第1章:股間地獄
はじめに
本書は、地方の広告代理店に勤務するごく普通の20代半ばの男性、桜ジョーが体験した「痛みのクロニクル(年代記)」である。
全ての始まりは、仕事で訪れたメキシコ・テオティワカン遺跡。そこで彼は、人生最大の不条理、すなわち「毒アリにアソコを咬まれる」という、神様がデバッグを忘れたとしか思えない悶絶級の災厄に見舞われる。
業火で燃えるような股間の痛みに耐え、意識が遠のく中、彼の脳裏には過去に味わってきた数々の「イタイ」出来事が走馬灯のように駆け巡る。
これは、一人の男の尊厳とハードウェアを脅かし続けた数々の受難を、涙と爆笑で綴った物語である。
第1章:股間地獄
痛み指数:[Pain Scale: ■■■■■■■■■■ 10/10]
ステータス:Critical Hardware Failure(致命的なハードウェア故障)
メキシコの陽光は、暴力的なまでに強烈だった。 北米出張のついでに訪れたテオティワカン遺跡。そこで待ち受けていたのは、人生最大の理不尽、すなわち「神がデバッグを忘れた」としか思えない悶絶級の災厄だった。 突然、股間に走る雷鳴のような激痛。
ぐわぁぁぁぁっ!!!
真っ赤に熱せられた刀身を押し当てられたような熱量に、全身の毛穴から脂汗が噴き出す。
何が起こったのか、皆目見当がつかない
少々武道の心得がある私は、「人前でむやみに騒ぎ立てるのは潔くない」という、この場では一円の価値もない薄っぺらな武士道精神をいらぬところで発揮した。震える手でベルトを緩め、そっとパンツの中を覗き込む。
……なんじゃこりゃ! そこには、現実離れした阿鼻叫喚の地獄絵図が展開されていた。
私は、都会とは言いがたいが、田舎ほどではない地方の広告代理店で働いていた。仕事の一環で、日本のある地方自治体の幹部職員とその地方で開催されたミスコンテスト受賞者等をその市の姉妹都市へ連れてきていた。
一行をメキシコのとある街まで引率して、現地公式行事の合間に観光先であるテオティワカン遺跡へ向かう途中だった。
VIPとミスコン美女を乗せた貸し切りバスが赤信号で止まるたび、現地の子供たちが土産や食べ物を売ろうと車窓にしがみついてくる。必死の形相で「センエン、センエン」と叫ぶ彼らに気圧され、私は窓を開けて一人の少年に千円札を渡し、ビニール袋一杯の果物を受け取った。
「サボテンの実ですね。皮をむいてあるので食べやすいですよ」 同乗していたスペイン語通訳の男性が教えてくれた。
一口食べると、驚くほど甘い。
「美味いですね! サボテンの実、いけますね」
彼もそうだろうといった顔をしていた。予想以上の美味だ。 私は前席に座る、実家が寺だという偏屈な上司、貝塚にも勧めた。
「桜君、これはなかなか美味いね。……ただ、手がぬっちゃりして気持ち悪いな」 タダでもらっておいて悪態をつくのが彼らしい。確かに、袋の中は果実の粘液でベタベタだ。
実を半分ほど食べたところでギブアップした。袋の口を軽く縛り、車窓をあけて前後に車がいないことを確認して、サボテンの繁殖を祈りつつ、できる限り遠くへ投げ捨てた。
バスの中で手は洗えない。私はハンカチで指先を拭うのが精一杯だった。粘液まみれのハンカチを無造作にズボンの左ポケットへと押し込んだ。
ほどなくバスはテオティワカン遺跡に到着した。 一面に広がる灰色の石造建築。階段状のピラミッドがそびえ立ち、石畳の間からは生命力あふれる雑草とウチワサボテンが顔を出している。
自生するサボテンを見るのは、これが初めてではない。約3年前、テキサスに住む兄を訪ねた際、彼は私を車で郊外へ連れ出した。
「ジョー、野生のサボテン見たことないだろ?」 そう言って、地平線まで続くサボテンの群生を見せてくれたのだ。
兄は昔からスクールカーストの最上位に君臨し、常に冷静沈着、宿題を一度も忘れたことがないような人間だった。中学生のとき、一度だけ宿題を忘れて教師に怒鳴られた際も、 「先生、宿題を忘れて困るのは僕であって、あなたが体面を守るために感情的に怒る必要はありません」 と毅然と反論したという。私はその話を聞いて以来、尊敬する人物は「兄」だと答えるようになった。
対する私は、小中高を通じて一度しか宿題を提出したことがない。その一度きりの宿題も、「桜、お前がやるはずがない、嘘をつくな」と教師に決めつけられ、教室の後ろで正座させられた。
兄とのテキサスの思い出を、メキシコのサボテンが呼び起こす。 ……だが、回想に浸る余裕は一瞬で消し飛んだ。
テオティワカン遺跡のサボテンの陰で、私は襲われたのだ。 そっと覗いたパンツの中。 そこには、私の「生命の根源」とも言える二つの宝珠に、無数の赤茶色のアリが狂ったように食らいついていた。
「何か?」と言わんばかりの平然とした顔で、ヤツらは私の金タマに牙を深く突き立て、脚をぶらぶらとさせながら、重力に身を任せてぶら下がっている。
……なぜ脚を使わない!? 激痛で脳が変質したのか、私はアリの懸垂フォームに疑問を抱くという、光速を超えたタキオン粒子並みの速度で的外れな思考を巡らせていた。脳科学的にはスピンドルニューロンの仕業だろうが、当の本人はそれどころではない。
「キョー! ひゃー! ぬぐぅー!」
人間とは思えない奇声を上げながら、私はなりふり構わずアリを叩き落とした。幸い、スーツのスラックスは脚に余裕があり、叩かれたアリたちは次々と地面に落下していった。もしこれがスキニージーンズだったら……想像するだけで背筋が凍る。
足元を見ると、そこはアリたちのテリトリーだった。私はボーッと奴らの巣の上に立っていたのだ。 ピラミッドを登っていく美女軍団に魅せられて。
無様なガニ股でその場を脱出し、近くにいた黒曜石売りの男に助けを求めた。
「ガッハハハ! アリに金タマを咬まれただと! そんな奴は初めてだ!」
男は腹を抱えて大笑いしたが、貴重な情報をもたらしてくれた。
「毒アリだが心配ねえ、死にゃあしねえ。痛いだけだ。……まあ、めちゃくちゃ腫れるだろうがな!」
毒! 毒アリに金タマを咬まれたのか! 死なないが、腫れる。 私の金タマは、ウチワサボテンのように肥大するのか!
人類初かもしれない「金タマを毒アリに咬まれた男」として、私はぎこちない足取りで、遺跡を堪能した一行をバスへ案内した。ミスコン美女たちやVIPたちは、私の股間の惨劇に気づいていない。
しかし、バスが揺れるたびに激痛が走る。座席に座ることもままならず、額からは滝のような汗が流れる。そんな私の異変に、一人の美女が気づいた。
「どうかしたのですか?」
私は痛みのあまり判断能力を失っていた。彼女にすべてを正直に話してしまった。
「……毒アリに、その、金タマを、咬まれて……」
軽蔑されると思いきや、彼女の瞳はキラキラと輝き始めた。
「えっ、嘘、見せて! どんな感じになっているの? ねえ、見せて!」
まさか、ミスコン美女から「あなたの金タマを見せて」と懇願される日が来ようとは。本来なら歓喜すべきシチュエーションだが、今の私にあるのは10段階中の10の痛みだけだ。 彼女は私の横に座り、好奇心に突き動かされてズボンに手をかけようとする。私は必死に抵抗した。
「無理、無理! 本当に痛いんだ!」
車内の後方で繰り広げられる、美女と私の攻防戦。すると彼女は、真顔で静かに囁いた。
「――毒は吸い出したほうがいいのよ。私がやってあげる」
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