25.勝利のための撤退
私たちは大急ぎで支度を済ませ、足音を忍ばせながら屋敷を飛び出した。それぞれの愛馬に乗り、一緒に森へ向かう。
万が一私が乗馬服を着ているところをお母様に見られてしまったら、間違いなく火に油を注いでしまう。だから私は乗馬服ではなくて、いつもの淡紫のゆったりとしたドレスで馬にまたがっていた。
昼間は明るい森の中に、柔らかな月の光が降り注いでいる。前を行くルクスのひまわり色の髪が、昼間よりも優しく、きらきらと輝いていた。こんな状況だというのに、その輝きに見とれている自分に気がつく。
お母様がいきなりやってきて、しかもとんでもない姿を見られてしまった。おかげでひどく動揺する羽目になったけれど、こうしてまたルクスと二人きりになると、すぐに心が落ち着いていくのを感じていた。
彼がいる、ただそれだけのことが、私の心をこんなにも温めてくれている。それはとても幸せなことだと、そう思えた。
この幸せを、何としても守らなくては。そのためにあのウェルの力を借りなくてはならないというのが少々しゃくにさわるけれど、今はそんなことにこだわっている場合ではない。一刻も早くお母様を穏便に追い返し、ルクスと二人の楽しい生活に戻るのだ。
月明かりに輝く彼の後姿を見ながら、手綱をぐっと強く握りしめた。
そうして、夜が明ける頃になってようやく、私たちはウェルの屋敷にたどり着いた。
歴史のある伯爵家だというだけあって、どっしりと重厚で、そして清らかな雰囲気の建物だった。ウェルには少し似合わないな、というのが素直な感想だった。
「彼はこちらの離れで寝起きしているんです。養親にばれずに好き勝手するにはこのほうがいいとかで」
ルクスは慣れた様子で、屋敷の裏手の離れに馬を向ける。真新しいその建物は、妙にしゃれていて、変に居心地が良さそうに思えた。
建物の隣に、小さな馬小屋があった。そこに馬をつないで、離れの中に入る。驚いたことに玄関には鍵がかかっておらず、見張りの一人もいなかった。
「僕たち悪魔には、普通の警備は必要ないんですよ。特にウェルは優秀な悪魔ですから、手練手管なり暴力なり魔法なりで、だいたいのことはあっさりと片付けてしまいます」
声をひそめながら、ルクスが少し寂しそうに説明する。離れの玄関でたたずんたまま。
「ウェルは本当に、頼りになるんです。……こうして逃げることしかできなかった僕とは大違いです」
彼をはげまそうと一生懸命に言葉を探していたその時、軽やかな声がこちらに飛んできた。
「よう、こんな朝方にどうした。それも、やけに辛気臭い顔で」
うっすらと明るくなり始めた廊下で、ウェルがこちらを見てにやにやしていた。長い黒髪をゆるく束ね、寝間着の前をはだけさせた格好は、あきれるほどだらしなく、そして恐ろしいほど色っぽかった。思わずぞくりとするくらいに。
「少しばかり、貴方の力を借りたくて……」
ルクスが進み出て、私たちの状況を手短に説明し始めた。ウェルはあくびをかみ殺しながら興味なさそうに耳を傾けていたが、やがてきっぱりと言い放った。
「断る。俺はその女の母親とやらに、魔法をかけるつもりはない」
「どうかお願いします、ウェル。今、僕たちはとても困っていて……」
「だろうな。常識的なお前が、こんな非常識な時間に、それも馬車ではなく馬で訪ねてくるくらいだ。だがな」
ウェルが黒い目をすっと細めた。表情を消して、彼は言葉を重ねる。
「お前もいつまでも俺におぶさっていないで、自分の力でどうにかしたらどうだ? お前ももう、一家の主だろう」
「できることなら、そうしたいのです。でも僕は、記憶を操作する魔法は……」
「魔法が駄目なら、それ以外でどうにかしてみせろ」
きっぱりと言い切って、ウェルは突然こちらを見た。
「こいつの母親とやらは、どうやら極端に古臭い。一度こいつを連れ戻して、徹底的に教育し直そうとするんじゃないか? そしてこいつがお前のもとに戻れる可能性は、限りなく低いと思うぞ」
意地の悪い薄笑いを浮かべながら、ウェルはすらすらとそう言った。彼はお母様のことを知らない。けれどルクスがさっと語っただけの情報をもとに、ウェルは薄気味悪いくらいにお母様の性格を見抜いていた。
実際、私はずっと実家に連れ戻されることを恐れていたのだ。だからこそ屋敷に残らず、こうしてルクスと一緒に飛び出してきたのだから。
唇をかんで押し黙る私と、そんな私を気遣うように肩を抱くルクス。ウェルは私たちをながめながら、ふふんと鼻で笑った。
「しかしティナのやつも、面白いことをするものだな。あいつはもっと小さな頃から、なぜかルクスにいたくご執心だったが、邪魔な女を追い払うのにこんな手を使うとは」
そう言うウェルの声は、それはもう愉快そうだった。
「せっかくのあいつの仕掛けを、俺がぶち壊しては興ざめだ。だから俺は、この件については静観する。まあお前の友人として、寝床くらいは提供してやらなくもないが」
「……それでは、一日だけこちらに泊めてください」
「別に、好きなだけいればいいだろう? お前たちを手伝うつもりはないが、どうせなら近くで見物していたいしな。あっちの屋敷ならともかく、この離れにいれば養親たちにも見つからんぞ」
「僕と貴方が親しくしていることは、他の貴族たちにも知られています。アウロラの母君も、じきにここをつきとめるでしょう。ですから、長居はできません」
「そうか。まあ、好きにしろ。……いつもの部屋が空いている。好きに使え。俺はもうひと眠りしてくる」
そうしてウェルはひとつ大きなあくびをして、だらだらとした足取りで立ち去っていった。
呆然とその背中を見送っていると、ルクスが私の腕をそっと引いた。
彼に案内されるまま、ウェルの離れの空き部屋に足を運ぶ。そこはこざっぱりとした、趣味のいい客間だった。大きな寝台を見た時、ようやく自分が疲れ果てていることに気づく。
さすがに寝間着は持ってきていないので、服のまま眠ることにする。ゆったりとしたドレスで本当に良かったと思いながら、目を閉じた。
「……眠れませんか、アウロラ?」
仰向けに横たわったままじっとしていると、ルクスがためらいがちに声をかけてきた。
彼がそう言うのも無理はなかった。この客間には寝台が一つしかない。だから私たちは、二人一緒に寝転がっていたのだ。
庭の芝生で一緒に寝転がったことなら何回もあるけれど、こんな風に同じ寝台を使うのは初めてだった。そんなこともあって、私はすっかり緊張してしまっていたのだ。くたくたなのに、ちっとも寝付けなかった。
「落ち着かないのでしたら、僕が床で眠りましょうか」
「駄目よ。ちゃんと寝台で寝て、疲れを癒さないと。その、少し緊張するけれど……慣れないとね。私は、あなたの妻なのだし」
天井を見上げたまま、そう答える。自分でも分かるくらいにはっきりと、私の声には照れくささがにじみ出てしまっていた。
彼を心配させないためにも、早く眠ってしまわなくては。そう意識するほどに、うまく眠れない。
目を閉じたまま困り果てていると、優しい声が聞こえてきた。隣のルクスが、横たわったまま小声で歌い始めたのだ。
彼は柔らかな声で、ゆったりと穏やかな旋律を紡いでいく。ああ、これはきっと子守歌だ。
こわばっていた肩から、ひとりでに力が抜けていく。優しくてあったかい歌声に包まれているような心地に、ふうと息を吐いた。
やっぱり、私は幸せだ。この幸せは誰にも邪魔させない。ティナにも、お母様にも。
自然と、笑みが浮かぶ。そのまま、ゆっくりと意識がぼやけていった。




