26.もう一度前を向いて、明後日の方向へ
二人そろってまる半日近く眠りこけ、目が覚めたらもう夕方だった。私たちが眠っている間にウェルが用意してくれたのか、軽食の皿がテーブルの上に置かれていた。
眠っている間に少し乱れた服を整えて、二人一緒に食事をとる。
「ねえルクス、考えたのだけれど」
食事の合間に、いきなりそう切り出す。
「こうなったら、やっぱりお母様を何とかして説得するしかないと思うの」
ルクスは真剣な顔でうなずき返してくれた。それに後押しされるように、考えていたことをさらに口にしていく。
「ただお母様は、見ての通り気が強くて行動力があって、おまけに頑固だから。まずはどこか安全な場所に移って、それからどうやって説得するかをじっくり考えたいわ」
「そうですね。おそらく次にあの方と顔を合わせる時が、そのまま決着の時になるでしょうから。……対応を誤れば、僕たちの婚姻に異議を唱えられてしまうかもしれません。もしくは、貴女が実家に連れ去られてしまうかもしれません」
「……両方、ありうるわ」
「僕は、どちらも嫌です。今さら貴女と離れて暮らすなんて、考えられません」
きっぱりと、しかし肩を震わせながら言うルクスの姿に、じんときてしまった。
「私もよ。お母様のことが苦手だとかそういうのを抜きにしても、私、あなたと一緒にいたい。これからもあなたと一緒に色々なものを見て、感じていきたい。お庭で一緒に昼寝がしたいし、町に遊びに行きたい」
「ええ、もちろんです。きちんと片付けて、色んなことをしましょう」
今の自分たちの状況も忘れて、微笑みながら見つめ合う。
本当に、ルクスはいつ見ても男前だ。夕日を受けてきらきらと輝くひまわり色の髪に、春の野を思わせる若葉色の目。ほんの少し線が細い面差しは、とても優しく柔和で、それでいてとても凛々しい。
「お前ら、悠長にしていていいのか」
ルクスに見とれていると、軽やかで偉そうな声が割り込んでくる。そちらを向くと、相変わらずにやにやとした笑みを張り付けたウェルが立っていた。
「面白そうだったから、そいつの母親がどうしているかちょっと探ってみたんだが……もう、動き出したぞ」
ひっ、という声がもれそうになり、あわてて口を押さえる。それが愉快だったらしく、ウェルの笑みが深くなった。
「こいつの母親は、ものすごい剣幕でお前の屋敷を飛び出すなり、近くに住む旧友を訪ねていった。おそらく、お前らの現状について話を聞きに行ったんだろう」
「情報ありがとうございます、ウェル。持つべきものは、頼れる友ですね」
「礼を言うな、こそばゆくなる。あくまでも、俺が面白そうだと思ったから調べたまでだ」
素直に礼の言葉を口にするルクスに、ウェルはふてぶてしく答えた。だがその黒い目が、ほんの少し照れくさそうに泳いでいるのを私は見逃さなかった。つい、口元が笑みの形につり上がってしまう。
「おい、お前。何をにやけている、気持ち悪いな」
「さあ? 気のせいじゃないかしら?」
「気のせいなものか。お前、俺を見て笑っているだろう」
「あら、優秀な悪魔ともあろうものが、ずいぶんと細かいことを気にするのね?」
「アウロラ、ウェル。ともかく、僕たちがここにいるのは危ない、そういうことですね」
ちょっぴり気まずそうな顔で、ルクスが私とウェルの会話を止める。
「ああ。見つかりたくないなら、いったんよそに移ることを勧める。……お前たちが首尾良く逃げ回っているほうが、俺としても長く楽しめるからな。頼むから、あっさり捕まるなよ?」
とってつけたような悪ぶった口調でそう言いながら、ウェルがなまめかしく首をかしげる。
「……でも、これからどこに行ったらいいのかしら。しばらくの間でいいから、お母様に見つからずにいられる場所……駄目、どこかの山奥に逃げ込むくらいしか思いつかない」
困りきってため息をついたまさにその時、ルクスがにっこりと笑った。彼にしては珍しく、ちょっといたずらっぽい笑顔だった。
「しばらく隠れられそうな場所に、一つだけ心当たりがあります」
「で、俺らのとこに来たって訳か。そりゃまあ、こないだ迷惑かけた時に、『俺らにできることがあったら、遠慮なく頼れよ』とは言ったさ。だからって本当に来るとは思わなかったぞ、おい」
「済みません。ですが、緊急事態でしたので」
あきれたような、けれどどこか嬉しそうな顔でぼやくオルフェオに、ルクスが頭を下げている。ここは、オルフェオの家の居間だった。
ウェルの離れを飛び出した私たちは、夜の闇に紛れてそのまま近くの町に向かっていた。
以前に訪ねた時の記憶をたどり、平民たちが住んでいる下町のほうへ足を向ける。そうして私たちはまだ薄暗い朝方に、オルフェオの家に押しかけたのだ。
先日、私たちは彼らにからまれた。その時に、わびとして彼の家を教えてもらっていたのだ。何かあったら頼ってくれと、そう言えば彼はそんなことも言っていた。
「まあ、たっぷり謝礼ははずんでもらったし、俺んちは部屋も余ってる。宿代わりにするくらいなら構わないけどよ」
オルフェオは大げさに肩をすくめて、目をくるりと回してみせる。
「でも、いっくらなんでも、貴族が泊まれるようなところじゃねえぞ、ここ。なにからなにまでぼろっちいし、俺ひとりで暮らしてるから掃除も適当だ。……つっても、まるで貴族らしくないあんたらなら、なんとかなるかもな」
オルフェオが提供してくれた部屋は確かに古びていたし、ほこりっぽかった。けれど、私がかつて放り込まれた山小屋よりは、ずっとまともだった。
「ええ、大丈夫よ。見様見真似だけれど、家事もちょっとくらいならできるし。掃除くらいは、自分でやるわ」
だからはっきりとそう答えたのだけれど、オルフェオは信じられないものを見たという顔で後ずさってしまった。
「……やっぱこいつ、どっかおかしい……絶対、貴族じゃねえ……」
「いえ、彼女は間違いなく伯爵家の出ですよ。確かに少々変わったところはありますが、そこがとても愛らしいんです」
「ルクス、人前で恥ずかしいわ……」
「照れる貴女も、可愛らしいです」
「あんたら、人んちでじゃれるなよ。なんていうか、あんたの母ちゃんが怒ったのも分かる気がするな」
ここに来てすぐ、オルフェオには大まかな事情を打ち明けていた。かくまってもらうのだし、さすがに何も知らせないという訳にもいかないから。
「ところでさ、あんたの母ちゃんにここがばれても、そん時はあんたたちが何とかしてくれるんだよな? お貴族様ににらまれたら、俺らみたいな平民にはどうしようもねえぞ」
「はい、貴方たちのことは、僕が全力を尽くして守ります。これでも侯爵家の当主ですから」
「ならまあ、安心かな。ところでその侯爵ってのは、貴族の中でも結構偉いんだよな? だったらそいつの母ちゃんも、権力でこう、黙らせりゃいいんじゃねえの?」
「そうもいかないんですよ。確かにあの方は伯爵家の当主の奥方ですし、地位でいえば僕のほうが上です。ですが同時に、あの方は義母にあたりますから」
「なんか面倒なのな、貴族って」
オルフェオが同情するように首を振る。ちょうどその時、ぱたぱたという元気な足音と共に、数人の若い女性が家の中に入り込んできた。
「オルフェオ、頼まれてたもの買ってきたよ」
「たぶん大きさも合ってると思うよ」
「でも……本当に、これを着るの? そっちの二人が?」
そんなことを言いながら、女性たちは私とルクスを疑わしげな目でじろじろと見ている。
彼女たちが買ってきたのは、私たちの着替えだ。今の私たちは軽装とはいえ、明らかに貴族だと分かる格好をしている。
うっかり目立ってお母様に見つかるのを防ぐためにも、さっさと平民の服に着替えてしまったほうがいい。私とルクスは迷うことなく、そう決断した。
「ありがとう、助かったわ」
にっこりと微笑んで、服を受け取る。彼女たちは視線をそらし、口の中でごにょごにょとつぶやいていた。どういたしまして、と言っていたようだ。
それから空き部屋に入って、新しい服に袖を通す。優しい黄色のワンピースはとても質素なものだったけれど、意外と着心地は悪くなかった。どこもしめつけないし、肌触りも柔らかい。
少しだけ悩んで、いつものブレスレットを身に着ける。ルクスにもらったこれだけは、はずしたくなかったのだ。袖の中に隠しておけばいいだろう。
鏡がないので自分がどんな姿をしているか分からないけれど、きっと今までとはまるで違った姿になっているだろう。そう思ったら、こんな状況にもかかわらずちょっと心が浮き立ってしまった。
さっきよりもずっと軽やかな足取りで、オルフェオたちの待つ居間へ向かっていった。




