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28.相いれないはずの二人

 その日の夜、オルフェオの仲間たちが全員帰った後のこと。私とルクスは二人きり、間借りしている空き部屋で向かい合っていた。


 古くて固い木の寝台に二人並んで座る。肩が触れるくらい私たちの距離は近いのに、漂っているのは親密な空気ではなく、どことなく気まずい空気だった。


「……あの、ルクス」


 おずおずと尋ねてみても、返事はない。それでもめげずに、気になっていたことを口にした。


「最近、あなたが時々とても悲しそうな顔をしているのが気になっていたのだけれど……どうしたの? あの二人の話を聞いてから、さらに思いつめたような顔になっていて、心配だわ」


 そう言って、彼の手をそっと握る。ルクスは一瞬びくりと肩を震わせたが、すぐにしっかりと握り返してくれた。


「……そうですね。貴女には、話しておいたほうがいいのかもしれません」


 こちらを見ないまま、ルクスはぽつりぽつりと話し始めた。


「僕は、迷っていたんです。貴女を知れば知るほど、貴女により強く惹かれていって……貴女を堕落させること、人前で恥をかかせることに対するためらいも、強くなっていきました」


「それは私だって納得の上でやっていることだから、気にすることなんてないのに」


「けれど、ティナの誕生パーティーで、貴女は明らかに居心地の悪さを感じていたでしょう? ティナはああ言っていましたが、僕はあの姿であの場に出たことを、後悔していたんです」


 確かに、周囲からの視線にひるまなかったと言えば嘘になる。でもだからと言って、ルクスが後悔することはない。私はあの素敵なドレスを着ていったことを、少しも後悔していないのだから。


 私が口を開くより早く、ルクスはさらに言葉を重ねていった。


「今日、ジャンとカリーナを見ていて思ったんです。あの二人は立場が違うだけの、同じ人間です。同じ思いを抱いて、同じ道を歩いていけるかもしれない」


 彼が言おうとしていることが、分かってしまったような気がした。それでも邪魔をせずに、じっと耳を傾けた。


「でも僕は、悪魔です。人間の腹を借りて生まれて、人間の肉体を持ってはいますが、人間とは根本的に違う存在なんです。僕たちは、あの二人のようには決してなれないのではないかと、そう思えてしまえて……」


「でも、あなたはとても優しくて誠実で、そんじょそこらの人間よりずっと素敵だし、そんな風に思うことなんて」


「いいえ。僕は卑劣な男なんです。僕はずっと……貴女に隠していたことがありました」


 暗い顔のルクスをはげましたかったのに、私の言葉はまたすぐに彼にさえぎられてしまう。


「本当は、貴女は……こんなところまで逃げてくる必要はなかったんです」


「どういうこと?」


「貴女が僕と別れ、実家に戻る。そうすれば、ティナは喜んで貴女に手を貸してくれるでしょう。貴女が今後幸せに生きていけるように、母君に魔法を使ってくれると思います。母君が貴女に、もうこれ以上干渉しないように」


 つまり、彼はこう言いたいのだろう。こんな風に逃げ隠れしなくても、今までのように自由に生きていくことはできるのだ、と。


 それだけなら、さほど驚きもしなかった。言われてみれば、そんな方法もあるのかもしれないなと思ったくらいで。しかし続く言葉に、私は動揺せずにはいられなかった。


「もしかするとティナは、貴女の次の夫を探してくれるかもしれません。手頃な好青年をみつくろってきて、貴女の生き様を受け入れるように魔法をかけて。貴女がこれからも、寂しくないようにと」


 ルクスの声が、どんどん弱々しくなっていく。


「貴女はきっと、僕から離れて幸せになるのが正解なのだと、そう思うのです。……それなのに、僕は貴女と離れたくなくて……他の男性に貴女を渡してしまいたくなくて……ずっと黙っていました。ごめん、なさい」


 ルクスの頬を、涙が一粒伝って落ちていく。その輝きに思わずみとれながらも、思いっきり首を横に振った。


「謝らないで。確かに私はずっと、自由に生きたいと願っていた。でも今の私には、あなたと一緒にいることのほうが、遥かに大切なの」


 私の言葉に驚いたのか、ルクスがおびえたようにびくりと肩を震わせた。


「私だって、あなたと離れたくない。生まれて初めて好きになったあなたと一緒に、幸せになりたい」


「ですが、僕は悪魔で、貴女は人間で、僕たちは本来相いれない存在で」


 震える声で、またルクスが私の言葉を打ち消す。もどかしくなって、彼の手をしっかりとつかんだ。


「あなたが悪魔だって知った時は驚いたわ、でもね、それでもあなたのことを好きって気持ちは全然変わらなかった! 私はあなたが好きで、貴方も私のこと、その……好きなのよね? だからもう、それでいいの! 誰が何と言おうと、私たちはずっと一緒!」


 子供がだだをこねているような、勢いだけの主張。でも私の心からの叫びは、ルクスの心に届いたようだった。彼はまだ涙の跡が光る頬に、ためらいながらも笑みを浮かべたのだ。


「そう……ですね。他でもない貴女がそう言うのなら……僕も、自分の心に素直になっていいのでしょうか。こうあるべき、ではなく、こうありたい、という気持ちに」


 もちろんよ、と答えながら力いっぱいうなずくと、ルクスはひときわ鮮やかに笑った。私の大好きな、いつもの穏やかで優しい笑みだった。




 そうやって私たちは手を取り合い、ただじっと見つめ合っていた。何一つ問題は解決していないというのに、あきれるくらいに幸せな気分だった。


 ふと、ルクスが何かを思い出したようにつぶやいた。


「アウロラ、どうして僕がジャンに力を貸すことにしたのか、貴女には分かりますか?」


「彼らに同情したから、ではないの?」


 唐突な問いかけにきょとんとしながら、そう答える。ルクスはさらに優しく目を細め、くすりと笑った。


「それもありますが……僕は、彼に自分を重ねてしまったんです。彼はカリーナに初めて会った時の笑顔に心奪われてしまったのだと、そう言っていました。僕も、同じだったんです」


 ルクスがこちらに身を乗り出してきて、私をしっかりと抱きしめた。突然のことに、私はただまごまごすることしかできなかった。


「あの山小屋の、せせらぎのほとり。そこで寝転がって眠っている貴女の表情が、とても幸せそうだったと、前に言ったでしょう? 僕はあの寝顔に、一瞬でとりこになっていたんです」


 その時のことを思い出しているのか、彼の声はうっとりと甘やかだった。


「自分が悪魔であることも、目の前の女性を堕落させなくてはいけないことも、あの時の僕の頭からは抜け落ちていました。ただこの寝顔をいつまでも見つめていたいなと、そんなことだけを考えていたんです」


「好きになってもらったきっかけが寝顔というのも、ちょっと恥ずかしくはあるのだけれど……」


「でも、本当に素敵だったんですよ。魔法でその姿を残しておけないのが、残念になるくらいに。……もっとも、実はその後こっそりと、貴女の寝顔の肖像画を作ってしまいましたけどね。一緒に昼寝した時に魔法を使って」


「嘘!?」


「本当です。屋敷の僕の部屋に、こっそり飾っています」


「恥ずかしい……」


「だって、奥さんの一番素敵な顔をひとりじめしたいと思うのは、夫として自然な考えでしょう?」


 照れくささに身じろぎする私がおかしかったのか、ルクスが大真面目にそんなことを言いながら笑う。


「アウロラ、僕は貴女のことが好きです。自由気ままで気取らないところが好きです。笑った顔が好きです。くるくると良く変わる表情が好きです。僕のことを気遣ってくれる優しい心が大好きです」


「ルクス、褒めすぎよ」


「いいえ、全然足りません。僕が貴女に伝えたいことは、まだまだたくさんあるのですから」


 ルクスの腕に力がこもった。苦しいくらいにしっかりと、彼の腕に閉じ込められる。


「だからもう、離しません。何がやってこようとも、僕は貴女を守ります。悪魔であろうと何であろうと、僕は貴女の夫なのですから。貴女の言葉で、ようやく決意できました」


 悪魔は人間をだまし、道を踏み外させて、堕落させる。ウェルやティナは順調に、その使命をこなしているようだった。あの二人を見ていると、悪魔と人間は根本的に相いれないのだろうなとは思う。


 でも、もしそうだとしても。私がルクスを愛おしいと思う気持ちに変わりはないし、ルクスも私のことを好きでいてくれる。


 だから、細かいことは気にしない。何があろうと、私は彼と一緒にいる。どこであろうと、二人で生きていく。


 そんな決意を込めて、ぎゅっとルクスを抱きしめ返した。彼は思っていたよりもずっと大きくて、とても温かかった。

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