第五話 本当の生贄
生贄として海に流されたはずの少女が、霧の立ち込める海を己の意思で突き進む。
櫂の扱いは、決して上手くない。
いくら目で盗んできたとはいえ、本当に漕ぐのは初めてなのだ。
しかし、流れの強い潮目を横に外れれば、女の力でも思った方向に進められるくらい海は静かだ。
まだ、海の魔物達は深い眠りについている。
活発に動き出すのは、後数週間後と言ったところだろう。
先ほど水中に潜ったことで冷え切っていた身体も、船を漕ぐという行為のお陰で徐々に温まってきた。
この霧も、朝日が昇りきるころには晴れてしまうだろう。
それまでに身を隠せる場所に移動しなければならない。
真っ白な世界で、唯一方向を知らせてくれるのは、ぼんやりと輝く太陽とトゥオーノが貸してくれた方位磁石だけだ。
慎重に慎重を重ねて、やっと辿り着いたのは、島から二キロ程離れた所にある双子岩。
島とまでは言わないが、人が登れるくらいの大きさの岩が向かい合っている存在感は、航海する者達の良い目印となっているようだ。
ここまで来ると波も更に穏やかになり、二つの岩の間に身を潜めれば、流されることなく停泊できる。
アッカは、ここで、泳いで島を離れる二人を待たなければならない。
足の悪いトゥオーノは、目立つ。
気持ちとしては、今直ぐここを離れたいが、薄暗くなってからソラティオが背負って森を抜けるのを待つしかない。
まだ、日も昇りきらない朝。
無駄に長い時間を岩場で過ごすことになる。
そこでアッカは万全を期すため、自分の髪の毛を繋ぎ合わせて作ったロープで、船と岩の出っ張りとを繋いだ。
こうすれば、ずっと気を張り巡らせて居なくても、大きく流されることはないだろう。
やっと生きた心地がしてきたアッカは
大きく伸びをした後、船底に身を横たわらせて目を閉じる。
ゆらり、ゆらり。
ゆりかごのように揺れる小舟の中で、アッカは、これからのことを想像して微笑んだ。
肉の味を覚えた女達は、狩人のアッカを生贄にした男達に不満を覚えるだろう。
ただでさえ、彼らは彼女達に、必要最低限の食料しか与えていない。
反抗する気力を失わせるためだ。
そして、時々干し肉などを、ご褒美のように投げてよこす。
そんなもの、アッカが食わせてやった新鮮な肉に勝てるはずがない。
あの口に広がる柔らかで肉汁あふれる旨みを、彼女達が忘れる日が来るだろうか?
アッカが小舟に乗せられる時も、女達は、皆絶望の表情を浮かべて下を向いていた。
それ程までに、食という欲求は、人の思考にすら影響を与える原始的な感情なのだ。
「ま、(忘れるなんて)無理だろう」
珍しく、アッカは、口の端を上げた。
滅多に表情が動かない彼女にすれば、普通の人間の大笑いと言ってもいい。
更に、アッカを愉快にさせるのは、日々の水汲みをする者が居なくなったということ。
アレは、想像以上に重労働だ。
長い年月、その全てをアッカに丸投げしてきた彼女達に、あの重さの桶を担げる筋力は残っているだろうか?
疲れが極限に達すれば、自然と妹のキキに、鬱憤の全てが向かうだろう。
今までも、何一つ仕事をしてこなかった元生贄は、今後も島の長の身内として大事に扱われるだろう。
仕事も免除され、良い服を着て、美味いものを食べる。
本当に妊娠していれば良いが、嘘なら、余計火に油を注ぐはず。
「ざまぁみろ」
人の妬み、恨み、怒りは、呪詛のように対象者に絡みつく。
キキと両親のこの世の春も、そう長くは続かないだろう。
そして、干物作りの時に魚を手早くさばいていたアッカを失い、男達の中でも下っ端の奴らは、時間内に処理ができず魚を腐らすはずだ。
商品ができなければ、商船から必要最低限の食料すら得ることは出来なくなるだろう。
たった一人の小娘に、そこまで委ねていた自分達を浅はかだったと後悔するのか?
それとも、アッカを失ったことに絶望するのか?
楽しい夢想をしている内に、太陽は上へと昇った。
コレが沈むまで、まだ数時間を要する。
陽の光に眩しそうに顔をしかめたアッカだが、
ドーン!
物凄い爆音が聞こえて飛び起きた。
島を見ると、停泊中の商船から火の手が上がっている。
こんな昼日中に騒動を起こす奴など、一人しかいない。
「アイツ、本当にバカなんだ……」
トゥオーノは、ソラティオの事を『おい、馬鹿息子』と呼ぶことがある。
しかし、正真正銘の『馬鹿』だったのだと、この瞬間になって、やっとアッカは理解した。
ソラティオは、洞窟で父親と再会してから、アッカが生贄になる今日まで、夜の闇に紛れて何度も洞窟へやってきた。
最初は、この脱出計画を練る為。
しかし、いつしか、何の用もないのに果物や甘味を持ってくるようになった。
理由は、どうやらアッカの身の上に同情したからのようだ。
母親から愛情たっぷりに育てられた彼には、両親からも妹からも優しさの欠片すら貰えなかったアッカが可哀想で仕方なかったらしい。
「鬱陶しい」
人からの好意を受け慣れていないアッカは、自分を喜ばせようと食べ物を運ぶソラティオが理解できなかった。
ただ分かるのは、アッカとトゥオーノが受けた屈辱を晴らすことに、執念ともいえる思いを彼が抱いているということだ。
アッカにとって、最も大事なのは、三人揃って島から脱出すること。
放っておいても、奴らの行くすえは暗い。
何度も復讐など考えるなと言ってきたのに、こんな騒動を起こしてもし捕まりでもすれば、全てが無駄になってしまう。
「冗談じゃない」
アッカは、初めて胸が激しく脈打ち、痛みを感じるという感情を知った。
これが、怒りなのか、悲しみなのか、苦しみなのか分からない。
ただ、彼らに二度と会えないかもしれないと思うと、知らぬ内に涙がこぼれ落ちていた。
轟々と立ち上る火柱と黒煙。
遠くに聞こえる人々の悲鳴。
いつまでここで待てば良いのかという不安。
アッカは、手に汗をかいて櫂を握りしめた。
その時、
ピチャ
という水音と共に大きな手が舟の縁を掴み、待ち望んでいた男が水面から顔を出した。
「置いていくなよ」
金髪に絡みつく海藻が顔半分を隠していたが、それは確かにソラティオだった。
アッカは、身を乗り出すと、
「トゥオーノは!」
と叫んだ。
彼は、足が不自由だ。
この脱出において、トゥオーノが無事に船に辿り着けさえすれば、ほぼ、作戦は成功したと言っても過言ではない。
「なんだよ、親父の心配ばかりかよ」
不機嫌そうに口を尖らせたソラティオが顎で後方を示すと、逞しい二本の腕で力強く泳いでくるトゥオーノが見えた。
「陸地より楽しそうだ」
笑うソラティオの頭を、アッカは、ポクリと殴った。
痛いはずなのに、嬉しそうに笑う青年にアッカの調子も狂う。
「笑うな!早く、乗れ!」
「親父が先だ」
取り敢えず、全員船に乗らなければ次の行動に移せない。
しかし、小さな船に大きな男達が乗り込もうとすると、バランスが大きく崩れる。
「俺が船を押さえてるから、アッカ、お前が親父を引っ張り上げろ」
「言われなくても、やる!」
もし、島内が爆発で大騒ぎになっていなければ、直ぐにでも見つかりそうな大声でやり合う若者にトゥオーノは、苦笑する。
「アッカ、俺を引っ張らなくていいから、反対の縁に行ってくれ」
一方方向に力が入ると、舟などは直ぐに転覆してしまう。
天秤のようにバランスを少しでも取るために、アッカは、トゥオーノが手にかける縁とは反対方向へと身を動かした。
こうして、ソラティオが海の中から舟を支え、トゥオーノは、なんとか舟の中に体を滑り込ませた。
次にソラティオが、楽々と船に上がる。
「さぁ、行くぞ」
大男二人と長身な娘1人を乗せた小舟は、浮いていることが奇跡と思えるほど舟が沈み込んでいた。
縁と水面があまり変わらない高さにあり、ソラティオが櫂で漕ぎ始めると時々水が舟の中に入り込んでくる。
それをアッカが必死に両手で掬い上げては外に汲み出す様子が余程可笑しいのか、トゥオーノは、始終笑っていた。
そうこうしている内に、どんどんと島が遠ざかっていく。
ふと、アッカは、故郷を振り返って呟いた。
「あっちの方が、『生贄の小舟』みたい」
遠く離れ、小さく見える島は消火が追いつかないようで、赤く光って見えた。
晴れた青空の下、海はキラキラと輝いており、そこにポカンと浮かんで見える島の様子が確かに舟のようだった。
あの船に乗る者達は、一生あの島で暮らし続けるのだろう。
外を知らず
己の置かれた立場も知らず
ただ、狭い世界で勝手に作られた上下関係に従い
死んでいく。
知らぬが花か?
それとも、地獄か?
もう、それすら、アッカにとってはどうでも良いことだった。
海風が、短くなった髪を揺らす。
前髪が風に煽られ、おでこが丸見えになる。
ソラティオは、彼女の顔をハッキリと見るのは初めてだ。
太陽に照らされ、意志の強い眼差しを真っ直ぐ前に向けるアッカに、一人の青年が恋に落ちるのは、致し方ないことだったのかもしれない。




