七日目-3-
二人がホテルに戻ってきたときには、すでに日が暮れていた。
すでにぐったり疲れていたが、まだ今日は終わっていない。
マリエルは、部屋に戻るとすぐに外套を脱ぎ、クローゼットにしまっていたいつもの衣装を手に取った。
手早く着替えを終え、髪をまとめようとして、ふとベッドの上に置いた紙袋に手が止まる。
マリエルの心臓が、優しく跳ねた。
(違う────)
マリエルは、ぎゅっと拳を握り締めた。
今日は、ルドウィクに休んでもらうつもりだった。
このままホテルに居たら、また執務をはじめてしまうかもしれない。いや、きっとそうしていた。
だから。
(不遜な、ワガママを、申し上げた)
周辺の散策をしよう、などと。
はじめは、すべてルドウィクのためだった。
敵だらけのホテルから連れ出したのも、普段は着ないような柔らかい服を選んだのも。
全部。
(それなのに────)
喜んでしまった。
また優しさを頂いてしまった。
(なにをやっているの)
昨日、決めたばかりだというのに────。
閣下は、ずっと自分を見守ってくれていた。
私がうっかりあの露店に目を留めてしまったとき、すぐに気づいてくださった。
そして、私からは欲したりしないことを見越して、閣下が自ら選んでくださった。
その横顔。優しい目つき。柔らかい声。
髪飾りを持たせてくださったときに触れた、暖かい指先。
それを思い出して、胸が苦しくなる。
(覚悟が、揺らいでしまう)
────このまま、ずっと一緒にいたい、などと。
(違う)
そうじゃない。
それでは、今までと変わらない。
マリエルは、紙袋から手を離した。
(閣下のために────)
たとえどれだけ嫌われようとも。どれだけ自分の手を汚したとしても、
────自分の命を、すべて使ってでも。
※※※
執務室に戻ると、ルドウィクはすぐに机の上に書類を広げた。
扉が閉まる気配に顔を上げると、マリエルと目が合った。
マリエルは静かに一礼して、隣へやってくる。
────その動作一つ一つが、どこかいつもよりも距離を感じる。
(遠い……)
普段よりも、一歩。マリエルの立つ位置が遠い。
胸に、まるで小さなとげが刺さっているかのような痛みが走る。
それを表情に出さないように、ルドウィクは柔らかな笑みをマリエルに向けた。
その視線は、ついマリエルの髪を探るように動く。
────露店で買った、あの髪飾り。
そこに無い、と気づいた瞬間、わずかに心が沈む。
そして、それに気づいてしまった自分に、ルドウィクは戸惑う。
(なにを期待しているのだ、私は)
チクリ、と痛みが増したような気がする。
ルドウィクはそれを笑顔でごまかして、視線を書類へと戻した。
そこへ、官吏が電信を持って入ってきた。
「議会から返答がきたのか?」
「いえ、閣下宛の私信です」
ルドウィクの問いに、官吏は事務的に回答する。
私信────。
その言葉に、ルドウィクはイスから勢いよく立ち上がった。
「見せてくれ」
電信を渡して、官吏は退出していった。
受け取った電信文を、すぐにマリエルに預ける。
胸に走る、緊張。そして、希望。
マリエルは暗号をすぐに解読し、読み上げていく。
「電信は……カンパニアからのものです。『講和会議に対する仲介を前向きに検討している』……とのことです」
その言葉に、ルドウィクの頬は自然と緩んだ。
「間に合った……いや、間に合うかもしれない」
希望的観測を抑えながらも、ルドウィクは力強く手を握り締める。
続く文面には、仲介使節が現地に向かうことが記されていた。
「ラバルナのカンパニア大使館から、この講和会議の議場までお越しになるそうです」
「いつだ?」
思わず食い気味に、ルドウィクは尋ねていた。
マリエルはさっと文面を確認してから、答える。
「……到着は、明日の予定だそうです」
「そうか……そうか!」
ルドウィクは右の拳を左手に打ち付ける。
まだ、安堵していいような段階ではない。手放しに喜べるわけではない。
(それでも────)
状況を、変えることができる。
ルドウィクは、深い安堵のため息をついた。
「これで、次の手が打てる」
そう言って顔を上げて、隣にいるマリエルへ微笑みかける。
マリエルは、ただ黙って一礼した。
────その表情は、どこか硬く、重い。
(……まただ)
胸の奥に、説明のつかない感覚が広がる。
不安。疑念。まるで締め付けられるような、冷たい感触。
問いただす権利など、自分にはない。してはならない。
ルドウィクは気づかぬふりをして、再びイスに腰を下ろした。
※※※
夜。
マリエルは、ベッドの上で静かに考えていた。
(私が、閣下のためにできること────)
邪魔者を殺す?
そんなマネは自分にはできないし、それではルドウィクにまで迷惑が及ぶ。
ハニートラップ?色仕掛け?
……やったことないし、そもそも顔を知られている相手には難しい。
(焦るな、私)
マリエルは、自分に言い聞かせる。
急に大きな成果を上げようとするのが間違い。今はできることを一つずつ。
それだけだ。
そして、マリエルはそっと目を閉じた。




