番外編 闇の侯爵の軌跡
書籍版『ハーシェリク 転生王子と光の英雄』の番外編。
バルバッセの闇落ちな過去話です。
ヴォルフは、学院の成績は常に首席の優秀な青年だった。国内有数の侯爵家であるバルバッセ侯の嫡男であり、濃い榛色の髪と瞳で容姿も彫りが深く整っている。話術も巧みで社交に秀で、学院卒業後は王城での登用が決まっている、模範的な貴族であった。
卒業を控えたある日、学院の廊下を歩き、開け放たれた窓の傍を通ったとき、声が聞こえた。
「イヴァン、ちょっと付き合え!」
その声に足を止め、視線を向けると、燃えるような赤髪の青年が、目に入る。
(あれは……)
一つ下の、騎士学科に所属するオルディス侯爵家の嫡男だ。
同じ侯爵家の嫡男ということだけでなく、なにかと目立つ生徒で、ヴォルフは彼のことを知っていた。
例えば、中等部へ進級した直後、因縁をつけてきた高等部の先輩を訓練で打ち負かした。課外授業で、大物の魔物を一人で倒した。夏季休暇中に、身分を隠して傭兵ギルドに入り、傭兵たちと混ざって依頼をこなした……等々、騒がれる問題児だ。
だがそれでも、代々騎士を輩出する名門のオルディス侯爵家のためか、武技は追従する者がわずかで、軍略にも明るく、性格も気さくなため未来の騎士たちには慕われている。
また容姿も赤髪に同色の瞳の精悍な顔立ちで、体躯も逞しく、将来性もあり、女子生徒からの人気も高い。
将来は将軍や近衛騎士隊長になる、と言われている。
そんな青年に話しかけられた青年イヴァンは、バルトルト伯爵の跡取りである。伯爵と貴族の位は高くはないが、近衛騎士を何度か輩出した家系である。
「……ローランド、課題はどうした?」
「いいから、いいから!」
訝しむイヴァンに、ローランドが強引に肩を組んで引き寄せる。そして引きずるようにして、学院内の訓練場に向かおうとした。ローランドの相手をするほどの実力を持つ学生は、既に学院内には彼しかいないのだ。
「あ、ローランド、俺も混ぜてくれよ!」
「俺も俺も!」
「オルディス先輩、僕も稽古をお願いします!」
そんな彼らに気がついた、騎士学科の生徒たちが集まってくる。そんな彼らに、ローランドはにかりと笑ってみせた。
「いいぞ! だけど後で課題付き合ってくれよな!」
「……まさか、それに私は入っていないよな?」
その言葉にイヴァンが眉間に皺を寄せたが、ローランドは気にせず、彼と集まった仲間たちとともに、廊下の先へと消えていった。
「……気楽なもんだな」
窓から彼らを見送ったヴォルフは、呆れつつ呟いた。
学院を卒業してから、一年が経過した。
ヴォルフは日中王城で働き、家に戻ると当主である父に呼び出された。
父の待つ書斎に入った瞬間、酒の匂いが鼻を突き、ヴォルフは顰める。
「ヴォルフッ」
父の怒鳴り声が聞こえたと思った瞬間、額に激痛が走った。そして濡れた顔面と強くなった酒の匂い、そして絨毯の上を転がったグラスを見て、父に酒の入ったグラスをぶつけられたのだと理解する。
無言で顔にかかった酒を片手の袖で拭っていると、その行動が癪に障ったのか、当主は声を荒らげた。
「あのオルディス家の倅は、王太子の筆頭騎士になったと聞いたぞ! それに比べお前はいつまで下っ端でいるつもりだ! それでもバルバッセ家の跡取りかッ」
父の言葉に、ローランドも城で聞いたことを思い出す。
ローランド・オルディスが、初陣で敵総大将を討つという大功を立て、それが王太子の目に留まり、筆頭騎士に任命された。
筆頭騎士は貴人直属の臣下だ。王太子の筆頭騎士ともなれば、将軍職には届かずとも、近衛騎士以上の地位である。学院を卒業して間もない新人の騎士が、戦場で大功を立てた上、優秀な王太子の筆頭騎士に抜擢され、王都は沸きだっていた。
燃えるような赤髪から、ローランドは『烈火の騎士』と異名を轟かせた。
その噂を聞いて父は荒れているのだと察し、ヴォルフはため息をつきそうになるのを堪える。
ため息をついたことを知られれば、次は酒瓶が飛んでくるのだ。
なぜ父がオルディス家当主を目の仇にするかというと、父が恋慕し執着していた令嬢が、オルディス家現当主を慕っていたからだ。その上、求婚した己を振り、オルディス侯爵家へと嫁いでいった。
自尊心が傷ついた父はそれ以降、なにかとオルディス侯爵家を敵視し、息子同士を比較している。
自分は文官で、相手は武官。ヴォルフに言わせれば、比べるのも愚かしいことである。
実の父の愚かさに、ヴォルフは軽蔑の視線を向ける。だが父は気づかず、酒を瓶のまま呷った。
「我が侯爵家は、名門中の名門、由緒正しき貴族だ。あんな領地も持たん粗忽な家に、劣ってはならんというのに……どいつも、こいつも、私を馬鹿にして……」
そうぶつぶつと呟き、最後は自分が呼んだにもかかわらず、ヴォルフを書斎から追い出した。
(馬鹿にされるのは、あなたが無能だからだろう)
部屋の扉を閉めたヴォルフは、そう心の中で呟く。
父は、何か才能があるわけでもなく、能力は平凡以下。しかし自尊心が高く傲慢。爵位だけが取柄で、貴族たちから陰で笑われているというのに、気がつきもしない。
無能なら無能らしく大人しくしていればいいものを、賭博や新しい事業に手を出しては失敗し、金を浪費する。
浪費された金を補填するのは、すべてヴォルフだった。
父の浪費のせいで、ヴォルフの給金は消えてしまう。
学生時代から押し付けられている領地経営も芳しくない。借金を作らずにいられるのは、ヴォルフの手腕だった。
父は仕事せずとも当主の座は手放さず、的外れな口出しをし、さらに見栄のために金を浪費していく。
これを無能だと言わずして、何を無能だというのか。
己のなかに、暗い負の感情が蓄積されていく。
「ヴォルフ様……」
躊躇いがちに名を呼ばれ、ヴォルフは我に返った。
視線を向ければ、いつの間にか執事が控えており、タオルを差し出している。
ヴォルフはタオルを受け取りつつ、深くため息を漏らした。
「その資料は、見た覚えがないな」
「は?」
上司の言葉に、ヴォルフは思わず声が出た。期限前に提出した資料が、今日担当部署より届いていないと連絡があったのだ。
「確かに昨日提出しましたが……」
「なんだ? お前は私が、紛失したとでも言いたいのかね!?」
ヴォルフの言葉に、上司は眉間に皺を寄せ、机を叩く。子どものように癇癪を起こす上司に、ヴォルフは内心舌打ちしつつ、謝罪の言葉を述べた。
もともとこの上司とは、合わなかった。この上司は父のような人間で、自分が無能だと気がつかず、威張り散らしている。何度かミスを指摘していたら、彼に敵視されるようになった。
「これだから、落ちぶれた侯爵家というのは……」
侯爵家といっても、既に名ばかりだ。上司は伯爵位だが裕福な家、なにかにつけてヴォルフを下に見た。それをヴォルフは、無言で凌ぐ日々である。
「ああ、君」
上司は通りがかった同僚を呼び寄せる。ヴォルフよりも二つ年嵩だが、配属変更で同時期に同じ部署になった役人だった。
「君、前回の資料、とてもよかった」
「ありがとうございます!」
そう目の前で繰り広げられる茶番に、ヴォルフは辟易する。こうやって上司は、別の人間を褒めることで、自分を貶しめたいのだ。それに同調する同僚にも、呆れる。
いつものことのため、ヴォルフが流そうと視線を逸らすと、彼が作った資料が目に入った。
その内容に、ヴォルフは目を見開く。
「その資料は……」
「なんだね、バルバッセ侯爵家の若君? この資料は君の不備で遅れたものを、彼が用意してくれたんだが」
そう言って卑しく笑う上司。ヴォルフは拳を強く握る。そうしなければ、彼を殴り倒してしまいそうだったからだ。
以前苦労して作成し提出し、しかし上司は受け取ってないといっていた資料と酷似していた。作成者には同僚の署名がされている。
過去、何度も同じようなことがあったが、まさか……。
ヴォルフは眉間に皺を寄せ、上司を睨む。その眼光に、上司は眉を跳ね上げた。
「なんだね、その顔は! 君は仕事をなんだと思っているんだ!? これだから落ち目の貴族はッ!」
上司はそう叫び、机を激しく叩く。
「今回の資料も、彼に用意してもらうからいい! 君は別の案件に取り掛かりたまえ! 期限は明日までだ!!」
怒鳴りつけ、犬を払うかのような仕草をする上司に、ヴォルフは無言のまま頭を下げ、背中を向ける。
背後から、聞えよがしに上司が言う。
「そうそう、君。父君にお礼を言っといてくれないか? 先日頂いた酒は、とても美味だったと」
その言葉に、ヴォルフはすべてを察した。
上司は同僚の父親から賄賂を受け取り、彼の評価を上げるべく、自分の成果を横流ししたのだ。酒と言っていたが、実際は金品だと察しがつく。そういえば、配属当初上司が、賄賂を要求するようなことを言われたが、その余裕もなく無視した。
仕事のミスの指摘だけでなく、まさかそれも根に持たれているとは……。
(これが、大国の中枢だとは笑えてくるわ)
グランディナル大陸でも、大国と呼ばれるグレイシス王国。学生時代は気がつかなかったが、王城で働くようになって、その内部が腐敗していることに嫌でも気がついた。
現国王は気弱で貴族のいいなり。貴族は派閥でいくつにも分かれ、政権を争いながらも、己の利益を貪る。下の者は上の者の顔色を窺い、賄賂を渡して身の安全を図る。能ある者は無能な者に足を引っ張られ、狡猾な者は弱者を踏み台にする。
ヴォルフは怒りのまま、部屋を飛び出した。
上司への怒りだけではない。
ヴォルフは、国をよりよくしたいと理想を持っていた。その能力が、自分にはあると信じていた。父のせいで落ちぶれようと、大国有数の侯爵家であることに、誇りを持っていた。
だが、現実はどうだ。
父のせいで侯爵家の誇りは地に落ち、国政は能力よりも派閥と金が物を言う。
理想と現実の差に、ヴォルフは怒りでどうにかなりそうだった。
渡り廊下を進むと、ふと前から誰かが来ることがわかった。それが誰かを知り、ヴォルフは急ぎ脇へと退くと、頭を下げる。
現れたのは、王太子だった。グレイシス王国の王族は、皆が麗しい容姿をしている。王太子も例に漏れず、美しい容姿をしていた。
颯爽と歩く彼の後ろを、補佐官が追っていた。
「殿下、どちらへ行かれるのですか!」
「すぐ戻る。ロウ、ついてこい」
補佐官の言葉に、王太子は簡潔に答え、自分の筆頭騎士に命じる。
ヴォルフが頭を下げたまま上目遣いに見れば、ローランドが王太子の行動に呆れながらも、付き従って、去っていった。
(……なぜ)
なぜ、同じ侯爵家でこうも違うのか。片や王太子に認められ、地位が約束された者。片や上司や同僚に足を引っ張られ、不遇な者。
この差はなんだ。この理不尽はなんだ。私が何をしたというのか!
負の感情が、ヴォルフを支配する。
その感情は長い年月をかけて積り、ヴォルフの心を削り、蝕んでいた。
それはまるで広がり続ける、底なしの空虚な穴。
ヴォルフは、その穴を見て見ぬふりをしてきた。近づいてはいけない。覗いてはいけない。堕ちてはいけない。
だが既に、穴は彼の足もとまで広がっていた。
(ああ、そうか)
そして、ヴォルフは至った。
(力がないのなら、奪えばいいのだ)
自分を貶めた、彼らのように。自分には、その能力があるのだから。
このときが、彼が道を違え、闇に堕ちた瞬間だった。
空が夕闇で染め上げられた頃、ヴォルフは帰り支度をする上司の前に立った。室内には自分と上司しかいない。
「室長殿、ちょっとお話が……」
「なんだね? 私は忙しいのだが? お前はその程度もわからないのか? ……これだから」
「そのような口の利き方、私にしてもいいですかね?」
落ちぶれた貴族は、といつものように嫌味を続けようとした上司を遮り、ヴォルフは彼の目の前に書類を投げ捨てる。
「あなたが決済した申請で、どうしても金額が合わない部分があるんですが」
「な、お前は、誰の許可を得て、決済済みの案件をッ」
「過去の案件を参考にするためです。それで、偶然見つけまして……この差額、どこにいったかご存知ですか?」
ヴォルフはそう言って、上司を見下ろす。彼よりも上司のほうが身長が低いため、否応にも威圧感が増した。
いつも無言で表情を歪めていた部下の豹変に、上司の傲慢さは姿を隠し、顔色を段々と悪くし、目を泳がせる。
彼は完全に、ヴォルフに呑まれていた。
「な、なんのことか……」
「そういえば、借金の返済、終わったそうですね」
ヴォルフの言葉に、上司の肩が揺れる。
バルバッセは上司のことを調べつくしていた。上司は花街の女に貢いで、かなりの額の借金を背負っていた。しかも借りたところが悪徳で、かなりの利息を上乗せされ、強引な返済を迫られていたのだ。
彼も父と同じ、見栄や体裁ばかりを気にする無能だった。いや、父よりはマシかもしれない。彼には他人を利用して立ち回り、己の地位を安定させるという狡猾さがあったのだから。
ヴォルフにとっては、さほど違いはないが。彼も父も無能で、不要な存在だ。
だが、彼にはまだ利用価値がある。
「……何が目的だ」
「目的だなんて……私は、私のことを正当に評価していただきたいだけです」
そう言ってヴォルフは口角を上げ、笑ってみせた。目は一切笑っていなかったが。
「そういえば、我が父は酒が好きなんですよ。室長殿と同じですね?」
翌日から上司は、ヴォルフへの態度を一変させた。なにかといえば彼を優遇し、ゴマをする。同僚たちは上司の変わりように驚き、ヴォルフに問うような視線を向けたが、彼はそれを無視した。
それが手始めだった。
ヴォルフはそのあと、貴族たちを手中に収めていった。手段は選ばず、無能者を脅し、有力者を罠に嵌め、派閥同士を争わせ、敵対者を排除した。
やがて若くして要職につき、多くの人間を従わせる立場となった。そのときには既に媚びる人間もいて、ヴォルフが何も言わずとも、彼に気に入られるために動き、貢いだ。
ヴォルフは、己の力を増大させていった。途中、ヴォルフの力を、己のもののように振舞った父もいたが排除し、ヴォルフは侯爵家の当主となった。
有用な貴族の令嬢を奥方に迎えたが、貴族の娘らしく高飛車で自意識過剰な女だった。その妻もヴォルフの力を己のものと思い込み、不遜に振舞った。ヴォルフはそんな女に辟易したが、離婚するのも体裁が悪いし、それほど妻に興味もない。
長男が生まれたあとは、妻の好きにさせ、存在を無視した。女など、望めば手に入るのだから。
時が流れ、ヴォルフは王城内の最有力派閥の長になっていた。他国とも通じ、有用な情報を仕入れては、己の都合が良いように、国政を操る。もちろん無能な者たちと違い、ヴォルフは己のやっていることを明るみに出すような、無様な失敗はしない。
万が一、出そうになっても、それは己の罪ではなく、『駒』の罪としてだ。それに握りつぶすことも容易い。
あと五年もあれば、この国は完全に己のものになる。ヴォルフは確信していた。
そんなとき、王が倒れた。そして王太子が即位することとなった。
新国王は、即位すると同時に、改革を実行した。
それは、ヴォルフが積み上げてきた力を削るものだった。
己の益を奪われ、反発する貴族や高官たち。逆に民衆は、王の改革に諸手を上げて賛同した。 民衆は王を『慧眼の王』と言い、彼を称える。
早まった者が、王を弑そうと動くが、騎士から将軍となった『烈火の将軍』ローランドにより取り押さえられ、裁かれた。そのせいで、貴族に対する取り締まりも強くなり、ヴォルフは迷惑を被っていた。
「王は、貴族をなんだと思っているのか!」
「我らこそが、代々国を支えてきたというのに、このような仕打ちをするとは!」
「バルバッセ殿、このままでは……」
集まった一派の者が、口々に言う。今のところヴォルフに害は及んでいないが、それは時間の問題だ。既に一派の一部は捕えられ、法の裁きを待つ状態だ。
もし彼らが自分の名を出せば、ヴォルフもただでは済まされない。
(邪魔者は、排除すればいい)
実の父親さえ、排除したのだ。己の行く手を遮るなら、王族だろうが関係ない。
ただ、王族という立場は少々厄介だ。やるからには今まで以上に慎重にならざるをえない。それにその後のことも、考えねばならない。
(……予定より、早くこの国をものにできそうだ)
目の前で派閥の者が、怒りに震えたり、戦々恐々したりしているなか、ヴォルフは一人嗤っていた。
国王が不明の病に倒れ、ついに崩御したと連絡を受けたヴォルフは、王城の廊下を進んでいた。これから王の葬儀の手配や、新国王の戴冠式など、準備をしなければならない。それに新国王は、王族で唯一生き残った、年は十の子どもだ。政に参加できるはずもない。
そこで幼い王に代わり、ヴォルフが摂政の役職につくことになった。
すべて、計画通りに。
ふとヴォルフの行く手を阻むものが現れた。
「バルバッセ……お前が……」
「一国の摂政に対して、一将軍がそのような物言いをしていいのか? オルディス将軍」
ヴォルフは口角が上がりそうになるのを抑え、厳かな表情で言う。
「私はこれから忙しくなる身だ。道を開けてもらおう」
そう言って歩き出そうとするヴォルフ。その行く手を、ローランドが片手を上げて止めた。もう片方の手は、剣の柄に添えられている。
「……お前は、この国を、どうする気だ」
絞り出すような、殺気の籠ったローランドの声。もし普通の人間なら、震えあがっただろう。だがヴォルフは、何も感じなかった。
「身罷られた陛下のためにも、我が身を粉にして、尽くさせていただく所存だ」
「尽くすか……白々しい」
吐き捨てるローランドに、ヴォルフは逆に問う。
「お主こそ、どうする気だ? オルディス将軍」
彼は有用な『駒』だ。彼の武力や軍事能力は、今後も重要になる。できれば、まだ処分はしたくない。
「……我が君の望むまま、この国を守るだけだ」
ローランドはそう言い、身を翻す。ヴォルフは何も言わずに見送った。
「主を失ってもなお命に従う騎士とは、哀れで滑稽だな……」
彼が消えたあと、ヴォルフは呟いた。
ヴォルフは摂政となり、国王が成人したあとは大臣となり、大国を陰から支配した。既に自分に逆らえる者はいない。処分するか、僻地へと遠ざけた。
途中、国王が抵抗を試みたが、娘を見せしめにし、妻と生まれたばかりの王太子、親しい者たちを人質にすれば心が折れ、従順となった。
私生活では無視し続けた妻が、嫉妬で癇癪を起こし狂言自殺を図って、本当に死んでしまったが、病死として片づけた。後妻に有力者から若い大人しい令嬢を迎えた。いつも怯え小さくなっているが、前妻のように喚かない分だけマシだった。
ヴォルフは力を手に入れ、この国を手に入れたのだ。
だが、なぜか満たされなかった。
ふと歌声が聞こえた。女の声で、侍女だろうか。いつもなら無視をするのに、ヴォルフはなぜか誘われるように声の主を捜す。
その侍女は、窓を拭いていた。黒地の踝まで隠れるワンピースに白いエプロンの、誰が着ても変わり映えのしない侍女のお仕着せを着ている。金の髪を後頭部で纏め、そこからほつれた長い髪が、動きとともに揺れて、陽の光に反射して輝いていた。
普通の光景だっただろう。だが厳かで重い雰囲気を醸し出す王城では、異様な光景だった。
ヴォルフは引き寄せられるように、彼女に近づいた。
「ふんふふ、ふふふ、ふふーん」
近づいたヴォルフに気がつかず、窓ガラスを磨きながら音程を外した鼻歌を口ずさむ侍女。
「きゃっ」
拭き終え振り返って、ヴォルフがいることに初めて気がつき、驚いて飛びあがった。その動作が子兎のようだった。
「ごめんなさいっ」
慌てて頭を下げる侍女。その顔に、ヴォルフは見覚えがあった。
「あなたは……」
「あら、ばれてしまいましたか?」
そう言って頭を上げた侍女は、悪戯がばれたが反省はしていない子どものように、無邪気に笑った。
彼女は先日、国王が見初めた寵姫だった。
「なぜ、ここに」
「お掃除です!」
胸を張る寵姫に、ヴォルフは頭痛を覚える。
なぜ後宮にいるはずの寵姫が、ここで、掃除をしているのか、理解不能だった。
「……臣下の迷惑になります。後宮へお戻りください」
ヴォルフは努めて常識的に、丁寧に対応した。だが寵姫は、コテンと首を傾げる。
「私は掃除しているだけよ? 悪いことはしてないわ」
「……お戻りください」
寵姫の答えに、呆れたヴォルフは一度首を横に振り、そう言ってその場を去ろうとする。どうも彼女が相手だと、いつものように冷静な対応ができない気がしたからだ。
「ヴォルフ・バルバッセ」
背を向けたヴォルフを、寵姫が名だけでなく、家名もつけて呼びとめた。
振り返れば、先ほどの無邪気な笑顔はなく、怒りとも悲しみとも、はたまた無ともとれる表情を向けていた。
「なぜあなたは、自分の価値を下げるようなことをするの?」
寵姫の問いに、ヴォルフは息を呑んだ。価値を下げるなどと、言われたのは初めてだった。否、今や王国を牛耳る彼に、そんなことを面と向かって言う者は皆無だ。
「……何を」
咄嗟になんと言い返せばわからないヴォルフに、寵姫は言葉を続けた。
「あなたは優秀なのに、なんでそんな誰も幸せになれない、悲しいことができるの? 何が欲しいの?」
「……幸せ? 欲しいものだと?」
ヴォルフの答えに、寵姫は憐れみの表情を浮かべて、口を開いた。
「……あなたは、自分の本当に欲しいものが、何かわからないのね」
かわいそうな人、と寵姫は言葉を零す。
そう言うと寵姫は床に置いてあったバケツを持ち上げる。
「戻りますね。そろそろメリアが、泣き出してしまうもの」
そう言って歩き出した寵姫に、今度はヴォルフが問う。
「あなたは、幸せか」
「幸せよ」
寵姫は間を置かずに答えた。
「だって、ソールの傍にいられるもの。彼は人の幸せを願うことができる、私の優しい王様よ」
そう寵姫は肩越しに振り返り、太陽のように微笑んだ。
『後宮の太陽』と称えられた寵姫が、王子を出産し、そして産後の肥立ちが悪く亡くなったとの連絡を、自分の執務室で受けた。
葬儀の手配をするよう指示し、役人が退出して一人になると、彼女のあのときの微笑みが、脳裏に蘇る。
「幸せ、か」
かつて、彼女に問われ、そして問い返した言葉。その問いは、なぜかヴォルフのなかに、しこりのように残っている。
金も、権力も、名声も、実質国も手に入れた。
だが、心は満たされない。空虚な穴は、彼の心を蝕み続ける。
「あなたは、死んでも幸せだったのか」
彼は、既にこの世にはいない、天の庭へと旅立った彼女にそう問いかけた。
『光の英雄』ハーシェリク・グレイシスと、対で語られる『闇の侯爵』ヴォルフ・バルバッセ。
彼はグレイシス王国を長年にわたり、陰より支配した。その影響力は国内だけでなく、国外にもおよんだ。
彼は己の益のためなら、王族も平民も、老いも若きも問わず、闇に葬る利己的で冷酷な男だった。
だが一方で、彼の政治手腕は確かなものだったとも伝えられる。
ハーシェリクは晩年、彼についてこう語る。
『彼が道を誤らなければ、私は英雄とは呼ばれず、王国は今よりも栄えていただろう』と。
闇の侯爵の軌跡 完
闇落ちバルバッセでした。なおイラストのイメージは俳優の真田広之さんとお伝えしてたりしてます。
なお脳内イメージ声優は大塚さんです。どうでもいいですよねごめんなさい!
私の設定内では、政治手腕は随一のバルバッセ。超有能です。ですが有能がゆえに孤高で、認められないことや報われないことに不満を爆発させました(まあ本人もまだ若かったこともありますが)
ハーシェリクが勝てたのは、バルバッセの傲慢さや圧倒的有利な状況、子供相手という油断や自分の経験値からの侮り……その他諸々ひっくるめて先読みし、運が味方したからでしょう。
ジーンとやや繋がってた気がしてたんですが、すみませんきのせいでした!
前妻の子どもは長男のみで、後妻の子はヴィオだけです。じゃあ彼は……はてさてふむー?(意味深)
なおこのとき陰で活躍してたのは、一巻の裏ギルドの面々でそうなる経緯もあったんですが、長くなりそうなので端折りました。そのあたりの裏話は、そのうち公開できたらと思います。
ではでは!