エピローグ どうでもいいこと
キキにとって、この世界は屋敷の中だけだった。
常に高い塀に囲まれ、外の景色は見えない。
「アレが欲しい」
「コレが欲しい」
言えば、夕方までには屋敷に届けられた。
皆が、キキ様、キキ様と褒めそやすことを全く不思議に思っていないのは、生まれてからずっとそうだったからだ。
泣けば抱きしめられ、怒ればご機嫌とりをされる。
怒鳴られることはなく、ましてや殴られることなどない。
正にこの世の天国と言っていい。
ただ、時々遊びに来る姉のアッカは、あまりにも見すぼらしく、よく怪我をしていた。
キキは、こんなゴミと血がつながっているという事実が、虫酸が走るほど嫌だった。
更に癪に障るのは、アッカが自分に向ける慈悲深い眼差しだ。
常に敬われることしかなかったキキが、唯一、下に置かれたような気分になる瞬間だった。
「アッカは、おねえちゃん」
たどたどしい言葉を吐きながら手を伸ばしてこられた時は、背筋がゾッとして後退りした。
得体のしれない何かに汚染されるような、そんな怖さがアッカにはあった。
それでも、遊び相手として許されるのは、彼女だけ。
退屈には代えられず、不貞腐れながらも遊びに興じた。
しかし、キキも少し大きくなると、大人達が不用意に話した言葉の端々から、自分が『生贄』という存在であることを知るようになる。
そこで、やっと姉が自分に向ける眼差しの意味を知った。
同情
憐れみ
世界の中心は自分だと思っていたキキにとって、とうてい受け入れられる感情ではない。
アッカの思いを優しさだと気付けない時点で、相当根性はねじ曲がっている。
ただ、それはキキのせいだけではない。
この島の、『己に利がなければ動かない』という特性も大きく関わっている。
誰も教えてくれなかったのだ。
姉には妹を慈しむ心があることも、生贄という儀式自体が狂っているということも。
「おなかすいた………」
今、キキは、女達と同じあばら家の片隅に住まわせてもらっている。
仕事は、畑仕事。
ミミズが出ただけで泣き叫んでいたのも、最初の数日だけだった。
泣いても怒っても誰も機嫌をとってくれず、逆に食事を抜かれるようになった。
可愛い、美しいと褒めそやされた容姿も、今では垢にまみれ嫌っていた姉のように臭い。
それも時間が経てば鼻のほうが慣れてしまって、最近では全く気にならなくなってしまった。
昔はあれ程気にしていた容姿よりも、今は、一欠片でも多くの食べ物が欲しい。
泥に塗れ、爪の先がガタガタになるのも厭わず必死に芋を掘るのは食べるためだ。
根源的な食欲という感情が、他の煩悩を消し去っていく。
そんな中、何の気まぐれか、この島の主となった女がキキに焼いたウサギ肉を投げて寄越した。
「なんで………?」
「あんたの姉さんにもらった分のお返しだよ」
アッカからは、他の女達の目を盗み、より多くの肉を与えてもらった。
もし知られれば、与えられた方も与えた方も、袋叩きだったかもしれない。
そこにはアッカの思惑もあったのだが、彼女は、そんな事は知らないし、どうでもいい。
ただ、優しくしてもらった記憶の少ない人間にとって、アッカという存在は居なくなっても忘れられない大切な思い出なのだ。
「あんたも、残念なことをしでかしたね」
「なんのこと?」
「アッカが生きてたら、あんたにそんな見窄らしい生活はさせなかっただろうと思ってね」
商船が燃えるという大事件後、この島は大きく変わった。
船を無くした男達は、自分たちの復権のためにも、どうしても船を手に入れたかった。
ただ、どんな簡単な筏だったとしても、先ずは、森から木を伐採することから始めなければならない。
そして、組み上げるのには、相応の技術がいる。
長い年月の中で、魚を捕るという事しかしてこなかった彼は、知識もなければ創意工夫をしようという前向きさもない。
『あいつらを生かしておけばよかった……』
森に対しての恐怖心を克服出来ない彼らは、怒りに任せて逃げ遅れた船員達の命を全て狩ってしまったことを後悔した。
また、堆肥に塗れる農作業を下賤な仕事だと蔑み、未だに浜辺で貝や小魚を捕っている。
どちらが優れていて、どちらが劣っているなどと言っている場合ではないことを全く理解できていない状態だ。
その時点で、女の何歩も後ろを歩いていると言っていい。
一方、女達はアッカの残した罠を使い、森で獲物を取ってくる。
無論、その手法は、男達には極秘になっていた。
たとえ知ったとしても、その使い方や作り方を真似できるほどの器用さがあるとも思えないが、女達は周到に自分達の地位を守ることに頭を働かせていた。
男女の対応の差を見ても、暫くは、女の天下と言っていいだろう。
もし、この世界で、アッカが生きていれば、島の主となったのは彼女だ。
誰も知らなかった罠を考え出した、正に森を統べる女なのだから。
女は、アッカの面影をキキの中に見いだし、珍しく微笑んだ。
「惜しい女を死なせてしまったよ」
「いまさらでしょ」
キキは、そう吐き捨てると、地面に転がった肉を拾い上げて慌てて噛み付いた。
土を払う余裕すらなかった為、ジャリジャリと土の味がした。
下手な優しさが余計惨めな気持ちにさせるが、食べないという選択肢はなかった。
「あんまり気分のいいもんじゃないね」
今まで女王様気取りだったキキの落ちぶれた様子を楽しみにしていた女だが、興味をなくしたように去っていった。
彼女にとって、キキは、『どうでもいいこと』に成り下がったようだった。
「おふくろ、それにしても、この馬、遅すぎねぇか?」
「はぁ、大人四人に家財一式が載っているんだ。無理を言わないでおくれ」
ソラティオの文句に、ローサは、大きくため息をついて諌めた。
まだ薄暗い早朝に、港町の端にある大門から外へ出たが、後ろを振り返れば思った程距離は稼げていない。
高台の上まではやって来たが、大きな海が未だに視界の多くを埋めていた。
「海から逃げたいなんて思う日が来るとは思ってもいなかったよ」
親元を離れて港町で働き出したローサは、この場所が大好きだった。
愛するトゥオーノと出会い、息子を授かったことには感謝しかない。
ただ、今は後ろから伸びてくる手に捕まりそうな恐怖心で胸がいっぱいだ。
船を焼かれた乗組員達が、漁船を奪って本土へと行くことは想定内のこと。
猶予も一日、二日と言ったとこだろう。
彼らが帰ってくれば、直ぐに追っ手がかかる。
ローサの手綱を握る手が震えている。
それを見たトゥオーノは、御者台に身を移して愛しい妻の肩を抱いた。
「とりあえず、この丘を越えれば次の街までそれほど距離もない。出来れば、そこを通って隣国に抜けなければな」
「そうね……物資も、買い足さないと」
馬車に乗せられた食べ物は、ローサが買い置きしておいた物で、四人分には全く足りない。
生贄の船に乗せられた貢物など、ここに来るまでに食べ尽くしていた。
隣町で、絹織物とアッカが着せられていた豪華な服を売り、その金で食物と武器を買い入れる必要がある。
「本当は、アッカちゃんに、もう少しかわいい服を着せてあげたかったんだけどねぇ」
娘がいれば、絶対可愛い服で着飾らせるのだと常々言っていたローサだが、今は目立つ服装をさせるわけにもいかず、アッカに自分の服を着させている。
胸と尻の大きさが違うため、丈は大丈夫でもブカブカなのは否めない。
「私、これが、好き。他の服はいらない」
アッカは、そう言うと自分の体を両手で抱きしめて胸元に余った布に顔を埋めた。
この服は、太陽の匂いがした。
清潔で、シワがなく、大切に使われていたのがわかる。
ローサは、アッカのやせ細った体に心を痛めつつも、
「なら、体の方を合わせる為にも、沢山食べなくちゃねぇ!」
とわざと大きな声を出した。
『だめだ、だめだ。わたしが暗い顔をしたら、この子も不安になっちまう』
ローサにとって、大切なのは、夫と息子とアッカだけ。
それ以外のことは、『どうでもいいこと』なのだ。
追っ手のことを気にしすぎ、ビクつく姿は余計に周りの目を引くことになる。
「今日の昼は、何か美味いものを食べよう!」
ローサの張りのある声に、
「やった!俺、肉食べたい!」
とソラティオも両手を上げる。
「ははははは」
気付けば、アッカも周りにつられて笑っていた。
こんな風に、逃亡者とは思えぬ温かな空気を纏う四人は、すれ違う旅人の目には仲の良い家族に見えた。
落ちぶれたキキ。
逃亡者に見えない四人組。
それ以上に、世の中の人間にとって『どうでもいいこと』が、今まさに海上で起きていた。
「まだ、目覚めるには早いだろ!」
小さな漁船に身を寄せ、震えるしかない船員達が目にしたのは、海に住む魔物の長い触手だった。
春にはまだ日があり、活発化するには時間があったはず。
島から脱出した者達も、全員海の男。
海流を読み、大陸に向かって間違いのないルートを進んでいたはずだった。
それなのに、気付けば魔物の巣のど真ん中にいた。
いや、商船が燃え上がり、逃げ出した漁船がむやみ矢鱈に波を立てたことで、微睡みの中にいた魔物を目覚めさせてしまったのだ。
バシャバシャと水をかく音に誘われ、奴らは音もなく追跡を始めていた。
「いやだ!いやだ!助けてくれ!」
言葉が通じる相手なら、生贄を捧げるなどという風習は生まれなかっただろう。
ザパッ
大きな水音と共に、ヌルヌルとした粘着質な肌が水上に上がってくる。
真っ黒な瞳が、久しぶりの獲物を前に笑っているように見えた。
その後のことは、誰も知らない。
なにせ、生き残ったものが一人もいなかったのだから。
遠い、遠い昔、ある国の王族が、政争に敗れて島流しにされた。
薄い茶色の瞳と髪は、一見して高貴な者とは思えぬ程に地味な色合いだった。
仲間に裏切られ、理不尽に全てを奪われた彼ら一族は、他の犯罪者達に交じって生きていかなければならなくなった。
しかし、その地味さが、身を助けたのかもしれない。
空気のような存在感と、決して折れない心の強さ。
いつか、この島から出るのだという信念は時とともに忘れ去られたが、何世代も経たある日、一人の少女によって悲願を達することになる。
ただ、それも、今となっては『どうでもいいこと』なのかも知れない。
完




