落下
人魚の像が見えてきた。人魚の像がある大岩の上で動く小さな影も。
「の…」
「カイル様、急にお声をかけるとノア様が驚かれ足を滑らすかもしれません」
ノアと叫びそうになるカイルをウェンターが小声で止める。
ノアがいる大岩の周りは岩だらけだ。おまけに窪みに水が溜まるように水が流されているため、水に濡れ岩が滑りやすくなっている。
『氷はまだなの!』
屋敷のほうから金切り声が聞こえてきた。
大岩にいる影もカイルもその声にビクッと肩を揺らす。
人魚の入り江はミアのベッドからよく見える位置に作られている。声は部屋に籠った熱気を逃すために開けられた窓から漏れてきたのだろう。
ここで大声でノアの名を呼べば、ミアの部屋にいるラミラに聞こえてしまうかもしれない。そうなれば、怒られるのはノアだ。
「私が下から近づきます。カイル様はノア様に姿を見せて優しく声をかけていただけますか?」
うまくできるかどうか分からないけれど、カイルはウェンターの言葉に頷く。他に方法もない。ノアを驚かせないように姿を見せて、動かないように言わなければならない。屋敷には聞こえないように。
カイルはノアのほうを見て、目を見開いた。
それは幻想的な光景だった。
月の光が、金色の輝きが一本の筋になって、人魚の像の方に降り注いでいた。
「つきのみず…」
カイルが惚けて見とれていると、ウェンターが焦った声で現実に引き戻した。
「カイル様、ノア様は今からコップを持って降りようとするでしょう」
ウェンターの言う通り、大岩の影はキョロキョロと何かを探している。コップを持って降りられる足場を探しているのだろう。
ウェンターが音を立てずに走っていく。カイルもその後ろを必死に付いていこうとするが、大人と子供、当然差が開いていく。
『ノアなんてほおうておきなさい!』
ビクリと震えた影が岩場からスッと消える。
「ノア!」
屋敷に聞こえようが構わずにカイルは叫んだ。前を走っていたウェンターの姿はもうない。ノアが落ちたと思われる場所に向かったのだろう。
人魚の入江を回り込んで、ウェンターの背中をカイルはやっと見つけた。ウェンターに抱き上げられているのだろう、小さな足が見える。
「の、のあ、は?」
息を切らせながらウェンターに問いかける。
大丈夫、大丈夫と言い聞かせながら。
ウェンターの腕からポタリポタリと落ちる黒い滴はただの水だと。
「早く手当てをしましよう」
振り向いたウェンターの腕の中には白かったはずの寝間着を斑に違う色に染めたノアの姿があった。
「カイル様、座っていただけますか?」
カイルは血塗れのノアの姿から目が離せなかった。
「カイル様!」
きついウェンターの声にカイルの濃い青の瞳が動く。
「座ってノアを支えて下さい。応急処置をします」
カイルは何も考えられずにその場に座り込む。
ウェンターはノアの上半身をカイルに凭れさせると、素早く上着を脱ぎ地面に敷いた。そこにノアを寝かせ、ノアが握りしめている割れたコップをそっと取り上げた。
「つきのみす…」
「大丈夫です。ちゃんと入ってますよ」
弱々しいノアの声にウェンターが安心させるように応えている。上の方の形を失ったコップには、ちゃんと水が残っていた。
「の、のあ…」
カイルはノアの赤くなった寝間着部分に触れる。ヌルリとした感触が手にひろがる。水じゃない感触。絶対にノアの寝間着からしない感触。
カイルは人魚の入江を見た。岩に白い布のようなものが引っ掛かっている。ノアの寝間着の切れ端だろう。目の前の岩場は尖った岩が多くて危ないと言われていた場所だった。
「傷が深い。止血が出来ない」
ウェンターの焦った声が聞こえる。
カイルは赤くなった自分の手を見て震えていた。
「カイル様、ウェンター様」
トマスが息を切らせてやってきた。真っ白なタオルを抱えて。
「トマス、タオルを」
ウェンターはトマスからタオルを奪い取り、ノアを手早くタオルで包み込むと抱き上げた。
「カイル様、行きましょう」
カイルは虚ろな目でウェンターを見上げた。ノアを包んでいる白いタオルの色が変わっていく。それに合わせてカイルの目も大きく開く。
「あ…」
「先に行っています。トマス、カイル様を頼む」
ウェンターは痛ましそうにカイルを見ると振動を与えないようにけれど足早にその場を去っていく。
「カイル様」
トマスはカイルに優しく声をかけ、地面に残されたウェンターの上衣を拾い上げた。上衣に溜まっていた何かが服にかかったが、気にしている場合ではない。
ふと目に止まったのは割れたコップ。
「コップ?」
トマスの言葉にカイルの視線が動く。
「つきの…」
カイルは割れたコップを掴むと屋敷に向かって走り出した。
「カイル様!」
トマスが声をかけるがカイルはウェンターの後を追いかけるように走っていく。屋敷から使用人が出てきた使用人がカイルのほうに走ってきているのも見えた。
『温かい飲み物と言ったでしょう』
窓から聞こえてくる声に肩を竦めながら、トマスは大きく頷くとカイルと反対方向に走り出した。
一章 完
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