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犬鏡外伝 Side By Side ―双璧―  作者: 奥瀬
第一部 お兄ちゃんとぼくのバサラ戦争
4/13

お兄ちゃんが裏切られて、敵に囚われてしまいました。

 去ること元弘元年(一三三一)、倒幕の兵を挙げた後醍醐に対する北条政権の言詞は、

「天皇、御謀叛(ごむほん)

 まさに尋常でない時代の幕開けに相応しい。

 倒幕運動はすぐに鎮圧され、天皇は隠岐に流される。しかし彼は不屈の精神を見せつけた。絶海の孤島を脱出し、反北条の武将を糾合して、倒幕を成功させてしまうのだ。

 時代も彼に味方した。

 先の合戦では幕府軍が勝利したものの、政権に漂う末期症状の匂いを武将たちは嗅ぎつけていた。彼らは、こぞって後醍醐に参じ、帝王の執念は実る。


 後醍醐を倒幕にまで駆り立てていた幕府への憎悪と敵意。

 その根源は、皇位継承問題の調停にあった。

 彼の曾祖父後()嵯峨(さが)上皇の偏愛から分裂した皇統は、彼の祖父亀山上皇の偏愛によって再び分裂する。

 持明院統と大覚寺統。

 兄弟二つに分かれた系統を、幕府の調停によって交互に後継者を帝位に即けると決められていたものを。

 亀山は息子、後宇多天皇の長子(後二条)より、腹違いの弟(のちの後醍醐)を気に入り、帝位につけようと画策した。しかし後宇多は乗り気ではなく、むしろ弟皇子を疎んじる気配があった。皇子の母が父亀山と通じていたからである。

 父親が息子の嫁を寝取る。

 その(しとね)の上で、後醍醐の母が息子の帝位を舅にねだったことは、想像に難くないが。

 これほど爛れきった皇室に、後継者問題を解決する力はなかった。

 そこで、またも幕府の登場である。

 当時はまだ力のあった幕府によって、後二条天皇の皇太子は持明院統の皇子、次代に後醍醐をと決定されるが、皇位はまた持明院統に返さねばならない。

「天皇にありながら、己れの後継者を決める権限もないのか」

 即位後、後ろ盾だった祖父亀山も、このころは別の妃に子どもを生ませ、後醍醐への関心をなくしていた。

 後醍醐の孤独と権力への渇望は深まる。

 そして皇位に就いて三年、「天皇に父なし」として父後宇多上皇の院政を停止し、親政を開始するのだ。

 皇帝たる己れがこの世で一番尊いと。

 それでいながら、自分以外の天皇経験者をないがしろにして省みない。

 帝位奪還後、己れの隠岐配流中に在位していた持明院統の光厳天皇を、ニセの天皇だ、自分は退位した覚えはないのだからと、その存在を全否定する。在位中の政治的決定も白紙に戻し、為に、国政は錯擾(さくじょう)を極めた。

 誰も、天皇の出鱈目をただす者はなかった。

 すでに大覚寺統は、父も兄も皇位を継ぐはずだった兄の子も去し、彼一人のものとなっていた。

 彼には己れしかなく、また己れだけで十分であった。

 多産で三十四人ともいわれる子どもですら、保身のため斬り捨て、死に至らしめたこともあった。

 多情にして非情。

 彼は、公家も武将も己れの意に染まらぬものであれば、徹底的に排除した。

 それが、自分を慕い臣従した者でさえも。

 新田義貞は、尊氏との講和の障害として遠ざけられた。皇子を預け、再起のためだと丸め込まれ、北陸へ追いやられるのだ。


 京では尊氏の推す持明院統の光明天皇を認め、上皇となった後醍醐は政務から引退する。

 足利兄弟が権力を掌握し、天下は平和へと向かうかに思われた。

 武家政権たる幕府の設営地は、鎌倉を勧める直義らの意見もあったが、後醍醐とその周辺らの重石となるよう京に定めた。軍事は尊氏、行政は直義。兄弟は互いの得手不得手を補うように、武家中心の新秩序の構築に着手した。


 しかし、関東では西上した武将たちの留守を狙うかのように、足利政権に反発する勢力が各城を襲撃した。

 八月、奥州と鎌倉を結ぶ要衝たる小山祇園城への攻撃。

 九月、旧官軍と宇都宮氏領にて合戦。

 小山勢は常犬丸の京都駐留に兵を割かれていたが、いずれも居残りの郎等らの奮闘や、近在の足利方の助勢により敵兵を追い払っている。

 留守を預かる今犬丸や大後家は、曲輪から西の鷲城、北の祇園城と遷り、戦況を見守った。両城はともに北西を流れる思川を背にした堅牢な城であるが、

「見守ると云っても、本当に見守ることしかでませんね。このようなとき女子(おんなこ)どもは無力なものです」

 大後家は言い聞かせるものの、今犬丸は漏れ聞こえる鬨の声や怒号に怯えて泣くだけである。

「おばあさま、私が早く大きくなって、敵をやっつけてさし上げます」

 武将の子として、そのような力強い返答を期待していたのだが。

――まだ八つであれば、この程度のものか。けれど、常犬丸であったならばもう少し・・・・・・

 孫の将来を思い、溜め息をつく。


 収まりを見せぬ関東の情勢を、京の尊氏も傍観してはおられず、一門の桃井(もものい)を全権に、関東の武将たちを本領へと戻した。

 この中に、常犬丸の小山勢も含まれる。

 尊氏自身も、可能であれば関東の下向を考えていた。

 しかし後醍醐上皇が、両統迭立や政務からの排除をどうしても認めがたいと、警備の隙を突いて吉野へ出奔してしまったのである。

 人々は上皇の逐電にあわてふためいたが、尊氏は一人、余裕の体で、

「いつかこうなるだろうとわかっていたさ。もういい。警備の手間やら遠流の沙汰やら面倒がなくなって、せいせいした。これで院も、適当なところに落ち着いてくれればいいんだが」

 不手際を咎められるかと真っ青になっていた部下へ、軽口を叩いた。

 尊氏なりの思いやりである。 

 しかし後醍醐は、尊氏もまさかの行動に出る。


 建武三年(一三三六)十二月、後醍醐は院を返上し三度(みたび)天皇を名乗る。吉野へ味方となる公家や武将を呼び寄せ、『朝廷』の運営を開始したのだ。

 北の京都に、南の吉野。

 朝廷は分裂し、この日本に『南北朝』と呼ばれる時代が始まる。


 久しぶりの故郷、小山。

 武家方の増軍に敵勢は退き、束の間の平和がおとずれていた我が城で、常犬丸は弟に会うことをためらった。

 京で加冠を済ませた彼は、童形を捨てていた。

 十歳での元服はやや早過ぎる感もあったが、核となるべき当主としての立場から受け容れた。また京であれば、烏帽子親たる貴顕に事欠かない。家臣らの奔走により、烏帽子親は将軍足利尊氏と成り、常犬丸は一字を拝領して『朝氏』の諱を与えられた。

 頭髪を(まげ)に結い、烏帽子を戴くと、

「数年の歳月を跳び越えられて、成長なさられたような」

「見違えましたぞ」

 大人たちから口々に言祝がれる。

 鏡を見て、自分でもそう思う。

 けれど、弟の今犬丸はどうか。出立の際のようすを思い出して、

 ――またぐずられるのはいやだな。

 気に懸けながら小山に帰ったところ、意外にも弟は、見慣れぬ兄の姿に目を丸くしつつ、

「烏帽子の中はどうなっているの? 見せて見せて」

 興味津々で、烏帽子を奪い取ろうとする。

 朝氏は笑って、

「こら、勝手なことはいけないよ」

 烏帽子を片手で押さえながら、

「それに大人は頭部を(あらわ)してはならないんだ。裸をさらすようなものだから。どちらも礼を失した行いだぞ」

 弟を制する。

「ふーん。それなら、ぼくも早く元服したいな」

 今犬丸は朝氏の頭部を羨ましげに見上げた。

 何でも兄の真似したがりの弟である。

 

 吉野の後醍醐天皇は、前回の勝利に味をしめ、奥州の顕家を召喚した。奥州とて旧北条党の他に、尊氏が遣わした武将らと覇を競っていた最中である。しかし、再三の要請を断り切れず、建武四年(一三三七)八月、顕家は再度の上洛を決意した。

 本拠とした(りょう)(ぜん)城から伊達や南部ら宮方諸侯を率い、途中、北朝勢力を平らげながら南下する。

 白河では当然のように結城宗広の軍勢が加わった。

 小山氏一門からは白河結城の他、頼朝が奥州征伐の(のち)関東の守りにと南奥の要衝に置いた菊田の小山、南山の長沼らも参じた。かつて宗家の庶流として下った彼らも、一族・一門から独立を目論み。

 白河の関を越えれば関東は目の先。下野北部はすでに奥州軍の手の内にある。

 同年三月より宇都宮に陣取った南朝勢が、北朝方の小山祇園城へ攻撃をくり返していた。しかし、小山勢の堅固な守りは、南朝勢を苦しめた。

 九月々(つき)(ずえ)、士気が衰えかけたところへ、神将北畠顕家の登場である。南朝方は沸き立った。顕家は奥州宮方の数万の兵を引き連れ、さらに三月ほど宇都宮の城に留まり、後陣の到着を待った。

 年の瀬も押し迫るころ、下野の情勢は一変する。

 顕家軍の南下が開始されたのだ。

 対する小山勢は何としてでも阻止しなければならない。

 しかし、その中で少年領主を将として戴かざるを得ない一族の心細さ。

 だが、それを補ったのは、藤井出羽守宗秀である。

 宗秀は京からの帰東後、家臣団を引き連れ、曲輪に訪れた。

「大後家さまのお力になればと存じ、お恐れながら」

 京や九州における合戦の恩賞を請求するため、各部将から膨大な数の軍忠状が『下野守護』のもとへ届いていた。日常的な下野守兼守護の職務の上に、合戦を間近に控えていたこともある。これまで通り大後家と近臣のみで捌けるものではなかった。かといって沙汰を放置しておけば、配下の者から背信を招く。

「我らは、合戦に参加し、他の武士団の活躍を見聞きしました。その上、功績の多くを占めております。適任でしょう」

 宗秀の申し出は(もっと)もで、ありがたいといえばありがたい。

曲輪内の執務は、行政を大後家、軍事を宗秀と振り分けられる。

 藤井の家臣団が曲輪の一処(ひとところ)を占め、彼らは小山氏の下野経営に欠かせない存在となっていた。

 その宗秀が言う。  

「奥州軍は宇都宮から進軍を開始したとのこと。国衙・守護所のある小山で単に彼らを待ち受けるのは得策ではありませんね」

 これに、大後家が、

「藤井殿には何か戦略がおありか」と、訊ねる。

「はい、小山より北にある藤井の城で、我らが囮となって奥州勢を引きつけます。そして南側の小山勢と連携し、挟撃を図るのです」

 自城を囮に戦う、その並々ならぬ姿勢は、祇園城の人々の心を掴んだ。宗秀のふだんの言動が、少々頭が高いと感じていた小山の家臣らも、ようやく信頼を託そうという気になるのであった。


 粉雪が舞い散る中、朝氏の郎従を幾人か連れ、宗秀は藤井へ発った。己れの郎等も数名ほど祇園城に残した。

「こうやって、我らの絆が強まれば良いかと」

 宗秀の提案に人々は納得する。

 京では朝氏の叔父が南朝につき、親族でさえ敵味方に分かれる状勢である。互いの裏切りを防ぐためにも必要な措置であった。

 別れ際、宗秀が言う。

「いいですか。あなたは小山の主であり、下野の守護なのです。部将たちにしっかりと勇姿を見せつけてください」

 朝氏は大きくうなずいた。

 自ら弓を引くでもなく、軍勢の指揮をとるでもない、ただここにいるだけの存在。しかし、朝氏は己れの責務を自覚していた。

 大義、名分(みょうぶん)。そう云ったもののために。


 宗秀が藤井城に立て篭もり、奥州軍を待つ。

 だが、ここで思わぬ事態に陥る。

 奥州軍の本隊は藤井を無視して、小山に兵を進めたのだ。

 庶流の藤井など相手にせず、直接宗家と対決しようと。

「策士、策に溺れるとはこのことですね」

 宗秀を指して野崎が言う。

 しかし、

「いや、今度は逆に、祇園城を囮にして、藤井と挟撃を図ればいいだろう」

 朝氏が大人びた言い方をしたので、郎従らはほうっと感嘆の声を上げた。

 なるほど、その手もあったかと。

 小山周辺には近在の北朝勢も駐留しており、心強い。

「鎮守府大将軍も、噂ほど戦術に長けた方ではなかったようですね」

 だが、翌朝、家臣らは、祇園城を取り囲む顕家の軍勢を見て、その言を撤回せねばならなかった。

 城本の台地を埋め尽くす大軍勢。

 十万とも称する軍勢に戦術など必要はない。あるいは、この威容を見せつけることこそが戦術だった。 奥州勢を揃えるため、季節を跨いでまで宇都宮に留まったのは、それ故である。

 武家方(北朝)の援軍の多くは蹴散らされ、残りは戦わずして下総結城(茨城県南西部)まで退いた。

 祇園城の小山勢が怯懦な士卒であれば、これを知っただけで直ちに投降しただろう。

 しかし、彼らは不屈の構えを見せた。

 十三昼夜連続の攻撃にも耐える。

 一方、藤井からの連絡は途絶えていた。

 すでに投降したか。それとも奥州勢の別働隊に城を囲まれて、手も足も出ないか。

 どちらにしろ、彼らの救援は期待できなかった。

 矢種は絶え、士気も徐々に低下する。

――あと、どれほど持ちこたえられるだろうか。

 朝氏の胸に不安が過ぎった。

 夜半、西側の切岸に異変があったと、家来から報せを受けた。

――よもや思川にも敵が廻ったのか。

 城の人々は騒ぎ出す。

 けれど、城の者だけが知る、切岸の抜け道から現れたのは、藤井宗秀であった。

「随分とねばられましたな。四郎殿。お見事です」

 彼は、対面した朝氏を賛した。

「よくぞ来られました、藤井殿。敵のあの包囲網を突破できたなんて」

「何、この辺りは我らの庭でしょう。思川を夜陰に紛れて下り、切岸の抜け道は小山の郎等に案内させれば容易いこと。まぁ、私の方略は見事足元を掬われてしまいましたがね。もう一度戦略を練り直したのです。何しろ、大勢を前に小勢を分けるのは愚策。我ら一丸となって奥州勢と戦い、鎌倉からの援軍を待ちましょう」

 宗秀は流暢に今後の策を開陳した。

 思わぬ助勢を得て、祇園城の将兵らは再び奮い立った。

 翌日、庭先から聞こえる人馬のざわめきに起こされ、朝氏は館の濡れ縁に出た。

 そこには甲冑姿の宗秀が馬に跨り、郎等らを率いていた。

「奥州勢に挨拶を、と思いましてな」

 馬に乗ったまま、朝氏の前に進む。

 今から大手の城戸を開いて、攻め手を攻撃するのだという。

「藤井でも籠城ばかりで、体がなまってしまいましたよ」

 例え討って出たとしても、戦略的な効果があるわけではない。ただ膠着した籠城戦にあって戦況に変化をつけ、士気の低下を防ぐのだと。

「私の活躍を存分にご覧ください」

 宗秀は自ら兵を率い、奥州勢と戦うつもりらしい。不敵な笑みは最初に会ったときと変わらない。

「藤井殿を頼もしく思うよ」

 朝氏も笑顔で応えた。

「さぁ、私はこれで失礼致します」

「ご武運を」

 宗秀は馬上から軽く会釈をすると、馬に鞭当てた。

 結局、一度も下馬の礼を取ることもなく、背中を見せた彼を、

「……あまり、お行儀の良い方ではありませんね」

 野崎のつぶやきを、朝氏は聞き流した。


 大手前の奥州勢を矢で射払い、小山勢は城戸を大きく八の字に開いた。

 宗秀が郎等を連れて勢いよく駆け出す。奥州勢に向かって―――

 だが、藤井勢は奥州軍の面前で突然立ち止まるとろくに戦いもせず、退却を始めた。出て行った際と同じ勢いで。

「どうした? 何かあったのか?」

 城方が心配げに見守るなか、藤井勢は城戸を潜りぬけると、さっと体の向きを変え、門を閉ざそうとする城方の兵へ弓矢を向けた。

 城戸を守っていた小山の兵は、藤井の突然の変心に為す術もなく、射殺されていく。

 守備を欠いた大手には敵方が押し寄せ、なだれ込むように城内へ侵入した。

 もはや城戸を閉ざすこともできず、城は敵方であふれ返った。

「裏切られたか、藤井殿!」

 城中の誰もが驚き、叫んだ。

 けれど、全ては遅く。

 広大な敷地を藤井が先払いとなって奥州勢を案内する。

 城主朝氏の居館へ。

 途中、さすがに宗秀は、

「あの建物です」

 指で示めしただけで、それ以上は進まなかった。

 館を囲んだ奥州勢が矢を射込む。

 迎え撃とうとする朝氏の郎等は、大勢の敵を前に、ばたばたと倒れて行く。

 もはや勝機などない。

 その光景に、

「投降しよう、野崎」

 朝氏はかたわらの近侍に言った。

 生きる道を選べとした祖母の言葉。

 その祖母は今犬丸とともに鷲城にいる。

「勝つ見込みもないのに、戦って死のうとか、自害しようとか、それは絶対に許さぬと将兵たちに伝えて」

 込み上げてくるものを必死で堪えながら、命令を下す。

 集団自決の無意味さを知っている。それは野崎とて同じだった。

 連絡役に馬を飛ばして叫ばせる。

 武器を捨てろと。

 奥州勢は拍子抜けしただろう。あまりにも容易く城方が戦闘を放棄したのだから。

「大将は子どもだってさ。だから根性がないんだ」

 敵兵たちは嘲笑した。

 朝氏が生け捕られたと聞くと、

「その子ども大将を見てみたい」

 野次馬となった兵らで、周囲は黒山の人集りとなった。

 見せ物となって辱めを受ける朝氏。

 己れの城で、土の上を歩かされる。体を後ろ手に縛られ。

 屈辱に体中が熱くなる。

 その彼へ向かって、氷刃を差し入れるように一対の人馬が通り抜けた。

 兵らは馬上の武将の顔を()、慌てて道を開いた。

 鎮守府大将軍、北畠顕家だった。

 戦場に場違いなほどの至貴を帯びて、彼は朝氏を見下ろした。

 朝氏も、相手を奥州勢の大将と認め、じっと見つめ返す。

 だが、顔色は熱を失い、引き結んだ唇は微かに震えていた。

「そなたは運がいい。我らの軍勢が強すぎた故に、生きて虜となることができたのだ」

 確かに、力の拮抗した軍勢同士では合戦は長引き、死傷者も増えていたことだろう。

 しかし、だまし討ちがそれほど偉いのか。

 睨みつける朝氏の視線を、顕家はふっと外した。

「まぁいい。子どもの処分は老人に任せよう」

 朝氏の後ろ手にあった戒めを(へそ)の前で縛り直させた。それは顕家のせめてもの優しさだったか。


 顕家は白河の結城宗広に朝氏を預けた。

 何となれば結城氏は小山の出である。血族として彼の生殺与奪を請け負うに、これ以上の人選はない。

 数日間、祇園城を拠点に兵らを休めさせると、顕家は軍勢を出発させた。

 その際、宗広に訊ねた。

「小山の子どもはどうしたか」

「宮方へ付くよう言い聞かせて、鷲城へ帰らせました」

 老将の返答に、顕家は唖然となって目を見開いた。

 日ごろ人に感情を悟らせることのない、この若き将軍が驚く(さま)を、宗広は愉快げに笑った。

「子どもといえど、懇々(こんこん)と諭しましたところ、何か通じるものがあったようです。これからは宮方に協力すると」

「そのような口約束、信ずるに足るものか」

「いいえ、起請文も書かせましたし、四郎が約束を違えることはないでしょう」

 自信ありげに答える。

 自信?

 彼のそれは何を根拠にしたものか。朝氏への信頼か。それとも遠縁の子どもを説得しえるとの己れへの自負か。 

 しかし、朝氏の件について、顕家は深くかかずらってはいられなかった。

 小山を攻略し、鎌倉まであと一息。

 気を引き締め直す顕家は、決して油断などしていなかった。

 けれど、奥州勢の背後を小山勢に突かれ、驚かされる。

 彼らを容易く追い払った顕家であったが、

「だから言ったであろう。子どもとの口約束など……」

 思わず、宗広に当たる。

「いいえ、同じ二つ巴の紋所といえど、あれは別の一派でありましょう。小山宗家は、統制ができかねるようですな」

 宗広の余裕の笑みに、顕家は彼の野心を見る。

 ――小山宗家の分裂を見越していたか。

「だが、我らの敵となる勢力を残されてはな」

「いや。これからですよ。成果が現れるのは」

 宗広の自信は揺るぎない。

 ふと、昨年のちょうど今頃のことを思い出す。

 後醍醐天皇が吉野へ出奔した時期。

 北関東では戦闘が激しさを増し、戦略上、小山の東、結城郡結城城を攻めることとなった。顕家と宗広はそれぞれ代官に軍勢を与え、関東へ送り出した。

 下総結城の頭領朝祐は尊氏軍に従軍し、この年筑前多々良ヶ浜で討ち死にしている。跡を継いだ子息の(ただ)(とも)は十二歳の小児に過ぎず、加えて、下総結城氏は自身の宗家である。

 それを何のためらいもなく攻撃させた宗広。

 ――この男の狙いは、結城宗家の実権、さらには小山家惣領の座まで・・・・・・

 子どもばかりの不安定な一門に揺さぶりをかけ、隙を見て乗り込む。

 今の地位に飽きたらず、さらなる権力への渇望。

 結城城攻略は、彼にとって命令以上の意味があったのだ。

 ――皆、己れのことしか考えていない。

 宗広だけではない。

 顕家の脳裏に、全く別の男の顔が浮かんだ。

 それを、無理にでも振り払う。

 万端、目の前の合戦が先決である。

 鎌倉へ迫る顕家は、すばやく当地の制圧に掛かった。

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