喜んだ。
今犬丸はその名の通り、子犬が跳びはねるようにして、大好きな兄を迎える。
「お兄ちゃん!」
郎等に支えられるようにして現れた朝氏は、抱きつかれて、少しよろめく。
「今犬丸、遠慮なさい。兄上はお疲れなのです」
弟をたしなめてから、大後家の尼は朝氏に顔を向けた。
「お役目、大儀でした。合戦の勝敗は時の運。四郎殿がご無事で何よりです」
大後家の目はやさしくて、そのやさしさに朝氏は身の置き所を失った。祖母の視線を受け止めきれず、
「申し訳ありません。私はあまりにも世間知らずでした」
顔を伏せる朝氏。
「いいえ、生きて帰ってきてくれた。それで十分です」
祇園城のことは何も言われなかった。
降参半分の法、という武士の慣例がある。降伏すれば、領土の半分を取り上げて、それで許す、というものだ。地理的な条件を考えると、曲輪を境に北側の領地を結城宗広が預かり、それを藤井宗秀が管理する、ということになるだろう。小山の本城、祇園城を拠点として。
朝氏は、己れの不甲斐なさにに唇を噛んだ。
だが、生きてさえいれば再起はある。
「これで良かったのですよ」
大後家だけではない。皆の総意である。
「良かった。良かった」
城の者たちはうなずき合う。
しかし、彼らのいたわりは彼を余計に責めさいなんだ。その晩、床に就いてからも、朝氏は眠ることができなかった。
暗闇のなか、奥州勢の本陣で対面した結城宗広の姿を思い出す。
老齢の域に達しながら肉付きの良い体躯を持ち、灰色の眉下から光る目の色に、自分など到底及びもせぬ威厳があった。
臆して、言葉すら出なかった朝氏へ、
「悪いようにはせぬ。そればかりか、これを機会に小山宗家とは深い付き合いをしたいと思っている」
朝氏を戒めから解放し、野崎の近侍さえ許した宗広。
敗軍の将を見下す態度ではない。
けれど、
「そなたは父を亡くし、幼くして下野国司と守護を兼任するなど、大変な苦労をした。もう十分であろう。その荷を下ろそうと思わぬか」
その言葉で、彼の欲するものを理解した。
結城一族だけではなく、小山一門まで。
野崎の顔色を横目で見る。
朝氏の身じろぎに、
「勘違いしてもらっては困るな。これも小山一門の繁栄を考えての故。私が結城の惣領を力づくで奪ったように思われているならば、それは誤解だ」
宗広が結城の惣領となったのは結城宗家朝祐の存命中であったが、彼はまだ二十代の若輩だった。その上、小山家と同様当主の早逝が続いていた。後ろ盾のない若い宗家の統括に不安があったため、後醍醐から勅任を受けたのだという。
結城氏の事情は、そのまま小山氏にも当てはめられる。
子どもに一門一族を統括できるのか。
――その通りだ。
藤井に裏切りを許し、最も血の近い叔父秀政は南朝方に与したままだ。
一門を見渡せば、長沼は南朝に転向し、結城は分裂、小山の三枝は、南北の朝廷勢力に引き裂かれてしまった。
「儂は小山一門に、昔日の栄光を取り戻そうと思っているのだ」
昔日とは、鎌倉初代将軍源頼朝のもと、小山三兄弟が活躍していたころを指す。
彼の言うとおり、後醍醐から目をかけられた白河結城氏を除いて、一門の低迷は明らかだった。
「この乱世、頼朝公が兵を挙げたころに似ていると思わぬか」
新時代の波に乗り、一門を再興しようと説く。
「鎌倉幕府は創生期を過ぎると、執権一族の専横を許した。我らは北条氏の家人に成り下がり、領地や権勢を奪われた。それを取り戻さねば先祖に申訳が立たぬとは思わぬか。のう」
宗広に促されて、朝氏はようやく口を開く。
「それならば、将軍家(尊氏)のもとで身を立てるのも同じではないでしょうか」
朝氏は烏帽子親たる尊氏を裏切るわけにはいかなかった。
「将軍家か。だが、彼の御仁の周囲には、歴代執事の高、外戚の上杉を除いても、一門だけで細川・斯波・畠山に桃井らがすでにおる。そなたがどんなに尽くしても、彼らの下から這い上がることはできまい」
反面、南朝は楠木を始めとする主将らを失い、戦力となる武将を喉から手が出るほど欲しがっている。
「我らはこの機に乗ずるべきだと思わぬか」
一門の復興、という観点からみれば宗広の言葉は全て正しい。
――けれど、何かが違う。
朝氏は、溜め息をついた。
「疲れたか。老人の長広舌は」
宗広は、憐憫の目で見る。
「そなたは大人の話が通じぬほど子どもではない。だが、何かを為そうとするには未だ子どもだ。――辛いな」
心のうちを読まれ、朝氏は震えた。
目をつむっていても、あのときの恐怖と安堵の入り交じった感覚が蘇る。
――安堵?
状況を知り得てなお、何もできぬ自分へのもどかしさ。それを必死に隠し、周囲の期待に応えて振る舞っていた。
それを看過され。
宗広は大器だ。
だが、自分の正しさを疑わず、自分が一門を牽引するから皆従えとする。
――本当にこの人に付いていって良いのだろうか。
朝氏の逡巡は、そのまま家臣たちの昏迷となった。連絡の拙さで、小山勢の一部が、鎌倉へ向かう奥州軍の背後を襲ったが、鎌倉攻略を目前に、大事の前の小事としてうち捨てられたのか、咎めは受けなかった。
十二月二十三日、奥州軍、鎌倉に布陣。
当地の政庁は、ほんの数年前まで、鎌倉将軍府と言い習わし、後醍醐の息子を征夷将軍として奉じていた。しかし、帝権の失墜とともに破綻。鎌倉府と言い換え、当主は尊氏の嫡男千寿王(のちの二代将軍義詮)である。当年十一歳。
関東の主将は皆子どもばかりだ。それというのも、壮年の父親が討ち死にしたり、一族が京に留め置かれたりしたためである。
このような状況で鎌倉の北朝勢は持ちこたえるはずはない。
翌建武四年(一三三八)正月、千寿王は逃亡し、鎌倉府は陥落する。
奥州軍はさらに京を目指す。
上洛への途中、北朝方の攻撃が予想される土地を無傷で通る。順調過ぎる西上に、顕家は不安を覚え、
「油断するな。関東一帯は足利方の武将が蟠踞する土地だ」
将兵らに注意を喚起する。
彼の警戒は当を得ていた。
北朝勢は無用な抵抗を極力控え既存の兵力を温存させ、各地の武将に軍勢を促したのだ。
彼らは奥州軍の背後を大兵団となって襲いかかり、このようすを当時の人々は『蝉を狙う蟷螂を鳥が襲う』と喩えた。
それは、いつか見た光景。
たった二年ほど前のできごとである。
逃げる新田、追う尊氏、さらに追う顕家。
大将の名が変わっただけである。
前回、尊氏は東西の軍勢の挟撃と合流を許し、敗北を喫する。今回顕家は尊氏と同じ役目を担う。
そして尊氏と異なったのは、その結末である。
大和(奈良県)、近江(滋賀県)、和泉(大阪府)・・・・・・
転戦と長旅の末、疲れ切った奥州軍は、勝敗に関係なく戦闘の度に離脱者を出した。もはや何のための戦いか目標を見失っていたからだ。
――何のため……
それは総大将たる北畠顕家も同じだった。
大義名分は後醍醐天皇のため。だが、その帝王はあまりにも暗愚に過ぎた。
後醍醐の政治家としての無能や人間としての欠陥はすでに述べたので、くり返さない。
けれど、顕家の若さは後醍醐と南朝の未来に期待した。決死の戦闘の合間に諌奏文を書き上げ奏上するが、その七日後、和泉石津で顕家は討ち死にする。天皇への諌奏は己れの死を予想しえた故だったか。
大人たちの出鱈目で、子どもや若者たちが死に晒される。
それはもう見慣れた光景か、あるいは時代のせいだと言うか――
彼ほどの俊器を失ってなお後醍醐が己れを省みることはなかった。
顕家の後を追うように、この年の閏七月、新田義貞も越前(福井県)藤島で戦死。
南朝の廃退は目に見えていた。
だが、後醍醐と彼の側近は、それでもまだ戦況を挽回し得ると、権力への執着を捨てることはなかった。
九月、南朝は親王二人を奉じ、陸奥に拠点を築く計画を立てた。伊勢大湊から船団を仕立て、顕家の父北畠親房や結城宗広も同行する。しかし航海の途中、暴風雨に遭遇し、船団は沈没と漂流の憂き目にあった。親房は辛くも常陸(茨城県)にたどり着くが、親王や宗広は伊勢に吹き戻され、起死回生の方策は水泡に帰す。親王は吉野に帰るも、老いてなお壮健だったはずの宗広は病に倒れ、まもなく没した。義貞・顕家亡きあと、小山本宗家どころか武家の棟梁への野心を抱いていた彼の無念はいかばかりであったろう。
南朝が迷走する間、小山の朝氏と藤井宗秀の関係はむしろ平穏を保った。政治的な思想に共鳴して宮方となったわけではない宗秀は、先行きの見通せぬ情勢に、中立を打ち出したのだ。鷲城と祇園城の勢力は歩み寄りを見せていた。
しかし、その均衡を破ったのは、常陸小田城に到着した北畠親房である。愛息顕家を失ってから、彼はいっそう南朝による国家統一を目指して奮闘する。北関東の武将を南朝に帰服させるべく、小田城を拠点として関東経営に着手する。あたかも北朝における鎌倉府のごとく。
常陸・下総は元来、小田を始め、関・下妻・伊佐等、宮方に与する勢力が多い。それを足がかりに、親房は各地の武将へ触手を伸ばした。
その影響は、下野の小山にも直ちに現れた。




