入学式と波の音
私、狩野綾波はいま、たぶん――
ちゃんと笑えている。
鏡の中の私は、口角を少しだけ上げて、
「大丈夫」って顔をしている。
本当に大丈夫かどうかは、わからないけど。
今日は、私立富士海高校の入学式。
制服の袖を引っ張りながら、玄関で深呼吸する。
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「綾波、リボン曲がってる」
後ろから、落ち着いた声。
波音が、私の肩越しに手を伸ばして、リボンを直す。
三年生の制服。
同じ形なのに、なぜか少しだけ大人に見える。
「……ありがとう、波音」
「緊張してる顔」
波音はそう言って、小さく息を吐く。
「でも、最初はそれでいいでしょ」
玄関の向こうから、
「波音ー、綾波ー!」
穂波の声が飛んでくる。
「先行くからね!」
その背中を見送りながら、
波音は私の横に並んだ。
「穂波は、ほんと変わらないね」
「……うん」
「綾波は、考えすぎなところも」
図星で、何も言えなかった。
⸻
校門の前。
人の波の向こうに、見慣れた姿があった。
「おはよう、波音」
仁が、自然に声をかける。
肩を並べる距離が、昔から変わっていない。
「おはよう、仁。
もう生徒会?」
「うん。朝の確認」
二人のやりとりは、
長い時間の上に積み重なったみたいに、当たり前だ。
私は、その少し後ろで立ち止まる。
「綾波も、おはよう」
仁が振り返って言う。
「おはよう、仁」
その声は、波音に向けるのと、少しだけ違う気がして、
私は理由を探さないことにした。
⸻
「あやなー!!」
穂波が、もう新しい友達の輪の中で手を振っている。
その近くに、海が立っていた。
ポケットに手を入れて、でも視線は、穂波のほうに向いている。
私が近づくと、海は気づいて、
「よっ、綾波」
「よっ、海」
短い言葉だけで、
ちゃんと“いつもの場所”に戻れる。
⸻
入学式。
私は、前の席に座る穂波の後ろ姿を見て、
そのさらに前の列にいる仁と波音の背中を見る。
二人は並んで座っている。
同じ学年で、同じ時間を過ごしてきた人たちの距離。
横では、海が落ち着かなく足を揺らしていた。
みんな、同じ場所にいるのに、
見ている方向は、きっと、少しずつ違う。
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放課後。
私と穂波は、制服のまま海辺に向かった。
靴を脱いで、砂の上に座る。
波の音が、ゆっくり近づいて、また遠ざかる。
「ね、綾波」
「なに?」
「高校生だよ、私たち」
「……うん」
それだけで、なぜか笑ってしまった。
⸻
「おーい」
堤防の上から、声。
海が手を振っている。
砂を踏みしめながら、こちらに降りてくる。
「掲示板、見てきた」
「なに?」
穂波が身を乗り出す。
「俺ら三人、同じクラスだってよ。
一年間、よろしくな」
そう言って笑う海の目が、
一瞬だけ、穂波に向いた。
「ほんと?」
穂波の声が弾む。
「ほんと。名前、ちゃんと並んでた」
⸻
「それ、朝から聞いた」
後ろから声。
振り返ると、波音と仁が並んで立っていた。
同じ歩幅で、同じタイミングで、ここまで来たみたいに。
「三人一緒なんでしょ」
波音が言う。
仁は、小さく笑う。
「にぎやかになりそうだね」
私は、その二人を見て、
昔からそこにあった“並び”を思い出してちょっと顔をしかめる。
⸻
「一年間、よろしくね、海」
私が言うと、海は一拍おいてから、
「おう。よろしく、綾波」
穂波が、私の腕に絡む。
「ね、綾波。
これで毎日一緒だね」
「……ああ、毎日な」
海はそう言って、夕焼けのほうを見る。
⸻
五人分の影が、砂浜に並ぶ。
長くて、少し歪で、でも、ちゃんと隣り合っている。
私は、その影を見ながら思った。
この一年は、
きっと、ただの“同じ時間”じゃ終わらない。
波音と仁の並ぶ背中。
穂波の笑顔。
海の視線。
そして、私の、貼り付けた笑顔の下で――
何かが、静かに動き始めている。
波の音みたいに、
ゆっくり、でも、確かに。




