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10.誰がこんなことを想像できただろうか

 星明りのバルコニーに、ルクスは立っていた。悲しげに光る若葉色の目を、こちらに向けて。彼の隣では、ウェルが笑っている。夜空よりも黒いその目を、楽しげに輝かせて。


「……悪魔……って、……どういうこと……?」


 悪魔などというものは、架空の存在だ。だからさっきのは、きっと何かの冗談だ。そう笑い飛ばしたかったが、私の口をついて出たのは、やけに震えた声だけだった。


「邪魔が入らないよう、屋敷の中に眠りの霧を振りまいておいたんだがな。まさかそれを越えて、ここまで来るとは」


 ウェルがおかしそうな声でつぶやく。私が追いかけてきた甘い匂いは、ウェルのほうから漂っていた。彼が言う『眠りの霧』というのが何なのかは分からなかったが、この匂いと関係しているのだろうということだけは容易に想像がついた。


「どういうことか、知りたいか? だったらここまで来てみろ」


 くつくつと笑いながら、ウェルが手招きする。ルクスは何か言いたそうな顔をしていたが、ウェルを止めはしなかった。


 呆然としたまま、バルコニーに足を踏み入れる。そのままふらふらと、二人の前まで歩いていった。


「まあ、こういうことだ」


 ウェルがにやりと笑って、ルクスの肩に手をかけた。次の瞬間、二人の姿が変わる。


 彼らの頭、耳の上の辺りに、角が生えていた。ウェルの角は黒くて細く、まっすぐに上に向かって伸びていた。ルクスの角は白くて太く、きれいにくるりと巻いていた。


 あまりのことに、言葉も出ない。ぽかんとただ口を開けている私に、ウェルが向き直る。


「俺たちは悪魔だ。人の腹を借りてこの世界に降り立ち、人間たちを堕落させ、破滅に導く。そんな存在だ」


 その言葉に、ルクスがそっと目を伏せた。柔和で上品な顔いっぱいに、悲しみをたたえている。


「俺は孤児として生まれ、周囲の人間たちを次々踏み台にしながら、こうして伯爵家の跡取りまでのし上がった。俺は優秀な悪魔だからな」


 誇らしげに言い放ったウェルが、ふとため息をついた。ほんの少し責めているような、それでいて気遣っているような複雑な表情で、隣のルクスに視線を移す。


「だがルクスは、悪魔とは思えないくらいに善良で……結局こいつの生みの両親は、幸せなままに天寿をまっとうしてしまった」


「僕を育ててくれたあの人たちを不幸にすることが、どうしてもできなくて……」


「だからお前は落ちこぼれなんだ。まあ、今度はうまくやれよ。俺も手伝ってやるから」


 かすかに声を震わせているルクスに、ウェルは明るく声をかける。にわかには信じがたい話をしているとは思えないほど、気楽な口調だった。


 それからウェルは目線だけを動かして、ちらりと私を見る。


「ようやっと、手頃な獲物を捕まえたんだ。こんな幸運、そうそうないぞ」


 あの女を堕落させる。確かさっき彼らは、そんなことを話してはいなかったか。


「獲物って、私のこと……? あなたたちは私を堕落させようとしているの……?」


 恐る恐る尋ねると、ウェルは平然と答えた。


「そうだが? 察しがいいな」


「あなたの魂胆を知って、私がはいそうですかっておとなしく言うことを聞くとでも思っているの?」


 精いっぱい強がって、そう反論する。


 彼らが本当に悪魔だというのなら、魔法みたいな力を持っているのかもしれない。抵抗するだけ無駄なのかもしれなかった。けれどそれでも、口答えせずにはいられなかった。


 しかしウェルは、そんな私の強がりをあっさりと受け流した。


「なに、嫌でもおとなしくなるさ。後でお前の記憶を消すからな。お前は今夜のことをきれいさっぱり忘れて、これからもこいつの妻としてだらだらと好き勝手に生きていく。他の貴族が眉をひそめずにいられないくらいにな」


 それから彼は、ふんと鼻で笑った。私とルクスを、交互に見ながら。


「そもそもこいつがお前をめとったのも、お前の悪い噂あってのことだ。すでに道を踏み外しかけている女なら、本格的に堕落させるのも難しくはないだろうし、自分のせいで不幸にしてしまったと気に病む必要もない。そう言って、俺がたきつけた」


 思いもかけない言葉に、さあっと血の気が引いていく。そんな話を信じてたまるか、と自分自身に言い聞かせる。けれど、手の震えが止まらない。


「淑女らしさのかけらもなく、行動も考えもおかしな女。そのせいでいつまでたっても婚約がまとまらない女。お前について、前からそんな噂が流れていた」


 その噂そのものについては、仕方ないと思う。私が普通の令嬢になれなかったのは事実だし、寝間着でふらふらしていたのはおかしな行動だろう。婚約の話だって、もういくつも流れてしまった。


「そんな女なら少し優しくしてやればころりと落ちるだろうし、あとは思い切り甘やかしてやれば、どんどん勝手に堕落していくだろう。俺はそう考えた。……もっとも、ルクスは少しばかりてこずっているようだが」


 ルクスは私に一目惚れしたのだと言っていた。でも共に過ごすうちに、それは違うのかもしれないと思うようになっていた。けれど、ウェルの言葉を信じたくない。


 救いを求めるように、そろそろとルクスの方を見る。彼は顔を伏せたまま、力なく首を横に振った。白い角に金の髪がさらりとかかるさまは不思議なくらいに美しく、清らかだった。


「……ごめん、なさい。僕は貴女に、ずっと嘘をついていました」


「だったら、ウェルの言ったことは、本当に……?」


 ルクスは答えない。ぐっと唇をかみしめて、無言で肩を震わせていた。ウェルが感情のない目で、そんな彼を見つめている。


 一面の星空を背負い、ルクスはじっとたたずんでいた。そんな彼の姿は、とても悪魔などというまがまがしいものには見えなかった。


 やがて、ルクスがぽつりとつぶやいた。


「でも、僕は」


 彼は顔を上げて、こちらをまっすぐに見る。今までで一番力強い視線が、私を射抜いた。


「一緒に過ごすうち、貴女のことを好ましいと思うようになりました。型破りですし、普通の令嬢とはまるで違っていますが、貴女はとてもまっすぐで、まぶしい人でした」


 そうして、彼は笑う。いつか見た、泣きそうな笑顔で。彼は懐からハンカチを取り出して、こちらに見せてきた。


「貴女にこのハンカチをもらった時、僕は本当に嬉しかったんです。この人を幸せにしたい、この人とずっと一緒にいたいと、そう思いました」


 ルクスはそこで口を閉ざすと、とても弱々しい声でつぶやいた。


「……でも、信じてもらえませんよね。こんな姿では……」


「いいえ、信じるわ。姿がちょっとくらい違ったって、あなたはあなただもの」


 ルクスのほうに一歩踏み出して、すぐに答える。


 彼はあっけにとられたような顔で私を見て、それからもう一度笑った。若葉色の目を細めて、眉をきゅっと下げて。こんな状況なのに、胸が高鳴って仕方がなかった。


「アウロラ……ありがとうございます。きっかけはどうあれ、貴女を妻とできてよかった。一目惚れでこそありませんが、それでもやはり、僕は貴女のことが好きです」


 ルクスの告白に、気分が一気に上向きになる。さっきウェルが失礼なことをばんばん言っていたような気がするが、そんなことはもうどうでもよかった。


「あ、あの、その……私も、あなたのことが、あの、好きよ」


 しどろもどろになりながらそう答えると、ルクスは目を真ん丸にした。


「気持ちは嬉しいのですが……見ての通り、僕は悪魔ですから……気味が悪いのでは、ありませんか?」


「いいえ、全然。さっきは驚いたけれど、それだけ。むしろ、綺麗な角だなって、そう思っているわ」


「そう、ですか? ……そう言ってもらえるのなら、この角も悪くはないのかな、と思えます」


 そんなことを話し合いながら、ルクスと見つめ合う。しかし私たちの間に、あきれたようなウェルの声が割り込んできた。


「ああもう、俺を放置していちゃつくとはいい度胸だな。おいルクス、そろそろこいつの記憶を消すぞ。口説きたいのなら、その後にしろ」


 言うが早いか、ウェルは私の頭めがけて手を伸ばしてきた。あっという間に、頭をわしづかみにされる。


 男性にこんな風に触られたのは初めてということもあって、たいそう不快な感触だった。振りほどこうとするより先に、ウェルが静かに口を開いた。


「ラ・ウェル・ナの名において命ずる。この夜のことを忘れ、ただ眠れ」


 彼の言葉が、揺らいで遠くなっていく。世界がぐるりとひっくり返るような感覚に、目をつぶった。

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